第35話 大人と子供の境界線
目の前に手を差し伸べられている。思わずその手を掴むと、体が引っ張り上げられた。
目をぱちくりと丸くして数歩下がれば、そこに立つ男性の姿が視界に映る。
「具合でも悪いのかい?」
「…………ううん、ちょっと考え事をしていただけ」
ジャージを着た背の高いその人は、私の返事を聞いて、よかったと白い歯を見せて爽やかな笑顔を浮かべた。
「こんな所で蹲っているから、何か事件に巻き込まれたのかとばかり。大丈夫そうでよかったよ」
「ありがとう。悩んでいただけなの。大丈夫よ」
「道に迷っているとかなら教えようか?」
「ううん。恋の悩みなの」
「それは一大事だ」
専門外だな、と彼は短くさっぱりした髪をくしゃくしゃ掻いて笑った。太陽に茶色い髪が透けて鮮やかなオレンジ色に光る。
そういえばこの近くには広い公園がある。その前を通るとき、よくジョギングする人をみかけるのだ。彼もそのうちの一人だろう、とジャージとスニーカーに目を向けて思う。ジョギングをしている人達の顔は晴れやかで、汗がキラキラと輝いている。今の彼の顔も同じ笑顔だ。
それじゃあ、と彼は笑顔で私に手を振って走り去ろうとする。けれど目の前から歩いてきた犬に吠えられて、驚きそのまま足を捻って転ぶ。私は慌てて彼に駆け寄った。
「大丈夫?」
「あ、いやあ、はは。お恥ずかしい」
慌てて謝る犬の飼い主に微笑んで彼は立ち上がる。そしてそのまま立ち去ろうとするけれど、私はその手を引っ張って止めた。
そのままズボンの裾をめくる。わっ、と驚きの声が上がったけれど構うことはない。
彼の脛からは血が出ていた。さっき転んだときに擦りむいたのだろう。じわぁと滲んだ赤色が肌色を覆って痛そうだ。
「大変、死んじゃう!」
「そんな大袈裟な」
「バイキンが入ったら怖いのよっ」
しばし沈黙した後、確かに、と言って彼は笑う。
私は彼の手を取った。ついてきて、と言ってその腕を引っ張る。どこに行くの、と彼は私の後ろをついてきた。
「手当てをしてあげる」
怪我をしたら手当てをするの。当然のことよ。
私は彼の手を引いて、怪我の手当てをできる場所へと向かった。
「いらっしゃいませ」
喫茶店の扉を開け放つと、コーヒーの香りがふわりと香った。私達がソファー席に座るとほぼ同時にマスターがお水を運んでくる。私の前に一つ、男性の前に一つ、そして真ん中に置いたのは救急箱。まだ何も言っていないのに。
目を丸くしてマスターを見上げると、彼は一礼をして店の奥へと戻っていく。その際私の腕からチョコを取り上げて「手伝いなさい」と連れていくのを忘れずに。ぬいぐるみのフリをしているチョコは抵抗できずに無言で連れていかれてしまった。
自分でやるからと制す彼を無視して、傷口に消毒液をドパドパとかける。靴にしみこむくらい大量の消毒液をかけてから包帯を巻いた。一巻き、二巻き、三巻き。七巻きくらいしたところで彼はありがとうと足を引っ込めた。
「絆創膏でもよかったのに。何か飲むかい? 奢るよ」
彼はメニューを開き私の方に向けた。私はクリームソーダを選び、彼はコーヒーを注文する。
すぐにチョコが注文した商品を運んできた。メイド服を揺らしごゆっくりと言うチョコに、男性は表情を変えず、爽やかな笑顔で礼を言う。
運ばれてきたコーヒーを一口飲んで彼は目を丸くした。うま、と口を押さえて驚く彼を見て、くすくすと肩を揺らす。
「マスターの入れたコーヒーはおいしいのよ。友達皆そう言うの。私は飲めないけど」
「コーヒーは苦手?」
「苦くて、喉がきゅーってしちゃうから」
私はクリームソーダのアイスを崩しながら溜息を吐く。シャリシャリとしたバニラアイスの甘味が舌の上でとろけた。
コーヒーの香ばしさが分かれば大人になれるのかしら。チョコレートを溶かしたココアの甘さより、ホットミルクの滑らかさより、舌にジンと染みるコーヒーの苦みを大人は喜ぶ。
「ここは居心地がいいね」
彼は窓の外を眺めて青白い朝の光にそっと目を細めた。屋根にとまる小鳥の軽やかな鳴き声が、心地よく店内に転がってくる。
薄く差し込む日差しに彼の目元が照らされる。さっぱりとした輪郭が白く浮く。穏やかな朝の時間を静かに堪能している彼の様子は、随分爽やかで、思わず見とれてしまった。
前に喫茶店で勉強をしていたとき、湊先輩が食べているガムを一つもらったことをふと思い出す。緑色のミントガムは喉がスースーしてとにかく辛かった。私は泣いてしまって、湊先輩を慌てさせてしまったのだっけ。
彼を見ていると、あのときのスーッと喉が冷える感じを思い出す。
なんだかまとう空気が爽やかな人なのだ。ドロリと濃厚なチョコレートのような黒沼さんと、真逆のタイプね。
「朝早くからやってるんだね。走った後にも、軽く寄れそうだな」
「夜も遅くまでやっているのよ。いつでも来れちゃうわ」
「マスターさんはちゃんと休んでいるのかな?」
「マスターは宇宙人だから眠る必要はないんですって」
そうよね、とカウンターにいるマスターに視線を向けると、マスターはマスクを一撫でして小さく頷いた。彼は微笑んでコーヒーを啜る。カップをテーブルに置くと黒い水面が揺れた。
本も置いてあるから読み放題なの、と私は本棚から本を取ってきてテーブルに置いた。英語で書かれた読めない本から、難しい日本語で書かれた読めない本、それから漫画本。漫画は千紗ちゃんが家から持ってきたものだ。
彼は一番上に乗っていた雑誌をパラパラとめくる。と、楽しそうだった表情が一瞬陰りを見せる。
私が本屋さんで見たのと同じ雑誌だ。鷹さんのところで出している。彼が見ているページは私が見ていたところと同じ、『ヤクザと警察の鬼ごっこ。楽土町に爆増する薬物の出所を追え!』と書かれているページだ。
「物騒なのは嫌だねぇ」
争いが治まればいいのに、彼は嘆息して首を振る。眉間にしわを寄せ、楽土町のこの先に憂いを抱いているようだ。
誰だって自分達の街が物騒になっていくのは嬉しくないだろう。不安そうな彼を見つめ、私は大きく胸を張る。
「大丈夫よ。安心して。どんな事件だって、私が何とかしてみせるわ」
「何とか? ええと、どうやって?」
「実はね……私はなんと、魔法少女なの!」
「はぁ」
「魔法の力で変身して敵を倒しているの。こんな悪い奴らだってあっという間にやっつけちゃうんだから! 不安にならなくていいのよ。私がこの街を平和にしてあげる」
彼はしばし呆気にとられたように口を開け、それからふっと息を零すように笑う。私はその反応を見て少し唇を尖らせた。だってその反応は、昨日黒沼さんに向けられた反応と同じだ。
彼は私のことを笑って、くだらないこと、と馬鹿にした。
「……………………?」
あれ、と不意に思う。
魔法少女になってから。なる前から。私が魔法少女について語ったときの皆の反応がふと頭によぎる。
初めて会ったときの湊先輩や、千紗ちゃん、雫ちゃん。クラスの子や先生に私の夢を語ったときも、皆は私の言葉に、薄く笑っていた。
その笑顔は本物の笑顔じゃなかった。
私はそのことに、唐突に今気が付いた。
「……………………」
「どうかしたの?」
「…………信じてないの?」
私は考えた末に気が付いたことを口にした。
そうだ。きっと皆、私が魔法少女であることを信じていなかったんだ。魔法少女なんて夢をいまだに見続けている子供だと思っていたんだわ。
何故今突然そのことに気が付いたのか分からない。これまで何の疑問も抱かず、皆に魔法少女であることを自慢していたのに。
なんだか頭の隅がズキリと痛んだ。一瞬でその痛みは消えたけれど、私の心にはぼんやりとした不安の輪郭が残っていた。
彼は黙って私を見つめて微笑んだ。少し困ったような笑みを見て、やっぱり信じていないのだと悟る。急にそんなことを気にしちゃって、私、どうしちゃったのかしら……。
「すまない。可愛いなって思って」
私は無言でクリームソーダをかき混ぜた。鮮やかな緑色に白が溶けて濁る。ストローで一口吸えば、シュワシュワだった炭酸は少しまろやかになっていた。
私の無言を怒りと受け取ったのか、彼はもう一度謝って頬を掻く。そしてテーブルに肘をついて私に身を乗り出した。
「魔法少女か。それは素敵だね。でも、あまり一人で頑張りすぎなくてもいいんだよ」
「え?」
「この街の平和を守ろうとする人間は他にもいるんだから」
そう言って彼はくっとコーヒーを飲み干した。
「俺がしているジョギングは、巡回が目的なんだ」
「巡回?」
「毎朝少しルートを変えて街のあちこちを見て回る。近所の人に挨拶をしたり、路地裏の猫が集まりやすいスポットを見つけたり。そうしながらこの街の変化を確認する」
「それって、お散歩みたいなもの?」
「お散歩ほど気楽じゃあない。不良のたまり場になっていないかとか、不審者がいないかとか、そういうことを確認するために回っているんだ」
「……パトロール?」
思いついた単語を呟けば、彼はポンと手を打って笑った。
パトロール、と私は繰り返し言った。声が弾む。だってパトロールだなんて言葉をこうして使うのは初めてだわ。こうしてみると……なんだか……凄くかっこいい!
「素敵! あなた、私と同じ世界を救う仲間なのね! 素晴らしいわ! 今日私達が出会ったのもきっと運命よ!」
「運命か。へえ、それは嬉しい」
「ねえ連絡先教えてちょうだい。おまわりさんのお友達なんて私はじめて!」
そう言って携帯を取り出した私は、電源が消えていることに気が付いてボタンを押した。けれど電源が入った途端、何故携帯を切っていたのかを思い出す。
「ギャッ」
思わず潰れた悲鳴をあげてしまう。画面にズラリと表示されているのはママからの不在着信だ。下にスクロールしていっても不在着信はどんどん続いている。昨日の夕方あたりからひっきりなしに電話がかかっていた。
携帯が震えて飛び上がる。噂をすればということか、『ママ』と表示された画面がブルブルと震えていた。咄嗟にまた電源を切ってしまう。
「あわわ」
「あれ、出ないの」
「ママママから電話が」
「ママママ?」
私は勢いよくクリームソーダを吸った。最初に食べてしまったサクランボの茎をガジガジと歯で噛んで項垂れる。
「ママと喧嘩してるの。昨日、はじめて反抗しちゃった」
「はじめて? それはまたどうして?」
「子供扱いされたのが嫌だったの」
私は唇を尖らせた。けれどすぐ下唇を噛み、喉の奥から込み上げてくる悲しみを飲み込む。子供扱いしないでとママに反抗した昨夜のことを思い出す。
私の前には可愛いクリームソーダのグラスが置かれている。甘くてシュワシュワの子供が大好きな飲み物だ。向かいに座る彼の前にはコーヒーカップ。どこまでも苦い、大人の飲み物……。
「…………本当は子供でいたいのか大人になりたいのか、よく分からないの」
口にした声は思っていたより沈んでいた。空になったグラスの中の氷が僅かに溶けて、グラスの底に溜まるのをぼんやりと見つめながら言う。
「大人になりたいわ。憧れているもの。だけど、ちょっと怖いの。……私はコーヒーよりココアの方が好き。パパとママのことが大好きだから大人になっても一人で暮らすなんて無理。ドレスとハイヒールが似合う素敵な女性になりたいけれど、高すぎるヒールは転んでしまうわ。こんなので、大人になれるとは思えないの」
私は『大人』に憧れている。だけど実際に自分が大人になったときのことは、よく想像できない。
子供でいたいという気持ちと、早く大人になりたいという気持ち。その両方が胸の中でぐるぐると渦巻いているのだ。
目の前に座る彼は、凄い偏見だ、と私の言葉を笑った。それから一転してほんの少し低くした声で静かに言う。
「そんなものだよ」
そんなもの、と私は繰り返した。彼は無言で頷いて言葉を続ける。
「子供のときなんて皆そうだ。子供でいるとき、大人でいるとき、その両方の間でぐるぐる回っている。なにも一気に変わる必要なんてない。徐々に変化させていけばいいのさ。誰だって急に変わることは怖いと思っているんだから」
「そうなのかしら…………」
「それに君は昨日、初めてお母さんに反発したんだろう?」
「うん」
「それがもう既に、君がちょっと大人になった証明じゃないのかい」
私は目を見開いて彼を見つめた。まっすぐな視線が交差して数秒。私は溜息と共に言葉を吐き出す。
「大人っぽい考えね」
まったくだ、と彼は笑った。彼の笑い声はスカンとまっすぐ響く声をしている。喫茶店の壁にトンとぶつかった彼の笑い声は私の背後でゆるゆると揺れていた。
私は目を伏せる。まつ毛の下に僅かに滲んだ水滴が、正面の彼の姿をおぼろげにしていた。
「大人になったら夢を見ないって聞いたわ。現実を見なさい、とも言われた。だけど現実って何? 夢を見るのは悪いことなの? ……私大人になりたいわ。だけど、夢だって諦めたくはないのよ」
「それでいいんだよ。大人にだって色々いる。夢を見る人だって、ココアやクリームソーダの方が好きな人だって大勢いるさ」
君は大人を勘違いしている、と彼は微笑んだ。
「君がなりたい大人っていうのはきっと、しっかり自分を持っている人間のことだよ。他人に支配されない、自分の意思で、自分の思うように行動することができる人間のことだ」
「自分を持っている人…………」
「無理に大人になろうとする必要も、子供でいようとする必要もない。たった一つの大事なことだけを守れればいい」
「大事なことって、何?」
「自分の気持ちを大事にすること。それさえできれば、誰だって変わることができるんだ。君は君らしくあればいい」
私はゴクリと唾を飲みこんで、大人だわ、と彼に言った。言葉に込められた力強い思いが伝わってくる。胸が熱くなってドキドキと高鳴った。
ねえ、と私は彼に身を乗り出した。勢い込んだまま尋ねる。
「大人になった今のあなたには夢がある?」
「あるよ」
彼は力強く頷いて言った。
「この街を笑顔溢れる街にすることが俺の夢だ」
その言葉を聞いて私は、胸に詰まっていた思いを「素敵ね」という言葉にして告げた。
モヤとなっていた悩みがすぅっと晴れていく。さっぱりとした胸の中に、素直な自分の気持ちが浮かぶ。
自分の気持ちに従って、ただまっすぐに進めばいい。
私は、私らしく。
「私も自分の気持ちを大事にしてみるわ」
「うん、それがいい」
「とりあえず、まずは……」
「うんうん」
「ママに謝らなくちゃ」
そう言って私は携帯を取りだす。あははっ、と笑って彼は優しく微笑んだ。
日の中でキラキラと輝く笑顔は、昨夜の黒沼さんと対称的だった。明るく爽やかな笑顔。私の胸がドキリと大きく跳ねる。なんだか頬が熱くなって、じんわりと汗が滲んだ。
優しい人ね。とっても紳士的で、大人の人。
素敵な人だわ…………。
「その意気だよ頑張れ。ええと……自己紹介がまだだったね」
「ありすっていうの。私の名前」
「俺は澤田っていうんだ」
よろしくねありすちゃん。そう言って彼は笑う。
爽やかな笑顔は朝にぴったりの素敵な笑顔で、湊先輩がいたらきっと思わず写真に収めていただろう、と思った。
「昨日ラブホテルに行ったの」
「ブッ」
翌日の午後、皆で勉強をしているときだった。喫茶店のテーブル席で私がうっとりと思い出を話すと、雫ちゃんと湊先輩が揃って飲み物を噴き出した。
ゲホゲホと顔を真っ赤にして咳き込む二人にきたねえと言いつつ、千紗ちゃんが妙に楽しそうな笑顔で私の肩を組む。
「おいなんだって? どこに行ったって?」
「ラブホテルよ」
可愛いお部屋だったわ、と私はうっとり頬を染めながらアイスココアに浮かんだバニラアイスをストローでつつく。私の向かいに座る湊先輩が唇を引くつかせながら私を凝視した。
「…………あれだろ? お城みたいで可愛いからって一人で遊びに行ったんだろ? まったくありすちゃんったら」
「初めて会った男の人と行ったのよ」
「ハジメテアッタオトコノヒト!」
「一晩一緒に寝たの」
「ヒトバンイッショニネタ!?」
「大人について教えてもらったの」
「オッ…………」
湊先輩の顔が真っ青に染まる。彼の握っていたシャーペンがボキリと折れた。
ふらふらと力なくテーブルに突っ伏した彼の肩を揺するも起きる気配はない。その隣で雫ちゃんは顔を青くしたり赤くしたりと忙しなく、千紗ちゃんはといえばさっきから笑いっぱなしで真っ赤な顔をしていた。
「なんだよ湊。実はありすのこと好きだったのか?」
「いや、どちらかというと……妹かな…………」
「妹の初体験はショックだわな」
「やめろ!」
本当なの? と雫ちゃんが顔を真っ赤にして私に尋ねる。本当よ、と私は胸を張って答えた。
「大好きなアニメやお菓子のことを一晩中お喋りしたの。とっても楽しかった。気が付いたら眠っちゃっていたけれど、夢の中にまで魔法少女が出てきたの。素敵だったわ!」
「えっ?」
「どうかして?」
「え。ええと……その……お喋りをして眠っただけ?」
「だけって?」
「えと、服を脱いで抱きしめ合ったりとか、ええと、そういうのは……」
「どうして服を脱ぐの? あっ、お相撲?」
雫ちゃんの顔が真っ赤に染まり、肌にだらだらと汗が浮く。彼女はパッと私から顔を反らしてなんでもないと首を振った。
千紗ちゃんがうんざりした顔で私から顔をそむける。つまんねえ、と言ってガジガジストローを噛んでコーラを啜った。湊先輩はというと、突っ伏していた顔を上げ、目を丸くして私を見つめてから、はぁっと大きく安堵の溜息を吐いた。
「なんだ。寝たって言葉通りの! 僕はてっきりホテルでセッ」
「せ?」
湊先輩は途中でガチンと歯を鳴らす勢いで口を閉ざした。そのまま柔らかな微笑みを浮かべ、テーブルに広げた勉強を黙々と再開する。私はそんな彼の肩をまた揺さぶった。
「何言おうとしてたの?」
「この話題引っ張る感じ?」
中途半端に止められると気になっちゃうわ、と彼の顔を覗き込む。左右に目を泳がせる彼の顔が雫ちゃんと同じでどんどん真っ赤になっていく。
雫ちゃんは無言で窓の外を見てアイスティーをちゅうちゅう吸っている。その耳は赤い。千紗ちゃんもニヤニヤ笑って彼の顔を覗き込んだ。
「あたしにも教えてよ先輩。新しい英単語? せ? え、分かんなぁい。せっく? えっ?」
「く、クソッ…………」
「あ、そうだわ単語といえば、意味を知りたい言葉があるの。昨日その人が言っていたのだけれど」
「よぅしそっちを聞こう。どんな英単語? オレンジ? ティーチャー? マザーっていうのは日本語で母親っていう意味で……」
「セックスって何?」
「もしかして僕今いじめられてる?」
「友達に聞いてごらんって言われた」
湊先輩は顔を覆って項垂れた。千紗ちゃんが微笑みを浮かべてそっと保健体育の教科書を渡してくる。
「ありすちゃん。もうその人に関わらない方がいいよ」
「あら。どうして?」
「だっておかしいよ。はじめて会った高校生をほ、ホテルに連れ込むなんて……。絶対に危ない人に決まってるよ!」
雫ちゃんの声がテーブルに跳ねる。いつもよりも少し大きな彼女の声に、湊先輩と千紗ちゃんも顔を上げた。
危ないよ、と雫ちゃんはもう一度言った。目の前にコロコロと転がってきた彼女の言葉をストローでつつく。茶色いココアが伝ってぽたりと小さな水たまりを作った。
「もう会っちゃ駄目?」
「駄目だよっ。悪い人だったらどうするの? 次会ったらどうなるか分からないんだよ。街で見かけても声をかけないようにしなくちゃ」
「でももうこの喫茶店の場所教えちゃったわ」
「え」
タイミングを見計らったようにカランとベルが鳴る。
私以外の全員が弾かれたように振り向いた。私はその中でのんびり手をあげ、入ってきた人物に微笑みを浮かべる。
「黒沼さん!」
「やあ」
来ちゃった、と手を振りながら彼は言った。今日の彼はスーツ姿だった。これからお仕事に行くのだろうか。灰色のシャツと黒いスーツの袖から覗く手だけが、白く艶めいている。
彼はマスターにコーヒーをテイクアウトで頼むと、コツコツ靴を鳴らして私達の元へやってくる。勉強して偉いね、と笑う低い声がしっとりと私達の肌を撫でていく。と、湊先輩が慌てた様子で立ち上がって黒沼さんに詰め寄った。
「なんでここにっ?」
「なんでって、彼女に教えてもらったからさ。おしゃれなお店だな」
「教えてって……まさか、ありすちゃんが一緒にいた相手って…………」
「友達って本当にいたんだ。しかも、そのうちの一人は君かぁ」
黒沼さんは湊先輩を見つめて薄く笑った。知り合い? と聞けば、隣人だよという答えが返ってくる。
彼の目がちらりと他の二人を見つめた。雫ちゃんがビクッと肩を跳ね上げ俯き、千紗ちゃんが舌打ちをしてガンを飛ばす。
「可愛いね」
黒沼さんが二人を見て微笑んだ。雫ちゃんはポッと頬を赤く染め、千紗ちゃんは苦虫を噛み潰したような顔で彼を見つめる。提供されたコーヒーを一口飲み、彼は嬉しそうに笑った。
「本当だ。うまい」
「でしょう? 他の飲み物も食べ物も、とってもおいしいのよ」
「へぇ。次は別なのも頼んでみようかな」
次は、と千紗ちゃんが小さく彼の言葉を繰り返す。黒沼さんがチラリと彼女を見れば、千紗ちゃんは大きく背中を膨らませて、ぞわりと肌に鳥肌を立たせ顔をそむけた。
「また来るよ」
彼は静かにそう言って私達に微笑んだ。けれどテーブルを離れるその間際、細くなった目はチロリと皆を観察するように見つめてから離れる。
彼が去った途端皆は大きな溜息を吐いた。短い時間だったけれど、黒沼さんの存在感は強く、まだ彼のまとう冷たい煙草の香りがこの場に残っている。
ありすちゃん、と雫ちゃんが私に不安そうな顔を向ける。その目には少し涙がたまっていた。
「知らない人にどんどん自分の居場所を教えたら駄目だよ」
「駄目なの?」
「駄目っ!」
「でももうこの喫茶店の場所教えちゃったわ。もう一人」
「え」
タイミングを見計らったようにカランとベルが鳴る。
私以外の皆が振り向いた。またかよ、と千紗ちゃんが低く唸る。私はその中でのんびり手をあげ、入ってきた人物に微笑みを浮かべる。
「澤田さん!」
「やあ」
来ちゃった、と手を振りながら彼は言った。今日の彼はスーツ姿だった。白いシャツとネイビーのスーツ、首元の青いネクタイが爽やかだ。黒沼さんと同じスーツスタイルなのに雰囲気がまるで違う。
コーヒーをテイクアウトで注文する彼に、私は微笑みながら言った。
「今日はお仕事?」
「うん。これからまた見回りに行くんだ」
澤田さんはそう言って、こちらに笑顔を向ける。
皆は澤田さんに会釈をする。朝の日差しのようなさっぱりとした笑顔は、強張っていた皆の表情を少し緩めてくれたように見えた。
「よくここで勉強してるの?」
「ええ。ここはお勉強がはかどるのよ」
「はかどるだけでお前さっきから答え全部間違ってるんだよ」
「あらま…………」
澤田さんが肩を揺らして笑う。出されたコーヒーを一口飲んで、やっぱりおいしいとご機嫌に言って、彼はカップを揺らす。
「俺もここはご贔屓にしたいからさ。もし分からないところがあったら、いつでも教えてあげるよ」
「本当? じゃあこの夏休みの宿題全部やってちょうだい!」
「全部分からないのか」
それは無理、と言われて私はテーブルに突っ伏す。澤田さんは高い笑い声を響かせ、目尻に滲んだ涙を拭った。
「また来るよ。勉強、頑張って」
そう言って手を振ると彼は喫茶店を出ていった。風が吹き込んで喫茶店の空気をふわりと揺らす。
私は彼の背が見えなくなるまで手を振ってから皆に顔を戻した。じっとした視線が私を射抜く。千紗ちゃんが怪訝そうに眉間にシワを寄せ、私に問う。
「誰だよあいつら」
「私のお友達。多分、ヤクザさんとおまわりさんよ」
「は?」
皆は揃ってポカンと呆けた顔をする。
喫茶店には沈黙が広がった。しばらくしてから絞り出すような声で、ちゃんと説明しろや、と千紗ちゃんが言った。
私は笑顔で語りだす。二人と出会ったときのこと。相談を聞いてくれたこと。薬物の売人のこと。
語り終わってふと顔を上げれば皆の顔は酷く険しくなっていた。私はうふふと笑って、甘いアイスココアをゴクリと飲む。
「私、あの二人に恋しちゃったかもしれないわ!」
ファーストキスの相手の黒沼さん。私の悩みを受け止めてくれた優しい澤田さん。大人の魅力が素敵な二人はどちらもかっこよくて、私はどうしても二人に惹かれてしまったのだ。
また沈黙が広がった。
しばらくしてから千紗ちゃんがもう一度、ちゃんと説明しろや、と言った。




