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変身しないで縺ゅj縺ちゃん  作者: 夜明
第2章 世間
36/99

第34話 ラブホテルとファーストキス

 ホテルっていうのがどういう場所か、私知っているわ。お泊りができるお部屋のことでしょう? 前に一度、誕生日にパパとママに連れてきてもらったことがあるもの。ふかふかのベッドと綺麗な景色が見える広いお部屋で、バースデーケーキを食べたのよ。二段もある大きなバースデーケーキ。ラブホテルってそういうパーティーをするところでしょう? ……え、違うの? 教えない? どうして笑うの? なによ、黒沼さんったら!


 いじわるな黒沼さんに頬を膨らませながら、私はエレベーターを降りた。けれど膨らんだ頬も部屋の中に入った途端一気にしぼむ。部屋の中を見渡して、私は小さな歓声を上げた。

 そこはお姫様の部屋だった。

 壁も床も家具も全てがピンク色の部屋だ。ユニコーンのぬいぐるみや、ハート形の枕など、愛らしいものがあちこちに置かれている。ダブルサイズのベッドはなんと天蓋付き。

 お風呂に行けば、そこもまたピンクのライトで照らされた可愛いお風呂だった。私はあわあわのお風呂できゃあきゃあはしゃぎ、用意されていた可愛いパジャマにまたはしゃぐ。


「素敵! お姫様のホテルね!」

「喜んでもらえてよかった」


 俺もシャワーを浴びてくる、と黒沼さんが部屋を出ていった。

 直後鞄の中に隠れていたチョコが勢いよく飛び出してくる。ベッドに寝転んでいた私の体に、ふわふわピンクの体が思いっきり体当たりをしてきた。


「ありすちゃん。今がチャンスだ。早く逃げよう!」

「あら。お泊りは嫌い? もっと遊びましょうよ」

「ありすちゃん!」

「もう。退屈なの? ほら、あそこにゲーム機があるわ。きっとチョコみたいな子のために用意してあるのよ」

「あのスロットマシーンはそういうものじゃないよ」


 逃げようよ、と私の服を引っ張るチョコを抱きしめてベッドに転がる。こんなに可愛いお部屋なのだから、もっと楽しまないと損だわ。

 私はテレビを付けてみた。魔法少女かプリンセスのアニメが流れると思っていたのだけれど、予想に反して流れたのはスポーツの映像だった。男の人と女の人が全裸でお相撲を取っている。


「ねえチョコ。どっちがお相撲勝つと思う?」

「君は保健体育の成績いくつだったっけ?」

「ええとね、この間渡された成績表だと、一だったわ」

「だろうね」

「ナンバーワンよ」


 浴室の方から扉が開く音がした。チョコがギクリと体を強張らせてぬいぐるみのフリをする。

 振り返るよりも先に、視界の横にぬっと腕が突き出された。冷たい水滴がぽたりと首筋に落ちて、肩が跳ねる。


「何見てるの?」


 低い声が耳元をくすぐった。お相撲よ、と答えれば彼は一瞬眉間にしわを寄せた後、ふぅんと鼻にかかるような声で微笑んだ。暗い瞳がテレビを見つめる。

 彼が身に着けているのはズボンだけだった。ぼんやりとした部屋の明かりに、濡れた素肌が晒されている。細身だと思っていたけれど腹筋が割れていた。意外と鍛えているのね。

 私の背後に覆いかぶさった黒沼さんは、そのまま私の体を優しく抱きしめる。濡れた腕に這う炎のようなタトゥーが動くと、まるで蛇がうねっているように見えた。

 肌に黒い炎が泳いでいる。腕から伸びた炎は背中に、そして首筋を伝って顎付近までにも広がっていた。


「これなぁに?」

「トライバルタトゥー」

「とらいばるたとゅー」

「ふふ。うん、それ」


 私は思わずそっと炎に指を這わせる。滑らかな肌とは言えなかった。あちこちに爪が引っかかる。よく見れば彼の体にはたくさんの傷があった。打撲痕や切り傷がいたるところに存在していた。


「どうしてこんなに傷だらけなの?」

「猫に引っかかれた」

「痛そうね…………」


 猫って思っていたよりも獰猛なのね、と言えば黒沼さんは引きつったような声で笑った。それからくっと腕を伸ばし、私を抱きしめる。後ろから手や頬を撫でられる。彼の体からしたたる水が冷たくて、私はきゃっきゃと声を上げてはしゃいだ。

 けれど、くすぐったくて身を捩っても、黒沼さんは私を離してくれなかった。やめてと言っても彼の腕から逃れることができない。彼の手が頬からゆっくりと移動し、私の首をなぞる。


「ひゃっ」


 私は目を丸くして、暴れるのをやめる。彼の手が私の首を撫で、するりと服の内側に入って肩を撫でる。もう一方の手が内ももにするりと触れた。妙にぞわぞわと背中が震えて、私は困惑に首を傾げる。


「黒沼さん? くすぐったいわ。やめて?」

「大人になりたいんだろ?」


 私の頬にかかった髪を彼の指がそっと払う。甘いピンク色の髪はサラサラと広がって、枕元に倒れていたチョコの顔を覆った。

 私も彼も無言だった。長い前髪の下から覗く彼の笑んだ眼差しが、ゆっくりと近付いてくる。呆ける私の唇に、彼の甘い吐息がかかる。その唇が私に触れそうになる……。


 そうよ。私はここに、大人の恋愛をしに来たのよ。

 大人。そう。私は、大人に…………。


「くすぐりあいっこね!」

「は?」


 私はパッと笑顔を浮かべて黒沼さんの腰に手を伸ばした。彼は目を丸くして、呆けた声をあげる。

 私は彼の腰を掴んでこちょこちょとくすぐった。パパやママにするみたいに。無邪気に。


「ふふん。黒沼さんがやりたいこと、分かってるわ。くすぐりあいっこでしょう?」

「……………………」

「私強いのよ。パパもママもいつもすぐ笑っちゃうんだから。負けないわ!」

「……………………ふふ」


 私は笑いながらこちょこちょ黒沼さんをくすぐった。彼はしばらくポカンと私を見つめた後に、小さく笑った。

 彼の笑い声はじょじょに膨らんでいった。体を丸め、くっくと肩を揺らして笑う。私がくすぐるのをやめても笑い声は止まらなかった。

 彼はひゅっと喉に息を吸い込むと、声を爆発させたような大声で笑いだす。


「あははは!」


 黒沼さんの顔は真っ赤に染まっていた。心底たまらない様子で笑い続け、咳き込み、涙を目尻に滲ませながらも笑い続ける。

 笑い声は部屋中に反響し、それに怯えたようにチョコが僅かに身を固くしたのが視界の端に見えた。


「もう、我慢するの限界」


 はー、はー、と息を整えた黒沼さんは頬を引きつらせた笑みを浮かべて私を見つめる。

 私は思わず身を固くした。

 彼の眼差しから、さきほどまでの優しい面影は消えていたのだから。


「君さぁ。そういうキャラ付け? それともガチ?」

「え?」

「ああそれとも……やっぱり薬のせい?」


 ガラリと黒沼さんのまとう空気が変わった気がする。私は彼の意図が読めず、ただ唖然とその笑顔を見つめていた。

 不意に彼はズボンのポケットからぐしゃぐしゃになった紙袋を取り出した。彼の指が乱暴に袋を引き裂き、中身が私に向かってばらまかれる。


「そろそろ本当のことを言うけどさ」


 私は雨のように降ってきたそれをぽかんと見つめ、唇の横に落ちた一つを摘まんだ。

 それは小さな灰色の錠剤だった。


「この辺りで薬物撒いてんの、君?」


 ゾッとするほど冷たい声で黒沼さんは笑った。

 茫然として彼を見上げていれば、その指が私の喉にゆっくりと回された。冷たいような熱いような不思議な感覚がぞくぞくと肌を舐める。細い首をぐるりと指が囲んだ。


「何のこと?」

「とぼける気?」


 彼の手に軽く力が込められた。少しの力だというのに喉がぐっと締め付けられ、息が苦しくなる。目を剥いて彼の指を引っ掻けば力が緩められて、乾いた咳を吐き出した。


「や、やめてよっ。何をするの?」

「『はい』か『イエス』かくらい、ラリってても返事できるだろ? 質問してんのはこっちだよ」

「だから、何の話なのって聞いて、きゅっ」


 今度は強く喉を絞められた。目の前が真っ赤になって、息ができなくなる。首からミシリと嫌な音がして気が遠くなる。はくはくと酸素を求める口からだらりと涎が垂れて、枕に垂れた。

 また彼の指から力が抜ける。酸素が一気になだれ込んできて、咳を繰り返した。喉が苦しくて頭の奥がチカチカと点滅している。大粒の涙を流し、私は困惑と恐怖を混ぜた目で黒沼さんを見つめた。


「俺が何で君にこんなことするか教えてやろうか」

「ひゅー。ひゅっ。ひゅうぅっ」

「はは、返事もできない。ちょっと絞めすぎた?」


 ごめんね、と黒沼さんは乾いた声で笑った。私の首筋に浮かぶ汗をぬるぬると指で撫でる。


「楽土町で最近薬物が流行ってるのを知ってるか?」

「…………?」


 私は首を横に振った。黒沼さんは仕方ないなぁ、と微笑んで少し乱暴になった声で語りだす。


「平和なこの街でも以前から薬物の売買は存在していた。ただ、ここ最近、その範囲が急速に広がっているんだ。しかも今流行ってんのは安価で依存性の高い新製品。今まで薬物に触れたことがなかった人間まで手を出している。

 クラブ、学校、工場、駅のトイレ、ショッピングモール。そこらじゅうで薬物の売買が行われている。競争者が増えたおかげで価格はぐっと安くなったもんだから、買う側としては喜ばしい限りだろう」

「……………………」

「売人だって小遣い稼ぎでやってる連中がほとんどだ。そういうやつらにとっては、価格が下がったと言えど、それでも十分な稼ぎになってる。

 でもなぁ。薬物の市場価値を勝手に変えられちゃ困る人間だっているんだよ。薬の稼ぎだけで生活していたやつだけじゃない。誰だか分かるか?」

「わか……らな……」

「ヤクザだよ」


 黒沼さんは低い笑い声を零した。

 彼の腕が震え、タトゥーが怪しく揺れる。


「ヤクザは薬が御法度だとか言うけど、ここいらをシマにしてる組は違う。薬もシノギの一つだ。儲かるからなぁ。

 だから薬の価値が下がると困るんだ。売人一人一人をとっ捕まえて、もう薬を売らないようにお願いしていかなくちゃなんねぇ」

「お願い…………」

「『僕達の稼ぎを邪魔するのはやめて!』って言って回るんだよ。聞いた話だと、確かもう五人以上にはお願いしたんだったかな? 皆すぐに薬売りをやめたってよ。……ま、売れない体になったって方が正しいかな。はは」


 だけどキリがねえ、と黒沼さんは吐き捨てるように言った。


「売人なんて繁華街のネズミみたいなもんだ。あとからあとから湧きやがる。

 だから組は、売人の中でも特に力の強い奴らを探してる。そこを叩けば、芋づる式にズルズル他の売人共も捕まえられるからな。

 ま、そういう奴らを探してんのは警察も一緒だけど」

「警察?」

「薬物の蔓延を止めるため。それから、売人本人の保護をするためにさ。ヤクザに捕まって殺されんのと、警察に捕まって薬物の禁断症状に苦しむのとじゃあ、どっちがマシだと思う?」


 色んな情報が一気に流れ込んできて、頭がぐるぐるする。

 警察とヤクザが追っている売人。薬物。

 どうして彼は今、そんな話をしているのかしら。


「俺もその売人を探しているんだ。だから君をデートに誘ったんだよ」

「え?」


 私の心を読み取ったように黒沼さんは答えた。けれどその言葉の意味をすぐに理解することはできない。


「この辺りにも売人がいるという情報があった。と言っても大した情報じゃない。髪が派手な、高校生くらいの女。それだけだ。アバウトすぎて笑うだろ? ま、相手も流石に犯罪に手を染めてる連中だ。自分の情報が極力もれないように気を付けてるんだろうさ。

 君を見た瞬間ハッとした。特徴にぴったりだったから。しかも初対面で意味分かんねえことばっか言ってるだろ? これはもう確実に薬やってる奴の言動だなって思ったよ」

「黒沼さ…………」

「最後にもう一度質問させて。この辺りで薬物撒いてんの、君?」


 いいえ。私じゃないわ。それは多分千紗ちゃんのことよ。髪の毛がキラキラしていて可愛い高校生の女の子。私の友達なの。

 そう言いたかったけれど、唇が震えて上手く言葉を吐けなかった。無言でゆるゆると首を横に振る。涙の粒が耳に流れ落ちた。


「わだしやないっ。ゲホ」

「……………………」

「わ、わたしじゃ、ゲホ。ない! ゴホッ」

「……………………あっそ」


 黒沼さんがパッと両手を上げる。首にかかっていた圧迫感がなくなって、私は体を丸めて咳き込んだ。

 彼はそんな私を一瞥もせず、低い溜息を吐いて取り出した煙草に火を付ける。濃い紫煙が揺れているのが、ぼやけた視界に映る。


「はー……一日無駄にした。こんなおかしい奴、確定でクロだと思ってたのに。売ってもいないし買ってもいない。ただのナチュラル脳味噌メルヘン野郎か」

「く、黒沼さん?」


 何、と彼は冷たい声を吐いた。苦い煙がゆらりと彼の肌に絡む。


「ヤる? いいよ。当てが外れようが外れまいが、会った子とは大体皆やることやってるし」

「やる……?」

「セックスに決まってんだろ」

「…………?」


 私が首を傾げると、彼はハッと大きな声で笑って煙草の煙を吐きだした。短くなった煙草を灰皿に押し付ける。彼は私を横目で見やると、「ガキかよ」と嘲るように吐き捨てた。

 節ばった指が私のシャツを摘まむ。指はそのままシャツの下に潜って私のお腹をするりと撫でた。ひ、と小さな悲鳴が喉から零れる。


「脱がせてあげる」


 彼の体が私を覆う。照明が遮られて目の前が暗くなる。逃げ出そうとしても彼の手が私の体を掴んでいるせいでちっとも動けない。

 ふと、この間湊先輩がベッドで私に覆いかぶさってきたときのことを思い出した。あのとき彼が言ったこと、私が聞いたこと……。

 黒沼さんの指が服の下を這って、下着に触れた。


 …………あ。嫌だ。私、どうしたのかしら。

 なんだか、これ。怖い。


「…………嫌」

「……………………」

「や。……やめて」


 彼の手を押しのける。弱々しい力ではその手はびくともしなかったけれど、彼は小さな溜息を吐いて手を引っ込めた。

 私は素早く彼から距離を取った。顔からは血の気が引いていくのに、心臓はドキドキとうるさい。まるで体中の血が胸に集まっているかのようだ。どうしてだか頬に汗が滲み、私は手の震えを押さえようと枕をくしゃくしゃに抱きしめた。


「めんどくさ」


 黒沼さんが気だるげに前髪をかきあげ、冷めた眼差しで私を見下ろす。とうに私から興味も好意も失せた目を直視することができず、私は思わず顔をそむけてしまう。


「君さぁ。もう高校生だろ? いい加減そのキャラもキツイから。ちゃんと現実見えてる?」

「み、見えてるわ……」

「嘘つき。遊んでる間色々喋ってくれたけどさ、なんだっけ? 可愛いものやピンク色が好きで……ああ、魔法少女も好きなんだっけ。まさか映画まで見させられるとは思ってなかったけど。そういうのが好きって女の子はそりゃ子供だろうがババアだろうがいるけど、君はなんていうか、レベルが違う」


 私はシワの寄ったシーツをじっと見つめて黙っていた。見開いた目がピリピリと乾燥して痛む。けれど瞬きはしない。彼の言葉が黒いモヤのようになって私の心を覆っていく。


「君友達いないだろ」

「いるわ。千紗ちゃんでしょ、雫ちゃんでしょ、あと……」

「それ本当に友達? 勝手に思い込んでるだけじゃないの」

「友達よ! 私達は三人で魔法少女に変身して、世界を守ろうと……」

「はぁ、なるほど。その子達も君と同じ頭のおかしい子ってわけ。高校生にもなって魔法少女だなんてくだらないこと言ってんの」


 くだらない、と私は彼の言葉を反芻して、その目を凝視した。

 枕に指が食い込む。ピッ、と小さな音がして、枕が少し破ける。


「魔法少女なんて現実にいるわけないだろう。そんなこと、あの映画館にいた君以外の全ての子供でさえ分かってる! どれだけお姫様として育てられたら、そんな甘ったるい人間に育つわけ?」

「ちが……。わ、私は…………」

「言っただろ? この街は最近治安が悪いんだ。そんな呑気なことだけ考えてこの世の中生きていけると思ってんのかよ。君みたいな子はあっという間に潰される。……いいや、どれだけ平和な街であっても君は生きていけないな。いつまでもそんな、馬鹿みたいな夢を見て、現実を見ていないんだから!」

「っ…………」


 俯いてしまう私に黒沼さんは、怒った? と笑いながら顔を覗き込もうとしてくる。

 私は返事をする代わりに、枕を彼の顔に投げつけた。切れ目が広がって、中身の羽毛が空中にぶわっと飛び散る。

 そして、私は彼を思いっきり殴った。


「ぶっ!」


 黒沼さんの体がベッドに倒れる。枕越しなのに、打撃音は思いのほか重かった。

 潤んだ視界には枕に叩きつけた自分の拳がぼやけて映る。枕に腕が突き刺さっている。気のせいか袖から伸びる腕が一瞬、ぬるりと粘ついた奇妙な黒色に見えた。


「なによ!」


 私は枕から腕を引っこ抜き、枕元の受話器を続けざまに彼の顔に振り下ろす。ちょうど顔を上げようとしていた黒沼さんは真正面から打撃を受け、あっと悲鳴を上げてまたベッドに沈んだ。


「なによ、なによ、なによ!」


 ガツンガツンと受話器を振り下ろす。黒沼さんは顔を押さえて呻き、私の攻撃を避けようとする。けれど避けきれなかった一撃が彼の高い鼻を叩いた。

 バキ、と受話器が砕け、破片が辺りに飛び散った。私は肩で息をして、顔を押さえて俯く黒沼さんの胸倉を掴み上げる。バラバラと薬が落ちて、雨のようにシーツに散らばった。


「人の夢を馬鹿にしないで!」


 黒沼さんはポカンと呆けた顔で私を見つめる。真っ赤になった鼻から血が伝い、シーツに滴った。

 怒りで頭の奥が白く沸騰している。ぐつぐつと煮立った脳味噌が溶けて口から零れ落ちてしまいそうだ。

 どうして急に彼の態度が変わってしまったのか分からない。馬鹿にされる理由が分からない。

 だけどそんなのはどうでもいいわ。

 何より一番私の心を傷つけたのは、魔法少女をくだらない、と蔑まれたことだった。


「夢を見ることの何がそんなにいけないの!?」


 現実を見ろって、湊先輩にも言われたわ。

 だけどそれは、人の夢を馬鹿にしていいってことにはならないわ。

 誰にだって夢があるじゃない。宇宙飛行士になりたいとか、教師になりたいとか。湊先輩はカメラで素敵な写真を撮るのが夢よ。私も同じ。魔法少女になりたいっていう夢があるの。

 大切なものなのよ。一生捨てられない、大事なものなの。

 それを馬鹿にされて、黙っていることなんてできないわ。


「人の夢を馬鹿にする人なんて大嫌いよ。最低な人! 何が大人の恋愛よ。あなた、私よりうんと子供じみてるじゃない!」


 私はシーツに散らばった薬を雑に手で集めた。小さな山になったそれをわしづかみ、固く握りしめる。


「治安が悪ければ夢なんて見ていられない? だったら、この街がとっても平和になればいいだけのことでしょう。何が薬よ。こんなの、ただのラムネに似たお菓子じゃない!」

「なっ!」


 私はガッと口の中に薬を全て放り込んだ。黒沼さんが顔色を変え私の口を無理矢理こじ開ける。けれど私はべぇっと赤い舌を出し、空っぽになった口を見せて笑った。

 黒沼さんは唖然と私を見つめた。呆けた顔に鼻血の赤色がぽたぽたと垂れている。

 口の中がザラザラしている。乾いた粉が涎で湿って嫌な苦さが舌に広がる。このお薬にどんな効果があって、どんな価値があるのかなんて分からない。

 だって私はお薬なんてちっとも効いた試しがないんだもの。


「夢を見ることができないくらい辛い現実なんて、私が全部壊してあげる。この街を幸せな街にしてあげる」

「君……何でそんな、平気な顔で…………」

「大人も子供も誰もが自由に夢を見ることのできる世界にするの。辛いことも苦しいことも我慢することもない、素晴らしい世界にするのよ。私にはそれができるの」

「なんで…………」


 思い返せば、このときの黒沼さんの『なんで』は、違う意味の質問だったのかもしれない。

 だけど私は彼に、こう答えた。


「私は魔法少女だから」


 私は魔法少女ピンクだもの。

 皆の幸せを守るためにいるんだもの。

 世界中の皆がただ幸せに、夢を見ることのできる世界を作ることだってできるのよ。


 黒沼さんは静かに私を見つめていた。丸くなった目が何度も瞬きをする。私はそんな視線を受けて、胸を張ってまっすぐに彼を見つめ返した。

 彼の白い肌にじわーっと赤みが差す。肌に汗が浮かび、彼はゆっくりと口を手で覆った。俯いた彼の顔が見えなくなる。ただその肩だけがぶるぶると怖いくらいに震えていた。


「は、ふ」

「黒沼さん?」

「ふっ。うふふ」

「大丈夫?」


 彼はパッと顔を上げて、私の肩を力強く掴んだ。視界いっぱいに彼の顔が近付く。


「…………君さぁ!」


 彼の顔は興奮で真っ赤に染まっていた。両目はしっとりと潤み、キラキラと眩しく輝いている。

 その表情は、今日見た彼の表情の中で一番、眩しい笑顔だった。


「面白い子だねえ!」


 彼は笑いを弾ませるように言う。肩に彼の指が食い込んで酷く痛かった。けれど離してと言っても、彼は私の声が聞こえていないみたいだった。

 身を乗り出して私を顔をうっとりと眺める。止まらない鼻血がボタボタと垂れて、私の服に付いた。興奮した彼の様子は、デートのときの優しい彼でもなければ、私を冷めた目で見下ろしていたときの姿ともまるで違っていた。


「面白い女だよ。本当に! 思っていた何倍もぶっ飛んでる! 薬物一気って何だよそれ。しかも全然効いてないし。え、マジで何で? ふはっ」

「そのお薬ちっともおいしくないの。苺味にしましょ。そうしたら、もっと飲みやすくなるわ」

「あはは!」


 黒沼さんは笑い、私の頭をぐしゃぐしゃと乱暴に撫でた。髪が乱れて私はきゃーきゃー悲鳴をあげる。必死に逃げようと身を捩っているうちになんだか楽しくなってきて、私もくすくす笑った。そんな私の様子を見て、単純な奴、と黒沼さんは一層大きく笑った。


「人のこと急に殴るし。魔法少女だっていうし。やー、メルヘン女とは何度か付き合ったことあるけど、あいつらも何だかんだ現実見えてないわけじゃあなかったのに。マジで夢の世界に生きてる女の子を見たのは初めて」


 黒沼さんはひとしきり笑うと、まっすぐに私の目を見つめた。黒い瞳にキラキラと星屑のようなきらめきが散っている。


「俺、君のこと気になっちゃった」

「さっきまで酷いことしてきたのに?」

「それはそれ、これはこれ。面倒な女は嫌いだけど、ヤバイ女は大好き」

「ふぅん。黒沼さんはそういう人がタイプなのね」

「動物園の新種見てるみたいで面白くて」


 ヤバイ女というのがどういう人のことかは分からない。けれど楽しそうに微笑む彼につられて、私は肩を揺らして笑った。

 彼は腕で雑に鼻血を拭った。鼻の下に奇妙な赤い模様が生まれる。彼はそれをちっとも気にしていないみたいだった。


「動物園が好きなの?」

「ん、そうね。好きだよ」

「私も好き!」


 動物園には何度か家族で出かけたことがある。楽土町には動物園と水族館が一緒になったテーマパークがあるのだ。

 ウサギさんを撫でることができるのよ、と私は思い出を語る。楽しそうに私を見つめていた彼は、こてりと首を傾げて甘い顔で微笑んだ。


「ね。君のこと、もっと教えて?」


 ドキリと心臓が跳ねる。子供っぽく甘えた表情と正反対に、その低く掠れた声はどこまでも大人の色気を孕んでいたから。

 じわっと肌が火照る。私は急に恥ずかしくてくすぐったい気持ちになって、きゃあっと悲鳴を上げてベッドに倒れた。枕にぼすんと顔を埋める。さっき破けたところから、また羽毛がわっと空中に散らばった。

 黒沼さんが笑って私の隣に横になる。羽毛が一枚ひらひらと舞って、私と彼の間にそっと落ちた。


「いいわよ。いっぱい教えてあげる」

「うん」

「私は姫乃ありす。十五歳の高校一年生。好きなものはママが作るお菓子と、ピンク色、可愛いもの、それと」

「魔法少女?」


 彼が私より先に答える。

 私はぱちりと目を丸くしてからふにゃりと笑って、大正解、と言った。





「おはよう」


 目を開けると、黒沼さんが私の顔を覗き込んでいた。

 ぼんやりした目をぱちぱちと瞬かせてから、おはようと返せば、彼は優しい顔で笑う。

 いつ眠りについたのかよく覚えていなかった。私は腕に抱きしめていたチョコをベッドに置き、目を擦りながら身を起こす。

 枕元の時計を見れば、夜はとうに明けていた。午前七時を指す電子数字を黒沼さんが指でなぞる。


「朝ごはん食べよ。ルームサービス頼んでおいたから」


 そう言われて、部屋の中にいい匂いが漂っていることに気が付いた。テーブルを見ればそこにはおいしそうなパンケーキが用意されている。

 甘い朝食は幸せだ。ソファーに座り頬を緩めて甘さに浸る私の隣で、黒沼さんはブラックコーヒーを飲んでいた。


「黒沼さんはコーヒーだけ?」

「朝はあまり食べないんだ」

「コーヒーがお好きなのね」


 昨日もカフェで彼はコーヒーを飲んでいた。

 黒沼さんはカップの中の黒い水面をぼうっと見下ろして、微笑みを浮かべる。


「まあ、よく飲むかな」

「おすすめのカフェがあるの。コーヒーがとってもおいしい所なのよ」


 私は飲めないけれど、と言って魔法少女カフェの名刺を渡す。この名刺は以前、形式上にとマスターが用意したものだ。私達以外に配っている姿は見たことがないけれど。

 鞄に適当に突っ込んでくしゃくしゃだったそれを受け取った黒沼さんは、変わらぬ笑顔でありがとうと言って名刺を胸ポケットにしまった。


「ココアやクリームソーダもおいしいのよ」

「へえ。時間ができたら、今度遊びに行ってみようかな」

「私もほとんど毎日友達とお茶をしているの。千紗ちゃんと、雫ちゃんと、湊先輩もいるわ」

「…………湊?」


 黒沼さんが僅かに眉間にしわを寄せて私を見た。私はそうよ、と適当な相槌を返してパンケーキにフォークを刺す。


「このパンケーキとってもおいしい。一口どうぞ」


 フォークで刺したパンケーキを彼の口元に持っていけば、彼は微笑んでぱくりとその一口を食べた。口端に付いたシロップを赤い舌がぺろりと舐める。

 間接キスだね、と彼は言った。昨日も言われた言葉だ。私はまた頬を赤く染めて、少し俯き、彼の肩に頭をもたらせる。


「…………ねえ黒沼さん」

「なぁに?」

「私ね、本当は昨日の夜、あなたが何をしようとしていたのか分かってたのよ」

「え?」

「恥ずかしかったの。だから、くすぐりあいっこなんて言って、誤魔化しちゃった」


 思わず両手で押さえた頬が熱い。羞恥にまつ毛を震わせて、私はぎゅっと下唇を噛み締めた。

 黒沼さんがカップをテーブルに置いて、私の顔をじっと見つめた。嘘、と小さくチョコの声がベッドの方から聞こえた気がする。

 私は彼の顔を見つめ返し、意を決してその言葉を告げた。


「き、キスしようとしてたのよね?」

「え。ああ、うん」

「やっぱり! きゃあっ。嫌だわ、そんな……大人すぎるわ!」

「えっと……、その先は?」

「その先?」


 私は首を傾げた。数秒間考えて、スンと一度鼻を鳴らす。


「キスの先があるの?」

「いやセックスって言ったでしょ」

「セックスってなぁに?」

「……………………そのお友達に聞いてごらん」


 なによぅ。と私はむくれたままパンケーキの最後の一口を飲み込んだ。と、私の顔を穴が開きそうなくらいじぃっと眺めていた彼が言った。


「口に付いてるよ」

「え? どこ?」

「ここ」


 そう言って彼は私に顔を近付けた。

 ちゅ、と小さな音がする。

 下唇に柔く食むような感触を残して、彼の唇が離れた。


「ありすちゃん」


 手からフォークが滑り落ちて、床にカランと転がった。彼は固まった私の頬を一撫でして、艶めいた声で笑う。


「また俺と遊んでね」




 ハッと気が付けば私は電車に揺れていた。

 チョコを抱え、座席の隅でぼんやりと窓の外を見つめていたのだ。

 そのままぼうっとしていると、停車を知らせるアナウンスが流れる。ちょうど最寄り駅に着くところだった。私はぼんやりしたまま駅に降り、ぼんやりしたまま歩き出す。


「…………夢?」

「夢じゃないよ!」


 我に返ったのは、振り返ってももう駅が見えないくらいに歩いた頃の話だ。

 腕に抱えていたチョコが体をバタつかせて鋭い声を放つ。


「やっぱり危ない奴だったじゃないか! あのまま殺されてたらどうするつもりだったんだい!? まったく。湊くんといい、あの黒沼とかいう奴といい、君は危機管理能力がなさすぎる!」

「チョコ、どうしましょう……」

「何が!」

「き、き、キスされちゃった…………」


 言葉にした途端、唇を食まれる柔い感触を思い出し、ぶわっと全身が熱くなった。

 声にならぬ悲鳴を上げ私はその場に蹲る。道路の端に立つ電柱にコツリと頭を預け、目を潤ませた。


「キス! キスしちゃったわ! パパとママ以外の人と! で、でも困っちゃった……。黒沼さんは素敵な男性だけれども、まだ心の準備ができていないもの……」

「心の準備?」

「だ、だってキスしたら赤ちゃんができちゃうかもしれないでしょう?」

「君、赤ちゃんはコウノトリが運んでくると思ってる?」

「それか、キャベツ畑から生まれてくるんだったかしら?」

「ぼくの星でもそんなヤバイ出産方法はなかったよ」

「でもママは、『紅茶に浮かべたお砂糖の中から赤ちゃんが生まれてくることもあるわ』って言ってた」

「ううん。ママも保健体育の評価最悪だったのかな?」

「赤ちゃんって色んな所から生まれてくるのね……」


 私はしみじみ呟き溜息を吐いた。

 赤ちゃんができたらどうしよう。女の子かしら。男の子かしら。名前も考えてあげないと。可愛い名前がいいわ。マチルダ、ティアラ……ママの名前のイメージを借りてフローラっていうのも素敵ね。マーガレットちゃん、プリンセスちゃん……。男の子だったらアダムくん、プリンスくん、エンジェルくん……。


「ねえ君大丈夫? こんな所で蹲って」


 ふと、視界に影がかかって私は振り向いた。

 そこに立っていた一人の男性が、心配そうな顔で私を見下ろしていた。

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