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変身しないで縺ゅj縺ちゃん  作者: 夜明
第2章 世間
35/99

第33話 大人の恋愛

「ねえチョコ。夏といえば、何かしら?」

「枝豆とビールかな」

「そうね、恋よ!」


 私は雑誌の見開きいっぱいに大きく書かれた「ロマンチックな恋をしよう」という言葉にうっとりと頬を染めた。

 昼過ぎの街中。大きな本屋さんの一角で私は立ち読みをしている。普段は絵本か漫画しか読まない私が雑誌を読んでいるのが珍しいのか、チョコはしげしげと私の肩から身を乗り出して雑誌を目で追う。


「パパがよく聞いてる昔の音楽でも、ひと夏のアバンチュールとよく言うもの。夏はやっぱり恋の季節よ」

「ひと夏? 地球人は年がら年中発情期じゃないか」

「この雑誌、鷹さんの所で出している雑誌なんですって」

「鷹さん……ああ、この間の編集者」


 雑誌の裏には小さくホークス出版の文字が印字されている。

 彼女とは連絡先を交換してお友達になったのだ。学校で何かあったら連絡をくれ、と言われて、夏休みの間も何度か連絡をした。話題はもっぱらオススメのカフェや、高校生の間で流行っている遊びについてだったけれど。

 この雑誌も、今度出版すると彼女に教えてもらったものだった。普段あまり読まないけれど、案外面白いものね。


「なになに……『ヤクザと警察の鬼ごっこ。楽土町に爆増する薬物の出所を追え!』。へー、最近の女性誌は過激な内容だね」

「もうチョコ、勝手にページを捲らないで。私が見たいのはこっちの特集なんだから」

「『ひと夏の恋愛特集』?」


 雑誌に組み込まれている恋愛特集のページを開く。それは女性百人にアンケートを取り、これまでの恋愛体験を書いたものだった。

 ページのあちこちに散らばる「恋」や「愛」という言葉を見ているだけで耳が火照り、キューッと頬の内側に甘酸っぱさが広がる。

 ページを捲れば、かっこいい男性モデルさん達が自身の恋愛観について語っていた。モデルさん達の写真はどれも魅力的な一枚だった。

 スーツの袖から伸びる筋の浮いた手がとんでもなく色っぽい。シャワーを浴びた後の水滴に濡れたたくましい体にドキドキしてしまう。アップ写真の、サクサクと短いまつ毛の下の凛々しい眼差しが、紙面を貫いて私の心を射抜く。

 雑誌の紙面は冷たいのに、その向こうから温度が伝わってくるようだ。熱っぽく色めいた男性達を見つめるだけで胸が高鳴る。この人達がしてきた恋愛は、きっととても情熱的なものね。だからこそこんなに魅力的な視線やポーズが取れるんだわ。


「私も素敵な恋愛がしたいわ」


 そう言うとチョコは、どんな人と? と首を傾げた。


「特集の……ほら、この人なんか、とっても素敵」

「ありゃ。こりゃまた随分イケメンな。君はもっと可愛いタイプの男の子が好きなのかと思ってた」

「可愛い人も大好きよ。でも大人の恋愛も素晴らしいと思わない?」


 私は改めて雑誌を見つめた。憧れの恋愛の一つに、大人の恋愛、という項目があった。

 大人の恋愛ってなんだか素敵な響き。どんな恋愛なのかと想像するだけでドキドキしてしまう。子供の恋愛と何が違うのだろう。カフェで、ココアじゃなくてブラックコーヒーを頼むのかしら。ゲームセンターじゃなくて水族館に行くの? 口紅の色はピンクじゃなくて赤色を塗るの? ううん、でも私は、赤よりピンク色の方が好きだわ。

 私は人をすぐ好きになる。どんな男の子とだってきっと素敵な恋愛ができる。だけど大人の恋愛をするなら、やっぱり大人の男性とお付き合いがしたいわ。例えば……そう……綺麗な黒髪をしていて、涼しい目をした、どこかアンニュイで、ミステリアスで、イケメンで、大人で、大人で……。


「まずは、素敵な人を見つけないといけないけれど」

「あそこの店員さんはどう?」

「眼鏡がとってもよく似合っているわ。お客さんにも凄く無表情。クールな人ね、素敵!」

「あそこで立ち読みしてるおじさんは?」

「ダンディなお方……。まん丸のお腹がとっても柔らかそう。手に持つ雑誌はどんなにオシャレなことが書かれているのかしら」

「あれエロ本だよ。じゃあ、そこのお母さんと一緒にいる幼稚園くらいの子は?」

「赤いほっぺが愛らしいわ! 思わず吸い付いてしまいたくなっちゃう。でも、大人の恋愛は難しそうかも?」

「じゃああそこでコソコソしてる子は?」

「あの子は、…………?」


 奥まった本棚の所に一人の少年がいる。中学生くらいだろう彼は、しきりにキョロキョロと辺りを見回して、何やら落ち着かぬ様子だった。

 私の顔は雑誌に隠れているのか、彼がこちらに気が付く様子はない。しばらく見ていればその手はサッと棚に伸び、一冊の本を鞄に突っ込んだ。少年はそのまま何食わぬ顔で出口へと向かう。


「万引き!」


 彼が店の外に出た瞬間私は叫んだ。店内がシンと静まり返る。反対に少年はギョッとした顔をして駆け出した。出口付近にいた店員さんが慌てて彼を追いかける。

 私も後を追って店の外に飛び出した。けれど出てすぐ、店員さんは困った顔をして立ち尽くしていた。少年の姿はとっくになかった。どうも、見失ったらしい。

 けれど私は店員さんの横を駆け抜ける。迷いなく走る私にチョコが不思議そうな顔で聞いた。


「逃げた方向が分かるの?」

「ええ!」

「流石ありすちゃん。どうやって?」

「勘よ!」

「流石ありすちゃん」


 何度か路地を曲がれば道はどんどん狭くなっていく。舗装されていないデコボコの道を私は走り抜けた。転がっているバケツを飛び越え、雨風で飛ばされべちゃべちゃに張り付いたポスターを踏みにじる。

 もういないでしょう、とチョコが呆れた声で言ったとき、ようやく私は立ち止まった。

 目の前は崖だ。この辺りは高低差のある住宅街だから、この先へ進むには二メートル以上の段差を飛び降りなければならなかったのだ。

 けれど眼下に伸びる道の先に一瞬、少年の背中が見えた。あっと声を上げたときにはもう既に建物の影に姿を消していたけれど。

 そのまま飛び降りようとした私をチョコが慌てて制した。怪我をしちゃうよ、と嘆くチョコを見つめ少し考える。崖から数歩下がった私に、チョコはほっと安堵の息を吐いた。


「わっ!」


 だけど直後、私は強く地面を蹴って走る。まっすぐ前へ。足を地面に叩きつける。一歩、二歩、三……。そして、思いっきりジャンプした。

 ダンッと体が宙に飛ぶ。眼下に広がる住宅達がキラキラと日の光を浴びて輝いていた。髪がふわりと風に揺れ、浮き上がる。

 青空の下で私の体はキラキラと煌めいた。


「変身!」


 途端、私の体は変化する。

 体中がとろけるように温かな光に包まれた。数秒もたたぬうちに光は霧散し、そこから飛び出した私は地面に力強く着地する。

 ドン。と重い音がして着地した地面がへこんだ。可愛らしいピンク色のヒールが固いアスファルトにひびを入れる。ふわりと広がっていたスカートの裾から、魔法の輝きがキラキラと舞っていた。

 肩に落ちた髪は普段より一層美しい艶めきを放っている。それをサッと手で払い、私は満面の笑みを浮かべた。


「魔法少女ピンクちゃん参上! あなたの悪事、見過ごせないわ!」


 私の声は閑静な住宅街に反響した。近くの家の窓が開き、そこから目を丸くした住民が顔を覗かせた。その人は私の姿を見てギャアッと叫ぶ。

 間近で魔法少女を見られたときの喜びは計り知れないほどだものね。分かるわ。私はその人に笑顔で手を振った。ファンサービスだ。

 よし、と改めて真正面の道を見据える。少年の姿はとっくにない。けれど進んだ方向は知っている。飛び降りるとき上から見たんだもの。この先の道は左右に分かれているけれど、二つの道は同じ方向に進み、後に合流する。要するに住宅が数軒、間に挟まれているだけなのだ。


「さあありすちゃん! どっちへ進む? 右か、左か。急がないと逃がしてしまうよ!」

「考えるまでもない。決まっているでしょう、チョコ」

「おっ?」

「前よ!」


 私の肩でキョトンと目を丸くしていたチョコは、直後、体に襲いかかった突風にキャア、と悲鳴をあげた。

 私はまっすぐ前に突っ込んだのだ。右も、左も、曲がっている時間がロスになる。ならば私が進むのは前だ。

 住宅に思いっきり突っ込んだ。柔らかい木造だって固いコンクリートだって、今の私には豆腐より簡単に砕ける。バガンと大きな音を立ててコンクリートが弾けた。壁に埋まっていた何かのコードが体に引っかかり、バチバチと火花を散らしながら千切れる。

 部屋にいた住民が驚愕の表情で私を凝視しているのが視界の端に一瞬だけ見えた気がした。気にせず、床を蹴ってまた前へ駆ける。衝撃波が爆発して、部屋の中にあった家具や書類や人間を吹っ飛ばす。

 二歩分の跳躍で、三軒の家を突き破った。私は木造の家の壁を突き破り、剥がれた木材と共に宙を飛ぶ。ふと下を見れば、唖然とした顔でこちらを見上げる少年と目が合った。


「返しなさぁい!」

「ヒギャッ」


 私は少年の目の前に着地した。地面が抉れる。少年の体が一瞬宙に浮く。

 転んでしまった彼に顔を近付けると彼は悲鳴をあげた。女の子の顔を見て悲鳴をあげるなんて失礼しちゃうわ、と頬を膨らませる。その傍らに転がる鞄を見ながら、私は彼にお説教をした。


「いいこと? 万引きはいけないの。悪いことなのよ!」

「た、たすけっ。誰か…………あ、あ……」

「さあ。お姉さんと一緒に本屋さんに謝りに行きましょう?」


 私は少年の手を取ろうとした。けれど少年は口端から泡を吐き出し絶叫する。私の手を殴り、地面を這うようにして逃げ出した。

 なんて子かしら。悪いことをして、反省しないなんて!

 私はえいっと平手で彼を打とうとした。直前で少年が手を滑らせて、私の平手は空を切ったけれど、指先がちょこっとだけその肩を掠める。

 少年の体が吹っ飛んだ。近くの壁に叩きつけられた彼は、カエルが潰れたような声を上げて、口から泡を吐きくるりと白目を剥く。ずるずると地面に滑り落ちた彼は時折痙攣しているものの、もう逃げようとすることはなかった。ようやく反省したのだろう。


「もう悪いことはしちゃ駄目よ」


 私は地面に落ちていた鞄を拾い、爪で引っ掻いた。スッと簡単に鞄に切れ目が入り、そこからボロボロと中身が零れる。学校の教科書と筆箱とジャージとそれから万引きした本……。変身を解いて本を取る。最近話題になっている漫画の最新刊だった。


「ありすちゃん、早くここから離れよう」

「でもこの子を本屋さんに連れて行かないと。一緒に謝ってあげたいの」

「いいよいいよ。そういうのは本人だけでやらせてあげないと」

「そうなの?」

「それにほら。もうすぐ警察がこっちに来るよ。後はお任せしよう」


 ふと耳を澄ませば、確かに遠くの方からパトカーのサイレンが聞こえてきた。

 仕方がないからその子を置いてその場を離れることにした。サイレンの音は段々と近付いてくる。よく聞けば消防車と救急車のサイレンも重なって聞こえてくるようだった。


「この本は私が返しに行きましょう」


 あの子も後で直接本屋さんに謝りに行くだろう。そう納得し、私は地面で火花をバチバチと散らして暴れる電線をひょいと飛び越えながら頷いた。

 元来た道を歩いていると、突然目の前の道がぷつりと途切れていた。そしてまた崖が広がっている。この辺りはこういう行き止まりが多い。

 私は鼻歌を歌いながらぴょんと崖から飛び降りた。自分が変身を解いていることを思い出したのは、その瞬間だった。


「キャー!」


 落ちちゃう! 怪我をしちゃう! 死んじゃう!

 走馬灯が頭を過ぎる。ほとんど魔法少女の記憶しかなかった。私は死を覚悟して、強く目をつむる。「うおっ」と誰かの声がした気がした。きっとチョコが一足先にあの世へ行ってしまったのだ。ああ、ごめんなさいチョコ。私も今すぐそちらへ行くわ…………。

 けれど落下の衝撃はいつまでたっても訪れなかった。


「やあ」


 代わりに降ってきたのは、低く掠れた声だった。

 目を開ければ、視界いっぱいに映るのは男の人の顔。

 一人の男性が私の顔を覗き込んでいたのだ。


「大丈夫?」


 肩に触れた大きな手の感触で、私はようやく、自分の体が彼に抱きかかえられていることを知った。お姫様抱っこだ。


「空から急に人が降ってきたものだから、驚いた」

「……………………」

「…………大丈夫?」


 彼は反応のない私を怪訝に思ったのか顔を近付けてきた。薄く冷めた唇の奥にチラリと見えた舌の赤さに、思わず目を奪われる。


「…………平気よ」


 言えば、彼は私をそっと地面に下ろして微笑んだ。私はなんだかドギマギして、目を回していたチョコを胸の前でぎゅうっと強く抱える。

 長い前髪の下から深い色をした瞳が覗く。透けるように白い肌には青い血管が浮き、トンと高い鼻筋を持つ洋風の顔立ちと相まって、まるでバンパイアのような怪しげな色気を漂わせる。細身だけれどゴツゴツとした骨格の首筋や腕に炎に似た黒いタトゥ―が巻き付いて、火が肌を舐めているようだった。

 黒髪で、涼しい目をして、アンニュイで、ミステリアスで、イケメンな、大人。

 彼は、私が思い描いていた「大人の男性」、まさにそのものだったのだ。


「お兄さん、とってもかっこいい人ね」

「え?」


 ドキドキしながら言えば、彼は眉根を寄せて笑った。喉仏が上下する。その仕草さえもなんだか大人っぽい色気を感じて頬が火照る。


「真正面から言われたのは初めてかも。ありがとう」

「私、お兄さんみたいな人とお付き合いしたいと思っていたところだったの」

「おや、ナンパ?」

「あのね、最近は大人の恋愛が人気なんですって。私は大人の恋愛を知らないの。どういうものなのか、お兄さんは知ってる?」

「大人の恋愛? そうだなぁ。知っているけれど、言葉にするのは難しいかもしれないなぁ」

「あらそうなの…………」

「だからさ」

「うん?」

「君、俺とデートしない?」


 彼は腰を屈めて私に顔を近付ける。耳に大量に付けられたピアスがチャリチャリと音を立てた。

 私はキョトンと目を丸くした。それから一気に表情を明るくして、精一杯の返事をする。


「喜んで!」


 こいつらやべえぞ。と胸の中でチョコがぼそりと呟いたけれど、私にはよく分からなかった。




「まずはこの本を本屋さんに返しに行かなきゃいけないの」

「返品? いいよ。行こうか」


 デートの最初は返品作業から始まる。

 早速本屋さんへ向かおうとすれば、彼はさり気なく私の手を取って指を絡ませた。大きな手が私の手をすっぽりと包む。

 驚いて彼を見上げれば、二重の瞼をパチリと瞬かせて静かに彼は微笑み返す。嬉しくなって、私も笑った。冷たい手はサラサラとしていて、夏の暑さに心地よかった。


 まさかこんなすぐに大人の男性とデートができるなんて。幸せだわ。


 本屋さんに辿り着くのはすぐだった。店内に入ろうとした彼はふとレジを見て目を細める。そこには店員さんと話す警察の姿があった。さっきの万引きの件を通報したのだろう。


「俺はここで待ってるよ」

「中に入らなくていいの? 涼しいのに」

「本はあまり読まないから」


 冷たい手が離れていく。彼は出入口から少し離れた自販機の所に立って、私にひらひらと手を振った。

 仕方なく一人で店内に入ってすぐ、ずっと肩に乗って黙っていたチョコが口を開く。


「ありすちゃん。まさか本気でデートをする気?」

「勿論。何かいけないことでも?」

「どう見たってまともな男じゃないぜ!」


 チョコはわざとらしく身震いをした。売り場に直接本を戻しながら、私はどうして? と首を傾げる。


「空から急に落ちてきた女の子を助けるまではいいとして、じゃあデートしましょうってなるかい?」

「なったじゃない」

「いいやならない。普通はね! 普通はあんな反応しないよ。話の展開が早すぎるよ。あの男。絶対、最初からデートする相手を探していたに決まっている!」

「あの人も大人の恋愛がしたかったってこと……?」

「何ドキドキしてるんだい! いい意味じゃないよ。見たかい、あのタトゥーにピアスに胡散臭い顔! あいつは絶対軽い女の子を探しては捕まえて遊んでいるに決まってる。君のこともどうせ『頭弱そう。ヤレそう』って思ってるはずさ。まったく、ちょっと顔が地球人のメス好みだからって調子に乗りやがって。脳を解剖してやろうか。ぼくだって本気を出せばモテモテなんだぞ」

「チョコはとってもハンサムよ」

「ンホホホホ」


 難しい話は半分以上聞けない。よく分からないままにチョコの頭を撫でればとても満足そうに笑ってくれたから、私も嬉しくなって笑った。

 店員さんと警察官の横を通って外に出れば、私に気が付いた彼はふっと微笑んだ。それじゃあ行こうかとまた手を繋がれる。さり気ないエスコートがとても嬉しかった。

 彼の身長はきっと百八十を超えている。百五十そこらの私とは大分差があった。けれど歩くのは苦ではない。何故だろうと足元を見れば、彼の靴はのんびりと小さな歩幅で歩いていた。私に合わせてくれているのだ。

 さり気ない優しさが好き……なんてさっきの雑誌にも書いていたっけ。その通りだわ。とたまらない気持ちが胸をきゅんきゅんと締め付ける。


 チョコはなんだか彼のことが苦手みたいだけれど、こんなに優しい人のどこが怖いのかしら。会ったばかりだけれど、彼ってばとっても素敵。魅力的な大人の男性よ。

 ああ、どうしよう。本当に彼のことが好きになってきちゃったわ……。私達はこのままお付き合いをするのかしら。手を繋いだら次はキス? キスの次は結婚ね。式はどこで挙げましょう。お花がいっぱい咲いたお花畑はどうかしら。甘い香りに包まれて、誓いの言葉を口にするの。「愛してるよありす」って言われて、私は「愛してるわ」って……。


「そういえばお名前はなんていうの?」


 私はまだ彼の名前を聞いていないのだった。名前かぁ、と彼はぼんやり遠くを見るように目を瞬かせる。


「君は?」

「私はありす。姫乃ありすよ」

「ありす……。へぇ、可愛い名前。可愛い君によく似合っている」

「うふふっ、そうでしょう! それで、あなたのお名前は?」


 彼の目は深い暗闇の色だった。青白くぼんやりとした白目に、水分がつやりと光って濡れていた。

 赤い舌が唇を舐める。溶けかけた氷からしたたる雫のような声が、その唇から零れ落ちた。


「俺は黒沼。よろしくね、ありすちゃん」




 大人のデートをしよう、と言ってもどこに行くのか分からなかった。けれど黒沼さんが連れてきたのはなんてことない。私もよく来る駅前のカフェだった。

 おいしくて可愛い形のスイーツが女の子に人気のカフェ。今日も店前には行列ができていた。カップルも何組かいたけれど、それを含めたって男の人はほとんどいない。

 私はママともよくこのお店に来るのだということや、苺スイーツが絶品なのだ、という話を待ち時間の間中ずっと彼に語って聞かせた。席に付き、商品が運ばれてくるまで私はずっと彼に話しかけ、彼はうんうんと柔らかく相槌を打ってくれた。


「んふふ」

「おいしい?」

「ひあわせ」


 大好物の苺がたっぷり乗ったパンケーキはあまりにおいしくて、自然と笑みが零れてしまう。

 口の中が幸せでとろける。頬をモゴモゴさせて笑む私に彼は笑い、頬に付いていた生クリームを拭ってくれた。

 彼はレモンパイをゆっくり食べていたけれど、私がぱくぱくとパンケーキにパクついているのを見て、自分の皿を私の前に突き出した。


「これも食べる?」

「いいの?」

「甘い物は嫌いじゃないけど、一口も食べれば十分だから」


 私はお言葉に甘えてレモンパイも堪能した。甘酸っぱい味がきゅうっと舌の根を震わせる。さっぱりとした甘さは夏にぴったりだけれど、私には酸味が強い。


「酸っぱくてちょっとビター……これが大人の味!」

「大分甘いでしょ。大袈裟な」


 黒沼さんはコーヒーを啜った。お砂糖もミルクも入っていない真っ黒なコーヒーは、彼の名を表すように黒い沼にしか見えない。

 じっとカップを凝視する私が面白かったのか、彼はカップを私に向けた。受け取ってまじまじ水面を見つめてもやっぱりそれは黒い沼だった。前にも一度マスターの入れたコーヒーを飲んだことがあったっけ。あのときもおいしいとは思わなかったけれど、今日は大人のデートをするのだもの。大人の飲み物を飲めるようにならなくちゃ……。


「…………うえっ」

「ぶはっ」


 コーヒーを一口飲んで、私はすぐさまコップを彼に突き返した。顔がしわくちゃだと彼は体を大きく揺らして笑う。

 私の口端から垂れたコーヒーを彼が紙ナプキンで拭う。そしてもう一口コーヒーを飲んだ彼はふとカップを見て、ニンマリと笑った。


「間接キスだね」


 口直しにオレンジジュースを飲んでいた私は彼の言葉に目を丸くして、それからきゃっと小さく悲鳴をあげてテーブルに顔を突っ伏した。


 カフェの次に向かったのは映画館だ。ちょうどカップルにオススメだという話題の恋愛映画がやっているのを思い出した私は、ぜひともそれを見ようと販売機に向かう。けれど直前で横にあったアニメ映画のポスターにふらふらと導かれてしまった。

 日曜日の朝にやっている魔法少女アニメの映画だ。当然公開初日にママと見に行ったけれど、どうやらこの劇場では応援上映を行っているらしい。ポスターに大きく写る魔法少女達に目を輝かせていると背後から肩を叩かれる。振り返れば、黒沼さんがいつの間にかチケットを二枚手にしていた。


「魔法少女ー! がんばれー!」

「あはは。頑張れー」


 ペンライトの明かりが劇場を照らす。私は今にも席から立ち上がらんばかりの勢いで魔法少女を応援していた。周囲には同じく魔法少女を応援する子供達が座っていたけれど、私の声はうんと大きく、子供達の声援を掻き消す。負けていられないわ。私が一番魔法少女を応援するんだから。

 結局恋愛映画のことを思い出したのは映画館を出てからのことだった。黒沼さんの分の魔法少女ペンライトをもらい、うきうき顔で歩いていた私は立ち止まり、隣でニコニコ微笑んでいる黒沼さんをじっとりと見上げる。


「違うわ」

「どうかした?」

「私の行きたい所ばっかり! これじゃあ、いつものお出かけと何も変わらないわ。大人のデートじゃないんだもの!」


 そうだ。今日はただお友達とお出かけがしたかったんじゃない。大人の恋愛を教えてもらいたかったのだ。それなのに行くところも見るものも普段とまるで変わらない。ただ楽しんでいるうちに、気が付けばもう時間も過ぎていた。


「楽しくなかった?」

「すっごく楽しかったわ! でも…………」

「じゃあ、大成功だな」


 彼はしれっとした顔で言う。私は頬を膨らませた。

 だって大人のデートってもっとロマンチックなものだと思うのよ。水族館にもプラネタリウムにも行っていない。高いヒールを履いていないし、ドレスだって着ていない、夜景の見えるレストランにだって行けていないわ。

 ぷんぷんと不満をあらわにする私に黒沼さんは、困ったなぁ、と頬を掻いた。そのわりにちっとも困っていないような声だから、よけい私は頬を膨らませる。

 と、彼が身を屈めて私の両頬を掴む。ぽひゅ、と空気が抜けていく。私の唇はアヒルのように尖った。


「大人のデートに一番大切なことって何だと思う?」


 黒沼さんがそんな質問をした。私は怪訝に眉を顰め、肩を竦める。大人のデートに必要なこと?

 疑問に思っていれば、突然彼が私の肩を強く引き寄せた。あっと驚いた声を上げる私の耳元に、彼の唇が寄せられる。サラリとした声音が耳の産毛をくすぐった。


「好きな子を、好きな所に連れて行って笑顔にするのが、大人のデート」


 彼の爪が、カリ、と小さく私の手を引っ掻いた。痛くもくすぐったくもないのに、妙にその触感が肌に痺れるようで、私は驚いて彼からパッと身を反らす。

 囁かれた耳がジンジンと熱い。耳を手で揉み、熱を逃がそうとしても余計熱が溜まっていくばかりだ。


「あ」

「やあ、顔が真っ赤だな」

「あう…………」

「あはは」


 可愛いねぇ、と彼は低い声で囁いた。燃えて落ちる煙草の灰のように、カサついていて、熱い温度を持った声だった。

 カーッと首筋から頭の先までが炙られたように熱くなり、どうしてだか目に涙が溜まる。手に触れる彼の指先の存在を急に強く意識してしまい、私は「やっ」と首を振って彼から顔を反らしてしまった。


「お」

「お?」

「……大人すぎるわ」

「君が望んだんだろう?」

「あうぅ」


 私の表情の変化に彼は掠れた声で笑う。前髪がサラリと揺れて、チラチラと目が覗く。

 彼の笑い方は、隠れたものを暴くような、妙な色っぽさがあった。

 なんだか急に空気が変わったみたい。黒沼さんの顔を見ていると、ドロリと心が溶けていくような思いがした。心臓がドキドキと喘ぐ。彼をまっすぐ見れなくなる。


「あっ」


 不意に電話が鳴った。ビクリと、私の体は自分でも驚くくらい大袈裟に跳ねる。

 ママからの着信だった。帰ると言っていた時間から三十分も経過している。しまった。私は慌てて電話に出る。


『今どこにいるの!』


 携帯を耳に当てずとも、鋭い声は黒沼さんにも届いていた。彼は肩を竦め、うわぁ、と小さく声を上げて笑う。


『いつまでも帰ってこないで! 日が暮れたら危ないって、いつも言っているでしょう!』

「ごめんなさいママ。つい時間を忘れちゃって……」

『言い訳はよして! パパが帰ってきたらすぐ迎えに行くわ。今はどこにいるの? ……車の音がする。外なの? 暗くなったら、誤って歩道に突っ込む車があるかもしれないでしょう!』

「過保護なお母さんだなぁ」


 横から黒沼さんが呟いた。私はそんな彼を横目で見て、携帯を握り直す。手に汗をかいていたせいで滑り落ちそうだったのだ。


「あ……あのねママ。実は、街でお友達と会ったの」


 そう、お友達だ。

 今日初めて会った、大人の男性の、お友達。


「お話が盛り上がっちゃって別れるのが惜しいの。あと一時間でいいわ。今日はもう少しだけ遊んでも」

『駄目よ!』


 ピシャリとママの声が鞭を打つ。私の言葉は途中で打ち切られてしまった。


『日が暮れたら危ないわ。誘拐されたらどうするの。外には悪い人がうじゃうじゃいるのよ。ママが子供のとき暮らしていた所も、夜になると変な人が出るから、外に出ないようにってママのお母さんからいつも言われていたんだから!』


 分かったわママ、すぐに帰るから。

 いつもの私ならそう言っていただろう。けれど今日ばかりは、ママの言葉に妙に心臓がチクチクと痛んだ。


「…………ちょっとくらいいいじゃない!」


 思わず飛び出した叫びが携帯に突き刺さる。ママの声が止んだ。私がママにそんなことを言うのは初めてだった。

 一度飛び出した言葉は止まらない。私はそのまま、思いの丈をぶちまける。


「ママは厳しすぎるわ。私だってもっと友達と遊んだり、お買い物をしたりしたいのよ。ママが住んでいた所と楽土町じゃあ治安も時代も違うの。そんなに自分を押し付けないで!」

『あ、ありす……?』

「私はいつまでもママの子供じゃないの!」

『ありっ』


 ブツン、と電話を切る。我慢していた涙がとうとう零れ落ちた。私はその場に蹲って、わんわん声を上げて泣いた。

 きっと大人の恋愛なんて考えていたから。だからこんなにも、子供扱いされることが嫌になってしまったんだわ。


「ま、ママに酷いことを言ってしまったわ」

「仕方がないさ。厳しい親に反抗心を抱かない子供なんていない」

「嫌われちゃったらどうしよう」

「おお、よしよし。可哀想に」


 黒沼さんもしゃがんで私の体を抱きしめる。わんわん声を上げて彼にしがみ付けば、彼は私の頭を撫でてくれた。


「どうしよう。帰りたくないわ。ママに会うのが怖いんだもの」

「そうだねぇ。どうしようか」

「お願い黒沼さん。どうすればいいの? 教えてちょうだい」

「そうだなぁ」


 黒沼さんはのんびりとした調子でそう言って私の背を撫でていた。けれど不意に動きを止め、立ち上がる。


「それじゃあ、大人の恋愛をしようか」


 目の前に彼の手が差し出された。私は無言でその手を取る。他に取るべき行動など、何一つ思い浮かばなかったから。

 彼の後ろをついて行く。赤い目を何度擦ろうと、涙はなかなか止まらなかった。ずっと俯いていたせいで彼が私をどこに連れて行こうとしているのか分からなかった。

 ようやく涙が止まった頃、彼は足を止めた。一体どこに連れてこられたのだろうと目を瞬かせた。ぼやけた視界に段々建物の影が見えてくる。可愛いピンク色の建物だった。


「…………また、可愛いお店?」

「ちゃんと大人のお店だよ」

「バーかしら?」


 彼は笑って首を横に振り、壁にかかった看板にもたれた。そこにはこの建物の名前と共に、何かが書かれている。

 休憩二千五百円。宿泊五千円。


「ラブホテル」


 ラブホテル、と私は彼の言葉を繰り返した。彼はニッコリ微笑んで、私の背中をトンと強めに押した。よろめいた私は、足を一歩ホテルに踏み入れる。

 大人になろうねと彼は言って、酷く優しい笑みを浮かべた。

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