駆除対象
人の気配に振り向く。自販機の向こう、蛍光灯の光が細々としか届かないところに二人の男が立っていた。スーツ、カッターシャツ、ネクタイ、革靴、中折れ帽。頭のてっぺんから爪先まで、男達は黒かった。その姿は不吉そのもので、どこか葬儀屋を連想させる。
ビリビリと脳内で警報が鳴り響く。この状況は好ましくない。私の全身は真っ赤な体液に塗れているうえ、足下には爛れた巨大ムカデと干乾びた死骸が転がっている。何があったのかは分からなくとも、何かがあったことは充分に分かる。警報が強まり、思考が飽和する。
きっと、悲鳴でも上げてくれた方がよかった。戦慄き、狼狽え、逃げ出してくれた方がよかった。けれど男達は静かだった。そんな光景は見飽きたと言わんばかりに怯まず、恐怖の色を見せず、私を見据えている。その姿には蟲と同様の異質さが宿る。
私が蟲を宿しているように、彼等もまた、純粋な事実には身を置かないことを悟る。
「まずは、害虫を駆除してくれたことに感謝しよう」
男達の片割れ、身の丈が百七十ほどの男が切り出す。
「君のおかげで、我々は何の労力も何らの犠牲も伴うことなく害虫を駆除することができた」
中折れ帽が遮るため、男の貌は、表情はおろか口元が動いていることしか分からない。
「だが――」
声音が尖る。男は緩慢な動作で懐に手を入れた。
生理的に目を瞑り、開けば、そこに男はいなかった。中折れ帽だけが宙に浮いている。それは糸で吊るされているわけではなく、単に、ついていくことができなかったのだ。
土塊が砕かれる音に隣を見る。月明かりを透かす白髪、浅黒い肌、精悍な顔立ちの中で赫灼を宿した真っ黒な瞳。垢抜けた相貌に感情は滲まず、男の吐息が私の頬を撫でる。
「君も、害虫だ」
その反応に意思は挟まれていなかった。気付けば、私は背後に跳躍していた。人間離れした膂力が私を自販機の上まで押し上げる。逃走――、それが正しかった。
ワンピースが裂けていた。露出された胸には、鎖骨に向けて血の筋が浮き上がっている。
「よい動きだ」
手中でダガーナイフを手持ち無沙汰に弄び、白髪の男は私を評す。
じくじくと頭が痛む。過呼吸に過呼吸が重なり、噎せ返る。
なぜ、どうして、私は殺されようとしているの?
月明かりが陰ったことで上を向く。夜空に溶け込むように、もう一人の黒服が立ちはだかっていた。筋肉が過剰なまでに盛り上がった二本の腕で、巨大な戦斧を握り締めて。
「らあっ!」
怒声は猛々しく、私の頚椎に向けて鉄の塊が振り下ろされる。立ち上がる余裕などなかった。右足で自販機を蹴り付け、ほんの僅かに、戦斧の軌道から逸れるように横転する。金属の破断する重苦しい音がした。電流と火花が散り、両断された自販機は機能を失う。
火花に混じって近付いてくるものがあった。男の足だ。胃の直上を蹴られ、自販機から転がり落ちる。凄絶な吐き気を裏切らず、胃酸と唾液、昨夜の夕食が喀血とともに吐き出される。立ち上がることはできない。視えるのは土塊だけで、夜空は遠く、汗の臭いが鼻を穿つ。
「オオツキ、仕掛けるのが遅い」
「スンマセン、凡人なんで」
男達の会話だけが聞こえる。
皮肉なことに、殺気立ったその会話が、私がどうにか意識を保つための綱となる。
「なん……で……」
言葉は泥の味がした。
「……どうして……」
どうして男達は私を殺そうとしているの。どうして私は殺されなければならないの。
「カミシロさん、この娘もしかして……」
「難儀なことだ。蟲人として目覚めた直後に我々と出くわすとは――」
「収容所送りってわけには、いかないっすかねえ」
「情でも沸いたか、オオツキ」
髪を掴まれる。泥に塗れ、胃酸に塗れ、血に塗れ、荒い吐息を繰り返すだけ。男達の存在も、男達の言葉も、何もかもが理解できない。理解しようとしても指の間をすり抜けていく。さらに髪を引っ張られ、抗えず、私の体は持ち上げられた。頑丈な髪は頭皮から抜けようとはしない。いっそのことそうなってくれた方が、体を休めるなり逃げるなりできただろうに。
「なるほど。確かに美しい見た目だ」
白髪の男は私を覗き込んで呟き、おもむろにダガーナイフを私の右目に突き立てた。扁平な刃がぐるりと眼窩をなぞり、黒ずみの右目は抉り取られ、私の悲鳴は決壊した。
叫び、叫び、絶え間なく叫ぶ。
経験したことがないようで、もう何度となく繰り返してきたような痛みに喘ぐ。
「蟲人対策法第二十四条」
体を捩らせ、血涙を流す。醜態を晒していることなど気にかからず、逃げようと懸命になる。ただただ喉を震わせ、悲鳴に溺れて。
「蟲人駆除に於いて有益となる情報もしくは蟲人の機構解明に於いて有益となる特異的個体である場合、特別収容所への収監を認めるものとする。上記に該当しない個体に於いては、一切の事情及び背景を考慮せずに駆除処分とする。我々の行動原則だよ、オオツキ」
「スンマセン、カミシロさん」
悲鳴の奔流の中でさえ、男達の言葉は存在を主張する。言葉の先端から末尾に至るまで欠損を伴わずに耳へと届く。私を殺そうとする男達、すでに右目は抉り取られた。喉が嗄れ、悲鳴も枯れ果てる。空洞となった右目には冬風が吹き付け、頭の奥が熱を失っていく。
「だが、この娘には何もない。どこの巣にも属さず、有意な特異性も認められない。二種の蟲を宿しているという点では特異的であると認められるかもしれないが、そのような個体はすでに解析されている。これ以上の検体は必要ない」
つまり、と白髪の男は続けた。
「駆除対象だ」
視界が収束する。音は遠退き、色褪せた世界で、私の鮮血だけが華々しいまでの異彩を放っていた。赤を目で辿り、辿り着いた先は男が握るダガーナイフだった。
枯れ果てたはずの悲鳴が再来する。ダガーが肉に沈められ、胸の直上から腰に向けて下ろされる。三十センチにわたって切り開かれた肉の隙間を掻い潜るように、男の手が突き込まれる。
手のひらが腹の中にある手のひらが腹の中にある手のひらが腹の中にある手のひらが腹の中にある手のひらが腹の中にある手のひらが腹の中にある手のひらが腹の中にある
なぜ、私の意識はまだ途切れていないのだろう。なぜ、腹の中を掻き混ぜられる感触を味わっているのだろう。喀血と脱力。私の体は、腹に突き立てられた手によってのみ支えられる。痛みはどこか遠くにあり、意識を凝らせば、意識を保とうとすれば、狂気に彩られた刺激に襲われる。意識を手放すことが救いだと本能では理解しているのに、痛みによって意識は醒める。
「そういえば問うていたな。どうして、殺されなければいけないのかと」
腹の中で弄らせていた手を止めて男は切り出す。褐色の肌、真っ黒なスーツ。透けるような白髪。全てが私と同じ色をしていた。全てが赤に染まっていた。
「君個人に恨みを抱いているわけでも、ましてや、嗜虐心を満たすためにこのような行為をしているわけでもない。君が蟲を宿していることが問題なのだ。きっと理解してもらえるだろう。七十億の人間の安寧のため、秩序を保つために君という一人を斬り捨てることの意義を――」
「そんなの……理解できるわけ、ない」
「そうだと思った」
止められていた手が動き出す。臓物の一つ、ムカデが巣食う胃が引きずり出される。食道はちぎられ、小腸はちぎられ、右目と同じように黒いゲル状の物質へと変容した胃は強奪された。
落ちていく感覚。悲鳴も上げられず、世界は蝕まれていく。
そこで《私》は途切れた。
ここまでで第1章「禊原枢の事実」です。まーた連載作品増やすんかーい、との声が聞こえてきそうですが書きたくなったんだから仕方ない。なお近日中にもう一本増えるかも。
某作品に強く感化された勢いで書いたものなのでオリジナルとは言いづらく、最初は発表しない気だったけれどやっぱり掲載しようかなと。
私が崇拝する作品である『人間失格』を挟みながらいろいろと伏線らしきものを巡らせた章になっています。解釈の稚拙さには目を瞑ってください。国語は苦手です(小説書きとは思えない発言)。
いろいろと振り返ってみれば、どうやら私は「人間から外れる」ことをある種の苦悩として捉え、そこに重きを置きながら創作に励んでいるようです。実生活でもそうなのですが、大衆に迎合することをつまらないと見做し、変人を気取ってみる一方で、そこから外れることを何よりも怖れています。だからこそ、物語の中では外しているのでしょう。
初めに断っておきますが本作に救いはありません。多分。気が変わったらちょっとはあるかも。
どうぞお付き合いください。読了感謝。