ただいま、どうしようもない現実。
【蟲がいた。瓶の中か、米びつの中か、乾酪の中か。
ザワザワと耳鳴りがする。胃袋がもたれる。腸が伸縮する。酩酊、僕は蹲って喀血した。擦り切れた眼で、ぶちまけられた血潮と、その中に存在する固形物を見つめる。
それは蟲だった。うぞりと蠢き、カキキキと囀るそれらは僕の内にいた】
万年筆を置く。指先に付いたインキをノートの余白に擦り付け、静まり返った室内で伸びをする。背もたれが軋む。男が聞いたなら、喘ぎ声としか映らないのだろうなと俗なことを思いながら、呻き声とともに息を吐き出す。反らされた背骨がコキキキと鳴り、ついでにあくびをひとつして、私は浮きかけた椅子の前脚を接地させた。上半身を机上になだれ込ませる。
右頬を机に付けたままで横を向き、ノートの端を摘まみ上げる。指紋とインキの滲みがそこかしこに認められるノートには、拙い文字が綴られていた。
読み返す。鑑賞する。紙上の物語を。
一人、嘆息する。私が紡いだばかりの物語は、とてもつまらない。それは物語の流れや表現という表面的なものではなく、もっと根本的なところ、これが虚構であることに起因する。
虚構は虚構。事実には代われない。私にはそれが我慢ならない。
誰かが言った。事実は小説より奇なりと。そんなことはないと私は思う。人間の叡智がどれほど高まったところで、人間の創造力が想像力を凌駕することは決してあり得ない。
私は虚構を愛していた。焦がれ、情熱を傾け、崇拝さえもした。けれど、それはひっそりと哀しい。私は事実側の人間であり、虚構を想像することしかできないのだから。
ノートに影が落ちたことで伏せていた瞳を持ち上げる。ブリッジが歪んだ眼鏡がずり落ちる。テンプルを手のひらで挟み込むようにして直しながら、薄いグラスを通して人影を見つめる。
「おはよう、枢」
ザワリと耳鳴りがした。
「……おはよう、峰睦くん」
根元の辺りが黒色の金髪、プリン頭の青年をじっと見つめる。深緑色のモッズコート、手袋、ネックウォーマーと随分な重装備。彼はずりずりと電気ストーブを引き寄せた。
「もう冬だよ、どうしてそんな恰好で寒くないの?」
「……コンセントは扉の横」
「ありがとう」
ニクロム線が赤橙色に輝き始める。赤外線を浴びながら、峰睦くんは背後の書棚から「人間失格」を取り出す。擦り切れた栞を外し、茶けた紙に目を落とす。私を見ないまま、彼は口を開く。
「新作?」
「……まだ、書きかけ」
万年筆は止まったまま、指の間で手持ち無沙汰に回されている。峰睦くんの前では何も書けず、何も思い付かない。諦めて万年筆を筆箱にしまい込み、「人間失格」を指差す。
「面白い?」
指を挟んだままで本を半分閉じ、彼はアンニュイな表情を浮かべた。
「僕には難しすぎるかな。ただ、文学青年を演じるにはなかなか適した本だと思うよ」
「……どうしてそんな感想しか抱けないのよ。文豪に失礼だとは思わないの?」
「読んだことのない枢には言われたくない。まあ、感じ入らないところばかりだと言えば、嘘になるけどね。例えばさ、目を瞑れば忘れてしまう顔って、どんなものだと思う?」
「忘れてしまう?」
「そう、綺麗さっぱり、忘れてしまう」
彼が言うには、その人物の顔をよく見つめてから目を閉じる。すると思い出せなくなる。目鼻立ちも、唇の厚さも、髪の色も、どんな表情をしていたかさえ忘れてしまう。笑っていたのか、泣いていたのか、怒っていたのか、憂いていたのか。全ては八月の泡沫のように消え失せてしまう。そのような奇妙な顔とはどんなものかと、彼は訊ねた。
「忘れてしまう、ね」
たっぷり、二十秒間は峰睦くんを見つめてから瞼を下ろす。真っ暗な視界の中にぼんやりと浮かび上がるものがある。それは顔の輪郭だったり、鼻梁の流れだったり、瞳の色だったり。総じて春日井峰睦という人物の顔だった。
「ダメね、忘れられない」
「そうだろう? だけど太宰は忘れてしまうと言うんだ。これはどういうことだと思う?」
それきり彼は言葉を重ねることはせず、私の考えが纏まるまで口を閉ざしていた。どうして彼がそんなことを訊ねてきたかはひとまず置いておき、私は立席して部屋の最奥に向かう。
壁一面を書棚が覆い尽くし、それでも入り切らない本は段ボールに詰め込まれたり、そのままの状態で床に積み上げられていたりする。お目当てはドイツ文学の蔵書棚の前にあった。ガムテープを剥がし、適当なものを選び取ると後ろ手に隠しながら峰睦くんのところに戻る。
「後ろ向いてて」
峰睦くんが従ったことを認め、顔に被せる。
「いいよ」
彼は振り返り、烏にでも啄まれたような顔をした。
「みゃあ」
鳴いてみる。あまり可愛くない。
猫の仮面をかぶり、左目だけで峰睦くんを見つめる。私の貌は、仮面によって隠される。
「こういうことじゃないの? 仮面をかぶっていれば素顔は見えないでしょう? もしも出会ったときから道化を働き、一度たりとも仮面を外したことのない人がいたとすれば、その人の素顔なんて誰も知らないわけじゃない。知らないものを思い出せたりはしないわよ」
にゃんにゃん。言葉を区切り、首を横に振っておどけてみせる。
彼はまたアンニュイな表情を浮かべ、ぽつりと何かを口にした。
「そうかもしれないね」
聞き取れなかった呟きを掻き消すように、明瞭な声音で彼は同意を示した。本当に彼が得心しているのかどうかは別として、少しだけ得意になる。
「ところで、枢はいつから講義?」
「………………十分後」
「さぼるなよ? 僕のことを先輩となんて呼びたくはないだろ?」
妙なところで鋭い。返事もそぞろにショルダーバッグを掴んで外に出ようとして、
「猫、猫」
足を止める。猫を剥ぎ取って峰睦くんに放り投げ、扉を開ける。去り際に少しだけ振り返る。
「絶対に先輩なんて呼んであげないんだから!」
【毎朝目覚めると鏡を覗く。顔を洗うよりも、歯を磨くよりも、欠伸をするよりも先に鏡を覗く。柔らかく毛先が丸まった亜麻色の髪、日本人の平均よりも僅かに高い鼻梁、右頬には生まれついての黒痣がある。幼少期からほとんど変化のない相貌の中に、ひとつだけ大きな変化が認められる。それは、おおよそ怪奇の世界に干渉したことがない人間であれば経験し得ない移ろいだ。僕が蟲を宿したとき、それは訪れた。
右目――僕の右目は黒ずんでいた。腐っていた。蟲に喰われ、黒光りするゲル状の物質へと変容し、それでも流れ落ちることはせずに眼窩に収まっている。何も見ることはできない。僅かな光も黒ずみを掻い潜って視神経を刺激することはない。
いっそのこと抉り取ってしまおうか。ティースプーンを持ちながらそんなことを思い、実際に、眼窩と眼球の間にスプーンを滑り込ませた。眼球が萎んでいたことで眼窩には広々とした隙間があり、扁平なアルミニウムはすんなりと這入り込み、その窪みに眼球を収める。後は引き抜くだけだった。しかし、棲み処を奪われたくなかったのだろう。蟲は抵抗した。
蜂の巣を突いたかのように眼球から何十何百とも数え切れない蟲が溢れ出す。
黒々とした波はたちまちアルミニウムを包み込み、腐食させ、腹の中に収める。柄ばかりとなったスプーンを残して、蟲は棲み処に戻っていった。
さて、何が恐ろしかったのだろう? 僕は何に恐怖し、何を嫌悪したのだろうか。蟲が眼球の中にいたことか、蟲が鉱物さえも糧にすることか、蟲を取り除くことができないことか。
等しく違うと、僕は伝えよう。誰でもないあの人に伝えよう。
なかったのだ。僕には痛みがなかったのだ。傷みもなかったのだ。ティースプーンを目に突き立てるという悍ましい行為をしておきながら一切の苦痛を感じなかった。コンタクトがずれたとか、砂粒が目に入ったとか、そんな安穏とした感覚しか抱けなかったのだ。その恐ろしさがあの人には伝わるだろうか。あの人には分かってもらえるだろうか。
僕の体は蟲に寄生され、蟲の苗床となり、蟲によって改造された。死んでもおかしくないほどの行為を受けたとしても、傷みどころか痛みさえも感じられない体に僕はなってしまった。
死にたいと願ったとしよう。ナイフを腹に突き立てるか、灯油の風呂に飛び込んでマッチを擦るか、電車の前に躍り出てイチゴジャムになるか。ありとあらゆる、考えられるだけ、思い付くだけ、知り得るだけの術を試したとして、その全ては阻まれるのだ。
僕は苗床から降板することを決して許されない。
この体が老いで朽ちるか、蟲が僕に価値を見失うか、蟲が僕を養分と見做すか。
その時が訪れるまで僕は生きることを義務付けられた。なんという地獄だ。涙は枯れ果て、喉は渇き、心は飢餓に苛まされ、それでも生きなくてはならないとは】
揺られること二十五分。車内放送に目を覚ます。臙脂色の座席に体を沈ませ、私は意識を彷徨わせていたようだ。車内掲示板に目を走らせる。あと九十秒もすれば降車駅に着く。
車内の人影は疎らだった。その大半は腕を組んで眠っているか、携帯電話の画面に意識を凝らしているかのどちらか。私は先程までは前者であり、今はそのどちらでもなくなった。大学生にもなって携帯電話を持っていないなんて希少種は、この車内には私くらいではないかと思う。メモ帳を広げ、万年筆のキャップを抜くと文字をしたため始める。
とめどなく、澱みなく、私の裡でとぐろを巻く衝動を吐き出していく。
決して気持ちよいとは思えない情動を表していく。
電車が停止する。九十秒では二行しか捻出できなかった。メモ帳を閉じて立ち上がり、閉まりかけのドアの隙間を通り抜ける。プァンと一鳴きした電車を見送り、街灯の届かないプラットホームを駆け抜けた。シフォンスカートが風に揺られ、太腿に絡み付く。ホームの一番端から中央までを一息に移動し、荒い吐息とともに背後を振り返る。
何かを見つめ、前を向き、もう振り返らない。
改札を抜けて左に曲がると駅前広場に出る。広場の中央には、何のためにあるのか、何を記念しているのか、何を象徴しているのか一切が理解できないモニュメントが置かれている。モニュメントの横を通り過ぎると左にバスの降車場、右に交番が見える。パトロールに行っているのか、それとも誰かが悪事を働いたのか、交番の中は出払っていた。
「こんばんは」
誰もいない交番に向けて挨拶する。
『はい、こんばんは。暗いから気を付けてね』
でも、問題ない。二年半も聞き続けてきた言葉は、脳裏で自動再生された。
全くもって気味の悪い習慣だと思う。これをしないと帰ってきた気がしないなんて。
交番を過ぎると駅前広場は終わる。右に曲がり、すぐそこの信号で左に折れる。個人経営の飲食店を三軒も過ぎれば住宅街だ。オークとプラタナスとローゼが混在する並木通りに沿って坂を下っていくと公園が見えてくる。本当はそうしない方がいいのだろうけれど、家路を短くしたい思いが私の足を公園に向けた。街灯が遠ざかる。公園の中は樹木の影がいっそうと濃くなり、月明かりも星の輝きも、人工夜灯も細くなり、届かなくなる。
木々の間をようやくすり抜けてきた光が織り成す、玉影の中を歩いていく。
ペンキの剥げたベンチの横を通り過ぎ、ペリカンの水道、アスレチックの間を通り抜ける。公園の半ばまで来たところで、正面には巻貝を模した滑り台が鎮座している。
スカートと足首の間を冷たいつむじ風が掠めていく。浮きかけた布を手で押さえ、季節知らずのサンダルを砂場に沈めた。しっとりと湿った砂粒の感触さえ心地よさに変わる。円形砂場の中心を通るようにして横切り、向こう側に辿り着くと足を止めた。砂場の周囲に点在する丸い椅子のようなオブジェクト、その内のひとつに携帯電話が置かれていた。画面は私に向けられている。思わず手に取った瞬間、見計らったようにスマホは震えた。
「ひゃあ!」
落としそうになって、やっぱり指の間をするりと抜けていき、私は抱き着くように受け止める。胸に伝わってくる振動が、私を妙な気にさせる。
スマホをひっくり返す。先程まで真っ黒だった画面は明るくなり、緑色の電話マークが表示されている。着信通知というものはこんなに長いのだろうか。手の中で、スマホは延々と震え続ける。止まる気配は見えない。逡巡した後、電話マークをタップする。
『……もしもし』
スピーカーから流れてきた声は、私がよく知る人物のものだった。
「峰睦くん?」
『あれ、どうして枢が出てるの?』
素っ頓狂な声音が耳を駆け抜ける。
「どうしてって、拾ったから」
『どこで?』
「公園」
『どこの?』
「家の近くの……」
峰睦くんからの反応は返って来なくなった。スマホから耳を離し、画面を覗き込み、また耳にあてがう。別に切れたわけではないようだった。
「どうしたの?」
『あぁ、いや……そうだね』
「はっきりしないのね?」
『うまく言えないんだ。それは僕のもので間違いないけど、どうしてそんなところにあるのか』
それきり彼は黙り込んでしまった。沈黙と静音だけがスピーカーから流れてくる。
「疑ってる?」
試すように切り出すと、スピーカーの向こうで息を呑む気配があった。
「冗談よ。峰睦くんがそんな人ではないことは分かってるから、安心して。なんにせよ私が拾ったのならよかったじゃない。明日、大学に持っていくわ。それまでは我慢なさい」
『あぁ、ありがとう』
それじゃあねと言いかけたところで峰睦くんは慌てたように声を割り込ませてきた。
『せっかくだから少し話そうよ。枢が家に着くまででいいから』
「変なこと考えるのね」
言葉を電波に託して歩き出す。サンダルから砂粒がポロポロと零れていく。ここに峰睦くんはいないのに、耳元では僅かにくぐもった彼の声が聞こえる。それは新鮮であり、見慣れた公園の景色を輝かせる。同時に、姿の見えない声の主を探そうと目が動く。
『昼間に人間失格の話をしたのは憶えてる?』
「そこまで忘れっぽくないわよ」
『そうだね。作中にさ、こんな問答が登場するんだ。罪のアントは何だろうって』
「アント?」
『同義語と対義語のアント』
「あぁ、そのアントね」
『罪のアントについて、主人公である葉蔵はひどく悩む。《もしも、あのドスト氏が、罪と罰をシノニムと考えず、アントニムとして置き並べたものとしたら? 罪と罰、絶対に相通ぜさるもの、氷炭相容れざるもの。罪と罰をアントとして考えたドストの青みどろ、腐った池、乱麻の奥底の……》この一節の後に、葉蔵は《あぁ、わかりかけた》と続けるんだ。だけど僕には分かりかけもしなかった。浅薄なんだね、僕は。辞書を引いたよ。罪のアントは《功》とされていたけれどますます分からなくなった。ねぇ、枢にとって、罪のアントは何になる?』
峰睦くんは潰れそうな声を出した。
「相変わらず、難しいことを考えるのね」
公園を抜ける。小高い丘の上。眼下では人工夜灯が目まぐるしく流れている。空の輝きは霞み、大地は煌々と光に溢れる。真逆だった。人間は夜空を大地に落としてしまった。あそこの鉄塔と、そこの高層ビルと、私の耳元の携帯電話を繋げば冬の大三角形だ。
私はベテルギウスといったところかな。
「付け加えて、あまり意味のないことね」
『自覚しているよ』
眼下に広がる営みの中で罪のアントを叫んだとして、罪がなくなるわけでも赦されるわけでもなく、誰かが耳を傾けてくれるわけでもない。罪は依然として変わらず、罪のアントを知ったからといって、そのアントを行おうとはしないだろう。知り、得心して、一時的にでも満足する。そして一夜も経てば忘れてしまう。その程度のものだ。それでも峰睦くんは知りたいという。彼の心に芽吹いた小さな苗木は、水が注がれることを待っている。
それなら私は、水差しを傾けよう。その口先には透明な蓋がされていて、注ぐ相手によって蓋のずれを変動させる。いったいどれほど注がれるのだろう。溢れ返るほどか、底を這うくらいか。それとも、隙間なく閉じられたままか。
「罪のアントは《無自覚》だと思うわ。もしくは《無知》……」
『どうして?』
彼は訊ねてきた。どうやら蓋はずれたらしい。
「《罪がある》という状態の反対が《罪がない》だとして、それなら罪のアントとは罪を罪でなくしてしまうものでしょう? だから《無自覚》、罪を犯していても自覚していない。だから《無知》、犯した罪が罪であると知らない。……言葉遊びと言われれば、それまでだけど」
街並みに背を向けて歩き出す。電話口で、彼は何かしら思索しているようだった。
自宅はもうすぐそこだった。壁面に蔦が絡み合ったモルタル造りのアパート。足音を殺して外付けの鉄製階段を上る。最奥の部屋まで進み、財布から鍵を取り出したとき、
『それなら枢は、罪にあって罪にいないんだね』
彼は不思議なことを言った。
どういうことかと気にかけながら、家の中に入る。サンダルから足を抜き、玄関口にショルダーバッグを置くとすぐ脇の扉を開けて中に入る。家に着くまでの約束だった通話はなかなか切れそうになく、私もこちらから切りたくはなかった。
『今どこ?』
「もう家よ」
『騒がしいけど、何してるの?』
「お風呂に入ろうとしてるわね」
足元には脱ぎ散らかされたスカートとブラウス。下着が私の足をすり抜ける。
「すっぽんぽん」
『……………………』
峰睦くんは静かになった。
「想像したでしょ?」
『……ごめんなさい』
「峰睦くんの想像の中では、私はいったい何カップだったのかしら?」
『……………………』
「胸のサイズよ。分かるでしょう?」
『……………………Cカップ』
「後で殺すわ」
ふんと鼻息を吐き、通話を切る。暗くなった画面を見つめ、はぐらかされたことに気付く。スマホを脱いだばかりの服の上に投げ置いてから胸に手をあてがう。撫で下ろす。
「ふん、だ」
眼鏡を外し、右目を覆っているものも外して浴室に飛び込む。
「峰睦くんのバカ!」
【夜もすがら、僕がこうして起きていて、眠ってしまうまでの僅かな時間に、蟲で満たされた頭をぐるぐると奮い立たせてあの人のことを考えるとしよう。あの人のことに思いを馳せるとしよう。あの人とは誰のことかと訊かれるかもしれない。あの人とはあの人のことだ。誰にもなれず、誰とも代われずあの人のことだ。僕の背後、または正面、或いは隣、或いは足下。
とにかくあの人は僕のすぐ近くにいて、僕はあの人のことをいつでも知覚できるというのに視認できず、言葉を交わせず、けれど触れることはいつでもできるという奇妙な存在としてのあの人を気にかけている。しかも、あの人は僕のことを知らないのだから余計にそそられる。知られたいという欲求は、愛されたいという慕情に通じるものがある。
ここまでが、目覚めている間の僕がいつも考えていること。これより先は考えず、考えようともせずに眠りに落ちる。そして、朝になり目覚めると鏡を覗き、蟲に喰われた右目を見て落胆するのだ。あぁ、こんな躰ではあの人に嫌われてしまうと。
朝に味わう喪心を夜に思い出してしまったためだろうか。ベッドに寝転がったのに意識は冴えたままだ。意識を静めようとすればするほど、次第に確かなものへと変わっていく。
右腕を持ち上げ、指先で右目をトントンと叩く。鋼のような硬質さとともにそれは眼球から溢れ出した。ザワザワと、ザリザリと、砂粒と変わらないくらいの小さな蟲が指を伝い、腕まで上ってくる。これが僕の内に巣食う、一種目の蟲だ。
左手を持ち上げる。胃の直上の辺りを撫で回し、数回小突く。それから左手を口内に突っ込み、指を咽喉に滑り入れる。えずきそうになるのを堪え、押し戻される指を肉に触れさせたままで待っていると、そいつは指に絡み付いた。三十六の足を持つ、ムカデに酷似した節足動物。黒光りする躰には油を塗りたくったような艶があり、絶えず前後に動かされる歩肢がキシャキシャと異質な擦過音を立てている。僕の内側に巣食う、二種目の蟲だ。
「随分とご機嫌だね」
《砂粒》に話しかけ、《ムカデ》に同意を得ようとする。言葉を理解する知性も機構もあるはずがなく、奴等はザワザワと蠢くだけだった。
ムカデが這いずった跡に目を凝らすと、蟲の表皮から滲み出た体液が目に付く。安っぽい紅紫色の液体の中に、ドーパミンなりアドレナリンなりが含まれているのではなかろうか。
左手を口内に突っ込み、右手を眼球にあてがうと蟲はそれぞれの棲み処に戻っていく。眼球を抉り取ろうとしてまで追い出そうとしていた蟲を、体外に誘い出しておきながらむざむざ帰してやるなんて愚かなことだ。だけど仕方ないのだ。この体の主導権は僕にはない。生殺与奪は蟲に握られている。僕はただ蟲に阿り、蟲をある種の神として崇拝し、ご機嫌を充分に取ってから「どうか僕の体を僕に返してください」とお願いする他にないのだ。
僕は蟲を従えられず、蟲が僕を従えている。少なくとも、現時点では。
あの人が蟲とのいざこざに少しでも見向きしてくれれば何かが変わるのだろうか。きっと大きく変わる。あの人は、僕と蟲が迷い込んだ晦冥を晴らしてくれる明けの明星だ。
だからこそあの人に知られたいと願う。何よりも、僕が蟲を隷従させるために――】
慣れたベッドの上とは異なる感触を噛み締めながら目を覚ます。私は机に寄り掛かるようにして眠っていた。腕と額に挟まれた眼鏡が悲鳴を上げている。体は針金でも通されたかのように凝り固まり、体を起こそうとして力が入らず、机上から滑り落ちる。
「今、何時?」
誰に聞いたつもりなのか、返事はない。寝ぼけようにほとほと呆れ返りながら体を起こす。こういうときの重力は調子に乗っている。峰睦くんのスマホを手繰り寄せ、何となしに電源を入れる。表示された時刻は午前二時四十五分、途方もなく深夜だった。
ブーッとスマホが震えた。新着メッセージの着信表示には、ただ一言『お帰り』と峰睦くんから。どういう意味だろうと首を傾げ、峰睦くんの動作を思い返しつつ返信を打つ。
『ただいま』
いったい何のことなのかは分からないけれど。
『まだ帰って来てはいないくせに』
またメッセージが届く。彼は何を言いたいのだろう。それきりメッセージは届かない。私の裡に奇妙なわだかまりを生じさせておいて、彼は何も言わなくなった。もしかしたら彼の言いたいことは《忘れてしまう貌》に関係があるのかもしれない。それとも罪のアントか、無自覚か。そういうもののどれか、或いは全てに関係のあることを彼は話したかったのかもしれない。
けれどそれは分からない。
渇いた喉を潤そうと冷蔵庫を開け、何も入っていなかった。ペットボトルも何も。寝室に引き返して財布を覗く。峰睦くんに対して悩んでいた時間とは比較にならないほど早く出かける支度を始めた。チュニック丈のワンピース。相変わらず冬をなめた格好で家を出る。
「あ……」
階段まで来たところでポケットに峰睦くんのスマホが入っていることに気付く。置いてこようかと迷ったが持っていくことにした。電源を入れる。ブルーライトで顔を照らしながら階段を降り、坂道を上るとすぐに丘の頂上に着く。午前三時の街並みは寝静まっていた。
『それなら枢は、罪にあって罪にいないんだね』
峰睦くんの言葉が耳をよぎる。彼は本当に何が言いたいのだろう。はぐらかされた言葉の先には何が続けられたのだろう。私が自覚していないこととは何だろうか。
公園に入る。目的地である自動販売機の明かりが見えてきたところで足を止めた。自動販売機の前には人がいた。年齢にして三十後半程の、縮れ毛の男が立っていた。思わず委縮する。挨拶しようとした言葉は潰れ、おかしな呻き声となるだけだった。
「おかえり」
頬を強張らせて男は笑う。朦朧とした眼差しを私に向け、私の目を覗き込んでくる。
ここで、少し、思い返す。私の虚構に対する思いを。
私は虚構を愛している。焦がれ、情熱を傾け、崇拝さえもする。どうしてそこまで虚構に執着するのか。それが私が事実側の人間だから、決して虚構には干渉できないためだ。
知らないから知りたいと願う。渦中にいないから巻き込まれたいと願う。もしも虚構がありふれたものであったなら、私が見向きすることなど決してなかっただろう。
「僕は待っていたよ」
けれどこの時、私の眼前で繰り広げられた光景は現実から程遠く、事実の範疇から大きく逸脱していた。それは蟲だった。男の頭蓋を喰い破り、頭頂部から赤みどろとともに姿を現した影は蟲だった。一対の触覚と口器のある頭部に、歩肢が並んだ胴部が続く。私の体ほどもあり、それ以上にも見える蟲はムカデだった。ムカデとしか思えない形をしていた。キシャキシャと絶えず動かされる歩肢が、奇妙な擦過音を立てている。
後退り、自販機に体をぶつけ、崩れ落ちる。恐怖にあてられた四肢は委縮する。
私は虚構にいないというのに、私は事実側の人間だというのに。
いつから私は虚構に迷い込んだのか。いつからこの世界は虚構へと移ろいだのか。
蟲の下に、男の体を見る。蟲に喰い破られた男の体を見る。ごわごわと波打ち、罅割れ、生命から剥離した抜け殻を見る。蟲を見上げて思う。私もああなるのだろうかと。
蟲はベテルギウスを胴体で隠して私を見下ろす。ムカデの巨躯が屈み、口器が近付き、粘ついた唾液が垂らされる。頭頂部に落ちた唾液は私の髪を伝い、目を濡らし、頬をなぞる。
「いや――……」
足に力を込めようとして、ばたつくだけ。私の体は管轄から外れてしまった。大地を撫でるだけ。逃げなければならないと、そんなことは分かり切っているのに逃げられない。
少なくとも、虚構に出会ったことは初めてだったのだから。
顎肢の毒腺から分泌される粘液が目に留まる。ムカデはあれを用いて小動物を捕食する。人間である私にとって、元来のムカデとは些細な大きさの蟲でしかない。けれど、今はどうだろう。眼前のムカデにとって私はどうだろう。明白な事実として、私は小動物に過ぎない。
私は事実側の人間だ。そこに間違いはない。それは揺るがない――はずだった。
「来ないで!」
叫びとともに何が起こったのか、うまく説明することはできない。
ただ言えることは、この事象が、私を事実から虚構へと誘ったということ。
腕が動く。指が暴れる。私の管轄から外れた体が、私の意識を介在させずに動く。
【まったく好機というものはどのようにやって来るのか分からない】
張り詰め、痙攣する腕に血管が浮き出す。それは弾けてしまうほどに膨れ上がり、表皮を圧迫し、その中を何かが駆け抜けていく。
【彼女に知られたいと願った直後にその時が訪れるとは。……誰に感謝すべきだろうか。誰に敬愛を示すべきだろうか。だが、そんなことは些細な問題だ】
指先が痛む。思わず目を細め、奥歯を食い縛り、愕然とする。
左の五指が喰い破られ、男の頭蓋から出てきたように、その裂け目から蟲が現れる。三十六の肢を持つ、ムカデに酷似した節足動物。黒光りする躰には、油を塗りたくったような艶。
【あぁ、蟲を自覚しない私と、蟲を自覚する僕の境界は破られた。僕と私の混在、体の共有、一体化、意識の統合。何という喜びだろう。叫んでいいか、叫びたいのだ。彼女は想像していた通り、僕と蟲が迷い込んだ晦冥を晴らしてくれた】
記憶がよみがえる。鮮明に、表層へと浮かび上がる。
私は初めから僕だった。蟲と共にあり、蟲を宿しながら、虚構に身を置いていた。
私の中から現れた《ムカデ》は巨大ムカデへと体を踊り込ませ、身の丈の何倍にもなる巨大な単眼へと喰らい付き、捕食していく。サイズの格差など意にも介さず、矮小な《ムカデ》が同胞を喰らっていく。右目が疼く。操られるように眼鏡を外して眼帯を剥ぎ取ると《砂粒》が溢れ出した。無尽蔵とも思えるほどの黒々とした蟲が沸き立ち、巨大ムカデに纏わりつく。
【ムカデの特異性が毒による溶解ならば、砂粒の特異性は腐敗だ。僕が右目に突き立てたアルミニウムを瞬くうちにボロ屑へと変えてしまった、あの、腐敗による浸食だ】
巨大ムカデの単眼が陥没する。溶け落ちたのだ。同時に胴体も蝕まれていく。きっとムカデに声を上げる機構など備わっていないのだろう。悲鳴は上げられず、躰を暴れさせるだけだ。ムカデの動きに合わせて爛れた表皮から体液が飛び散る。散らされた肉片が私の頬を掠め、それは大地に苦悶の写し鏡とも思える模様を描き、私を沈鬱にさせ【僕を滾らせる】。
もうやめてと蟲に願う。
【もっとやれと蟲に命じる】
もう充分よ。私を食べようとした罰なら、充分すぎるほどに受けた。
【まだ足りない。僕を食べようとした罪は、こんなことでは償えない】
私の願いに相反して、【僕の思いに隷従して】、蟲はムカデを喰らい尽くすまで止まらなかった。後に残されたものは脱け殻だけ。萎びた男と、爛れたムカデ、それと私。
何もかもが変質した世界で冬だけは変わらない。肌を包んだ冷気は私の体を凍らせようとする。指先の動きは鈍く、唇はきっと紫に変色している。眼下には黒い影が落ちているかもしれない。それなのに、冬に曝されてなお、私の体は『寒い』という感覚を喪失していた。ムカデによる恐怖にあてられて麻痺したのか、それとも私自身の内に巣食った蟲のためか。
地面に放り投げた足に触れるものがあった。不意のこそばゆさに目を細める。ムカデと砂粒が私の胸元まで上ってくる。ムカデを摘まみ取ろうと左手を持ち上げ、喰い破られたはずの五指が生え揃っていることに気付く。もう、蟲に恐れを抱くことはなかった。それは私が《僕》を自覚したことに起因するのか。右目に砂粒が戻っていく。ムカデは鎖骨の辺りをうろつき、肌を喰い破ることを諦めたのか口内に滑り込んだ。喉を通り過ぎていく感触に意識を凝らす。擦れ合う繊細な歩肢は、魚の骨が引っかかっているような些細な違和感としかならない。
蟲という存在。フランツ・カフカの「変身」に於いて男は蟲になった。人間の手足、頭、胴体からは大きくかけ離れた蟲としての躰を与えられ、腐った乾酪を好み、外見としても嗜好としても本当の意味での蟲に成り果てた。
片や私は人間だ。人間の体を残している。誰も内包された蟲の存在を知らない。私という優秀な仮面によって蟲は隠され、ぬくぬくと育ち、最後にはああやって巣立つのだろう。
どちらが幸せだろうか。どちらがましだろうか。蟲としての懊悩と、蟲に喰い破られる恐怖。不幸比べの天秤はどちらに傾くのだろう。カタリ、天秤はいとも容易く私へと傾く。
だって、カフカは虚構じゃないか。私は事実じゃないか。
「なんで……」
どんな言葉も、どんな呻きも、どんな叫びも現状を覆すことはない。好転などしない。
唇を噛み締め、正常な左目から狂ったように涙をこぼし、胃の直上を叩く。右目を自販機に打ち付ける。頭蓋が軋み、脳が揺れ、涙に朱色が混じる。《僕》は涙を枯れ果てさせた。それなら、私が流す涙は涙ではない。脳漿とか、血潮とか、そんなものでしかない。
吐き気を催し、蹲って嘔吐する。この拒絶反応を誰が責められただろう。誰が笑うだろう。
私は私であり、私とは僕である。僕とは蟲であり、蟲とは虚構と事実の中間体だ。
虚構を愛し、虚構を綴ってきた私は、事実側の人間として存在しながら虚構に足を踏み入れる。これが私の真実。事実を超越した虚構がもたらした、道化の物語。
どうしようもなく、吐き気がするほどにつまらない。
ポケットの中で携帯電話が振動する。肌を揺さぶり、骨に浸み込み、蟲に響く。
緩慢な動作で取り出し、緑色の電話マークに指を滑らせる。
『……………………』
「……………………」
相手は沈黙を保ち、私も言葉を切り出そうとはしない。やがて、
『おかえり』
峰睦くんはそう言った。小さな吐息が唇から落ちる。凍り付き、私の視界を霞める。手のひらを握り、服の裾を引っ張る。私と、爛れたムカデと、男の亡骸を見る。
「ただいま」
ただいま、どうしようもない真実。