近い君、遠い僕。
「映画観に行かないか」
北澤に誘われた時、後悔すると思いながらも「行く」と言ってしまったのは、なんとかの成せる業だと思う。
*
予想通り映画は、恐ろしくつまらなかった。アメリカ製の典型的娯楽映画で、美男美女が恋に落ち、悪い奴が現れ、車がビルに突っ込んだり爆発したり、特撮が無駄にすごかったりした。
映画館を出ると正午になっていた。むっとした、夏らしい熱い空気と日差しに目を細める。
「面白かったな」
北澤が満足そうに笑う。単純な物が好きなのだ。
「まあ・・・、ラストは良かったかな」
ハッピーエンドは好きだ。どれほど単純でも。
「何? いまいちだった? 」
「あれなら絶対あっちのがいいよ。ほら、前に言ってたやつ。北澤も絶対気に入るって」
「やだよ。お前のって小難しいから」
北澤が笑う。僕も笑う。
ああ、やっぱりそうだ。
僕はこの、単純さを愛したのだ。
*
「森野さんとこのね、健君、覚えてる? 」
母親が椀によそった味噌汁を置いていく。
僕は人数分の箸を取りに、台所へ立つ。
「さあ」
「覚えてるでしょ。いっこ上の。その健ちゃんがね、コックさんになったんだって」
「へえ」
「ほら、前、大手の自動車会社に勤めてるって言ったでしょ。そこを辞めてフランスへ修行に行って、今は大阪でコックさんやってるんだって。すごいよねえ」
「ふーん」
僕は取った箸をまとめて、ばららっとテーブルの真ん中に置いた。
「すごいよねえ」
「コックが向いてたんだろ、その健ちゃん?は」
言いながら椅子に乱暴に座った。
母親が黙る。
「僕はコックなんてできない」
「わかってるわよ。・・・ねえ、誰かいい人いないの」
「いないって」
「もう、あと三年で三十でしょ。三年なんてあっという間だよ。早く独立してもらわなきゃ困るんだから」
母親が置いた味噌汁を、無言でにらみつけた。
最近同じ話の繰り返しだ。大学を出れば早く就職しろと言われ、就職すればもっと良い所はなかったのかと言われ、仕事に慣れてくると生きがいはないのかとか、結婚しろとか言われる。
それなりに普通の道を歩んできたはずだ。しかし要求を一つ一つ自分なりにクリアしてもそれは認められる事はなく、再び新たな要求がつきつけられ、絶望へ突き落とされる。
要求は母親の口癖とは知りつつも、一度開いてしまった傷口には絶え間なく塩がすりこまれ、傷を悪化させていく。最初は軽く聞き流せた母親の愚痴にも、最近は口論にまで発展することが多くなった。
子供の頃は反抗期がなくて、親と「仲良し」でいられる事が誇りでもあったのに。これじゃあ逆戻りじゃないか。
母親の愚痴を遠くに聞きながら明日は北澤の家へ行こう、二、三日泊めてもらおう、と思った。
北澤は学生時代の友人で、単純明快な男だ。理屈より直感で行動し、知識より経験を信じる。正反対のタイプなのに、いや、だからこそ僕は彼に、惹きつけられてしまった。
翌朝、家を出た。母親の小言を背中で聞きながら。朝御飯を食べずに出たのは昨晩の仕返しだ。子供だ、と思う。しかしそれ以外に反抗する術を僕は知らない。
いい加減家を出ないとな、とつぶやく。
北澤のいるアパートは僕の家から電車で十分程の所にある。
土曜日。車内は空いている。広々とした四人掛けの椅子を独り占めして外の景色を眺める。いつもの出勤方向とは反対へ向かって電車が滑り出す。日常から非日常へと。
ふと。
まただ。
一瞬それがよぎる。
日常を置いてゆく不安と、新たな興奮が。
*
「眠い!」
ドアを開けた北澤は、本当に眠そうだった。
「眠いなー、もう。お前よく休日に早起きできるな。ほら、入れ入れ」
パジャマ姿、ぼさぼさ頭の北澤は、のろのろと部屋へ歩いて行く。僕も後に続く。
彼はベッドに着くと、そのまま倒れこんだ。
「寝る。適当にやっといて」
そう言われても。僕は尋ねる。
「朝飯・・・ない? 食べてなくて」
北澤が顔を少しだけこちらに向ける。
「えー? 家にいるのに。食べてこいよ」
「食べるものなくってさ」
さすがに親と喧嘩して、とはこの歳では言えない。
「貧乏だねえ。・・・戸棚にパンあるよ」
僕は小さなキッチンへ行き、扉を開ける。
「悪いな。・・・、あ、くるみパンがある」
「それはだめ。食パンあるだろ」
「ああ。これね」
食パンの袋を開け、一枚取り出す。
北澤がふとんの間から右手をにゅっと出し、僕の後ろにある冷蔵庫を指し示した。
「マーガリンはそこ。コーヒーもあげよう」
「悪いな」
「親切だから。クーラーつけといて」
僕は食パンをトースターに入れ、冷蔵庫からアイスコーヒーのペットボトルとマーガリンを取り出し、エアコンのスイッチを入れた。
コップに入れたコーヒーに少しだけ牛乳を入れ、一気に飲み干す。
ふと、北澤も飲むだろうかと思った。
「北澤。・・・寝た? 」
ペットボトルとコップを持ってベッドに近付く。
北澤は体を壁側に向けたまま、ぴくりともしない。
寝たかな。
ベッドの近くにある丸テーブルにボトルとカップを置き、青色のクッションによいしょと座る。僕の指定席だ。
背中を壁にもたれかけながら、部屋をぐるりと見回す。
小さい、シンプルな部屋。全く飾り気がないのが清々しい。
黒いパイプベッドと、北澤。目を右に移す。シルバーの小さなコンポと、周りに積み上げられたCD。J-POP、フレンチポップス、アメリカンロック、映画音楽、なぜかモーツァルト。
苦笑する。あまりにもばらばらで。北澤はお気に入りの歌手と言うのがいない。音楽や歌ならあるけれど。だから傍目には選択に自己主張はないように見える。しかし北澤的には基準があるらしい。「美しいか否か」だそうだ。
他に目をやる。小さなTV。隅には高さが僕の腰くらいの、本棚がある。中には図書館のシールがついた本、外国のペーパーバック、英和/和英辞典、エアメールの束、そして、アルバム。
意外に北澤はよく本を読む。ほとんどが推理小説で、国内外問わずに読む。恋愛小説は「べたべたしているから」、現代文学は「堅苦しいから」、偉人伝は「他人の話を読んでもつまらないから」ほとんど読まない。意外に、と言ったのはその読書量の割には漢字の読み書きをよく間違えるからだ。本人は「読み仮名をふっていない方が悪い」と開き直っている。
僕は立ち上がり、本棚のアルバムを一冊取り出した。彼が今まで旅行した様々な国が写っている。ほとんど日本を出た事のない僕は、アルバムをよく見せてもらう。アメリカのベーグルショップのショーウィンドウ、ギリシャの白い壁の家とその前で寝そべる猫、オーストラリアの熱い日差しの中、サンタの格好で演奏するオーケストラ・・・。ページをめくる度に小旅行へと連れて行ってくれる。写真の中の北澤を見た。これ以上はないというぐらいの笑顔で現地の人々と写っている。旅行にはいつも一人で行くのに、いつのまにか友人を作ってくる。北澤らしい。
ベッド上の彼を見た。まだ眠っているようだ。
彼は非日常と単純とを僕にくれる。
僕が失ってしまったもの。
だからと言って、何故彼なのだろう。
僕が欲しいのは時々の非日常であり、非一般ではないのだ。
ゲイでは、ないと思う。
今まで女の子と付き合ってきたし、男が好きと言う訳ではない。
北澤だから、好きになったのだと思う。
意識したのは、あの頃からだ。
僕はその時、この部屋でTVを見ていた。たまたま見ていたバラエティ番組で、ゲイのカップルをとりあげていた。苦労話等を聞き、「ゲイって大変なんだな」と思った。
北澤が部屋に入って来た。
「何見てんの」
並んで座って、何となくその番組を見た。しばらくして、僕が尋ねた。
「ゲイって、どう思う? 」
他意はなかった。
「他人に迷惑かけないんだったら、いいと思う」
即答だった。それから彼にしては珍しく真面目な顔をした。黒髪をくしゃくしゃと触る。
「でも、個人的には駄目なんだ。男同士、男女みたいに愛し合うんだろ。ゲイを差別するわけでもないし、悪い事じゃない。それもありだと思う。でも、受け付けないんだ。男でも女でもあるだろ、どうしても受け付けられないっていう人。生理的に駄目なんだ」
わかってくれるか、と彼が僕の方を向いた時、ものすごくよくわかる、と答えた。
でも僕だったらそうは答えられない。ゲイは認められるべきで、人権が、法律が、でも僕個人は抵抗が、と、全てが曖昧となり、ただ「難しいね」で終わってしまう。逃げてしまう。
北澤は単純だった。
理解はするけれど個人的にはだめだという事が、哀しい程にわかった。
その単純さに、恋をした。
迷うなら、考えろよ。
考えるのが嫌になったら、動けよ。
動くのなら、後悔するなよ。
いつも理屈でがんじがらめになる僕に、彼は言う。
でも、北澤。僕は言っちゃいけないんだ。
行動するわけには、いかないんだ。
*
しばらくの間、焼けたトーストを食べたり新聞をめくったりしていた。やがてそれにも飽きて、本棚から推理小説で薄い物を何冊か引っ張り出し、読み始める。
一冊読み終わった頃、ベッドがもぞもぞと動いた。
「おはよう」
声をかけると、北澤が不機嫌そうな顔でこちらを見た。
「・・・あまり寝られなかった」
「そりゃね。一回起きるとね」
「お前のせい!」
僕を指差す。
「悪い。もう起きてると思ってたから」
「休日は寝坊するもんだ」
そこで僕が持っている小説を見る。
「それ何? 」
もう話題が変わる。僕は苦笑しながらお前の本だろ、と表紙を彼の顔の前までぐい、と突きつけた。
「ああ、これね。面白かったろ」
「うん」
彼はにっと満足そうに笑い、起き上がって伸びをする。少し焼けた、しなかやか手足。やや細身の体は、同じ二十七歳とは思えない。高校生のようだ。黒髪だから、余計若く見えるのかもしれない。大きな瞳がきょろきょろと動き、僕を見る。
「三日泊まるんだっけ」
「うん。月曜は祝日だから。良かったかな」
「ノープロブレム」
*
午後、北澤とアパートを出た。運動をしに行く、らしい。
北澤の家に泊まる時は、いつも彼と行動を共にする。彼は休日にスケジュールのない日などないし、いつも変わった事をするから、遠足へ行くような気分になって楽しいのだ。
バスに乗って揺られる事二十分、「町民体育館前」で彼はボタンを押した。
「何をするんだ? 」
僕は既にワクワクしている。
北澤はそんな僕を見てにやっと笑い、
「太極拳」
と言った。
「北澤君! 友達連れてきたの! 」
振り返るしわくちゃの顔、顔、顔。生徒はおじさん、おばさん、おばあさん。いや圧倒的におばあさんが多い。
声をかけてきた、その中では若い男性が先生らしい。
「いや、こいつは一回体験してみたいってだけで。参加してもいいですよね? 」
「いいよぉ。若い人が来てくれるのは歓迎だよ」
北澤達の会話も僕の耳には入らない。総勢三十名ほどの会員の、ほとんどがおばあさん。
非日常を体験したいとは思ったけれど、これは別次元だ。別の世界だ。
太極拳が始まると、僕は恐る恐るおばあさん達の輪の中に入った。先頭にいる先生の真似を必死でする。ゆっくりとした動きなのに、三十分もすると背中から汗が吹き出る。太ももがガクガクする。北澤を見ると、先生のすぐ後ろの自称指定席で、涼しい顔をしていた。
約一時間半後、教室は終わった。生徒達は座ってお茶を飲んだりおしゃべりしたりで帰ろうともしない。
「こっち、こっち! 」
北澤が五、六人のおばあさん達と座っていた。行くと、彼女達は人の良い笑顔を僕に向けて飴やチョコレートをくれる。皆、健康や運動や食べ物の話で盛り上がっている。彼女達の屈託ない笑い声が、心地良かった。
帰りのバスで、北澤が笑った。
「面白かったろ」
僕もおかしくなって、笑った。
「うん、すっごく面白かった」
*
次の日は、朝からプールへ行った。会員制で子供が入れないせいか、広々としている。ビジター料金を払ってプールサイドへ行くと、北澤は既に泳いでいた。小さい頃水泳を習っていただけあって、クロールのフォームが格好良い。水しぶきがほとんど上がらず、静かに滑るように泳いでいく。なのにとても速いのだ。
僕は隣のレーンに入り、彼の泳ぎをしばらく見てから、壁をけった。七十五メートル泳いで一旦休む。息が切れる。彼のように滑るようにも、長距離も泳げない。
「年とったなあ」
体は、確実に。
心も、確実に。
午後は、半分だるい体を引きずって図書館へ行った。北澤は返却カウンターへ本を返した後、そのままどこかへ行ってしまった。僕は雑誌や新刊図書をぶらぶら見た後、「旅行」の棚へ行った。
そこに彼もいた。‘ニュージーランド’と書かれた本を数冊手にしている。
「ニュージーランドへ行くのか? 」
と聞くと、
「ああ」
と答える。
旅行が好きだもんな。
その日はそのまま、水泳の疲れが取れるまで写真集を見たり、旅行のガイドブックを読んだりして、ゆったりと過ごした。
*
一夜明けて、祝日。
「花火を買うんだ」
開口一番北澤が言う。
「花火? 二人でするのか? 」
「まさか。友達が来るんだよ」
「友達。・・・知ってる奴? 」
「お前は知らない。初対面だよ。七人くらい来るかな」
「ふうん」
とりあえず僕達は近所のスーパーへ花火を買いに行った。
北澤は花火が好きだ。皆からカンパをもらっている癖に、さらに僕からも徴収して何袋も花火を買った。
夜七時頃団体が到着して、玄関で迎えた僕は面食らった。黒く強い瞳、彫りの深い顔、輝く金色の髪etc・・・。彼らは全員外国人だったのだ。
「あれ、言わなかったっけ。英会話サークルの仲間だよ」
改めて紹介される。メキシコ、ペルー、ブラジル、韓国、イラン・・・。
忘れかけていた英語を引っ張り出し、必死であいさつする。瞳の強い光に押されつつも、どこかで見た事がある、と思った。
ああ、そうだ。
北澤の瞳と同じなんだ。
花火大会は盛況だった。ひっそりとしたアパート前の狭い道路は、淡くも激しい光が明滅し、笑った顔が浮かんでは消え、消えては浮かぶ。彼等は点火する度に、こんな花火は見た事がない、と騒ぎ、これはうちのと同じだ、と又騒いだ。
皆が帰った後、僕は満ち足りた気持ちでアパートに戻った。北澤に言う。
「楽しかったな」
彼は笑う。
「お前、俺が何やっても面白いほどはしゃぐよな。いつもそんなにつまんないのか? 」
「え」
「いつも何やってんの? 」
「え・・・、大抵、皆で飲みに行ったり、ボウリングしたり」
「ふーん。楽しい? 」
「え」
「いつもそれやってんの? 」
「あと・・・、映画とか・・・」
「ふーん」
「・・・でも、北澤ってすごいよな。いっつも面白いイベントとか考えて」
「考えてんじゃないの。見つけんの」
「・・・・・」
「退屈なんだったら探してみろよ。案外すぐに見つかるから」
シャワー浴びてくる、と北澤は部屋を出て行った。
静寂。
目覚まし時計が、コチコチと音をたてている。
どこか遠くで、盆踊りの音楽が聞こえる。
「そんなに簡単だったら、いいんだけどな」
そうだ。
だから僕は北澤に会うのだ。
北澤は、遊園地だ。自分で見つけられない僕は、この場所に来て、楽しむ。
自分が失った物や忘れた物や取り返せない物を、求めて。
遊園地にはいつまでだっていたい。
でも、日常に戻らなければいけないのだ。
できればずっと、北澤と一緒にいたい。
部屋をぐるりと見渡す。
推理小説。アルバム。コーヒーカップ。青色のベッドカバー。全てが北澤の物で、北澤自身で、北澤の空間に、僕はいる。
空間は、強烈さを持って。
「北澤」という、個の。
僕は床の上にあった、水色のTシャツを拾い上げる。洗う物だろうか、洗った物だろうか。
しばらく逡巡してから、本人に聞けばいいやと思いつく。
Tシャツを見る。一度行った、カルフォルニアの空のような、鮮やかな水色。
彼らしい。思わず笑みがこぼれる。
そして。
Tシャツに、顔をうずめた。目を閉じる。
北澤の匂い。
北澤の温もり。
どれぐらいそうしていただろう。
ふと、物音に顔を上げると、
北澤が立っていた。
「!!!」
心臓が一瞬痛かったような、停まったような気がした。
瞳をいっぱいまで開いて、声を出す事もできない。それでいて、彼から目を離す事もできないのだ。
今、見て__。
「ああ、悪い。それ、洗うやつ。貸して」
北澤は僕に向かって片手を差し出す。
「あ、ああ」
Tシャツを放る。
「それと、その下、いや違う。そう、そのタオルも洗っちゃうから、貸して」
僕は無言でタオルを拾い、渡した。
見て__いなかったのか?
「シャワーいいよ。使えよ」
「あ、うん」
シャワーを浴びている間も、先程の事が頭から離れなかった。
風呂から出ると、北澤はお気に入りのTV番組を見ていて、普段と全く変わりはなく、よくしゃべり、よく笑った。
勧められたビールを飲み、僕も気まずさが消えかかってきた頃、礼を言って家に帰った。
一ヶ月ほど、何事もなかった。
朝会社へ行き、帰り、寝て、週末は時々飲みに出かけた。毎日が同じように繰り返され、日常に埋没してゆく。北澤に会う以外は、毎日こんなものだったな、と今さら気付く。
さらに数日がたった金曜日、北澤から「晩飯を食べよう」と、連絡が入った。
笑い声が飛び交う、活気ある店内。
僕達はテーブルをはさんで、石焼ビビンバを食べていた。もやしが焦げる、良い臭い。
「仕事、あいかわらず忙しいの」
北澤に尋ねる。貿易事務をしていると聞いた。
彼はキムチを口に放り込み、飲み込んでから言った。
「いや、俺辞めるから」
「え」
「ニュージーランドへ行くんだ」
図書館でニュージーランドの本を見ていた彼の姿が浮かんだ。
「そ、そんな急に」
「急じゃないよ。ずっと考えてたんだ。向こうで観光ガイドの仕事したいなあって。まずワーキングホリデーで現地に慣れて、バイトしながら仕事探しだな」
どうして。
どうしてそんなに簡単に捨てる事ができる。
「金、結構かかるんだろ」
「もちろん。すぐに仕事にはありつけないだろうし。だから真面目に五年間働いてたんじゃないの」
「何か、もったいない気がするな」
「親みたいな事言うんだな」
「・・・・・」
「大手だとか別にどうでもいいよ。踏み台にすぎないんだから、俺にとっては」
「__いつ出発するの」
「十月中旬」
「一ヵ月後かあ・・・」
その後は、当り障りのない事を話して、店を出た。
駅で別れる。
「じゃあ、見送りに行くから」
「うん。それと__」
北澤が僕の肩をつかみ、顔を引き寄せる。
一瞬、どきりとした。
「後悔、するなよ」
「え」
どういう意味だと言いかけて、北澤と目が合った。
強い瞳。
真剣な顔をしていた。
瞬間、僕は悟ってしまった。頭の奥が、カッと熱くなる。
「じゃあな」
北澤はふと表情をゆるめ、反対のホームへ歩いて行った。その後姿を、しばらく見つめる。
ドクンッ
ドクンッ
帰りの電車の中で、僕は心臓の動きが早まるのを、抑える事ができなかった。
知っている。
北澤は、僕の気持ちを知っている。
やはりあの時。
見られていたんだ。
いや、ずっと前からなのか。
とにかく、
知っているんだ。
知っていて、
北澤の顔が脳裏に浮かぶ。
後悔するなよ。
でも、北澤は嫌なんだろう?
生理的に駄目なんだろう?
僕は、
僕は一体どうしたらいい。
北澤。
*
あっという間に二週間が過ぎた。
北澤には会っていない。事前に、仕事の引継ぎや実家に帰る等で出発まで忙しいと聞いていた。
僕はあれからずっと、悩んでいる。
告白してしまえば、どうなるだろう。
もちろん断られる。北澤は気にしないだろうけど僕は友達に戻れるかどうかも怪しくなる。
そして、僕自身は。
壊れる。
自身が嫌い、蔑み、それでもしがみついてきた「普通」と「平凡」という事が。
「皆と一緒」で、「一般的」な僕が、壊れる。
音を立てて。
理屈がどうであっても、人間を動物と見るならば、同性を好きだと言う事は「普通じゃない」し、「一般的ではない」のだ。告白するという事はそれを認める事になる。
耐えられるだろうか、僕には。
それとも、告白しないか、だ。
北澤とは今まで通り仲良くしていられる。僕は北澤への思いを封印し、「普通」の自分を保ち続け、「人並み」の人生を送る。あえて危険を冒す事のない、楽で、安全な方法だ。
なのに。
後悔するなよ。
体の奥底から湧き上がる、この気持ち悪さはなんだろう。
*
出発の日。
オフシーズンだというのに空港内は意外と人が多かった。ツアー客らしい団体が目立つ。ヨーロッパにでも行くのだろうか。
待ち合わせ場所に行くと、北澤は売店前の椅子に座り、ガイドブックを読んでいた。脇に青色のトランクケースがある。
「よっ」
「おお、お見送りどーもどーも」
「あれ、親御さん達はいないの」
「来させなかったの。だから事前に家に帰ったんでしょーが」
「そっか。・・・連絡くれよ」
「メールする。着いたらすぐ出すよ。最初この知り合いの家に二週間くらいいるつもりだから。その間に住む所探すんだ」
住所の書いた紙や写真を次々と出し、説明する北澤の声が遠くに聞こえる。
言わなければ。
その為に、ここまで来たんだろう。
言わなければ、
僕は、前に、
「北澤」
「ん? 」
「__どれぐらい行くの」
「最低一年。ガイドの仕事ができるんならずっといるよ」
「そ・・・か・・・」
沈黙。
隣の席に座っていた男性が、立ち上がり公衆電話へと歩いて行った。
「あ、あの」
「ん? 」
「__日本には、帰ってくるんだろ? 」
「もちろん。最初の一年は帰って来ないけどね。正月くらいは」
再び沈黙。
女の子が、売店からアイスクリームを手に持って走って来る。
「・・・あの」
「何だよ」
北澤が笑ってこちらを向く。
黒く短い髪。大きな目。瞳に宿る、強い光。
僕は、この光を。
北澤を。
「__体に気をつけろよ」
北澤が吹き出す。
「なぁんだ。さっきから何の事かと思ったら」
うんうん、気をつけます、と言って立ち上がる。
「じゃ、そろそろ行くよ」
「き、北澤! 」
思わず腕を掴んだ。
北澤が振り返る。
目が合った。
「あ・・・、あの、」
目をそらす。
「その」
彼は黙って僕を見つめている。
「__僕も海外へ行こうかな」
思わず。
沈黙を破りたいがために、思いもしなかった言葉が出てしまった。
北澤が目を見開く。
「なんだ、そうだったのか。どこ、いつ? 」
「ア、アメリカへ」
会社で従事しているソフトウェア開発の腕を磨きに。
英語も、もっと上手くなれば良い所へ転職できるから。
二、三年くらいは滞在するつもりだ。
そうだな、来年くらい。
北澤に質問される度に、すらすらと答えが出る。
それは口からのでまかせではなく、自分が昔やりたかった事だと__、気付く。
北澤は紅潮した顔で、そうかぁすごいな、頑張れよ、と僕の肩を叩き、
「じゃあな、連絡するから! 」
と、笑顔でゲートへ向かって行った。
*
乾いた空気。
雲ひとつない空。
機械的な臭いがするのは、ここが空港だからだろうか。
年が変わって八月。
僕はロサンゼルスの空港にいた。
アメリカの日差しは熱くて強い。湿気がないからだろうか。眩しさに思わず目を細める。
アメリカ留学の話をした時、母親はもちろん反対した。安定が保証が再就職がなくなると、連日説教された。しかし僕が退職した日から何も言わなくなり、そのうちアメリカについての記事やTVをよく見るようになっていた。
そういうものなんだな。
と、思う。
出発までの十ヶ月は、情報収集、入学手続、渡航準備、仕事の引継ぎ等でものすごく、忙しかった。充実していた。
この気分の高揚は、昔確かに存在していた物を引っ張り出してきた、そんな気がした。
北澤も同じ気分だったのだろうか。
出発の前日まで、彼とメールのやり取りをしていた。
現在旅行会社のアルバイトで、ツアーガイドのアシスタントをしているらしい。楽しくてたまらない様子が、文面から伝わってきた。
再びロサンゼルスの空に目をやる。
水色の絵の具だけを素直に塗った、まっすぐな空。
雲ひとつない。
北澤だ。
そう思った。
この空の下で、僕は生きてゆく。
「一緒に、行こう」
青空へ、笑いかけた。
完