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08話 侯爵令嬢が働き始めるお話

 その日はよく晴れた爽やかな空で、気持ちの良い朝でした。


「……本当に歩いていくのか?」


 お父様は眠たそうに、瞼を少しだけ開けてそうおっしゃいます。


「はい。それほど遠くはありませんから。大丈夫です。少し歩きたい気分なものですから」


 馬車でいく方が早いのでしょうが、歩いていけない距離ではありません。

 騎士団訓練生だった頃のお兄様たちは、兵舎にある住居棟には泊まらずにこのお屋敷まで走って帰ってきていたほどの距離です。訓練で疲れ果ててしまって泊まってくることもあったそうですけれども。


「……その恰好だと侯爵令嬢には見えないと思うよ?」


 お父様は私の服装を見てそうおっしゃいます。

 先日、ヴェルザル様にお会いした時の服装は家政婦そのものでしたが、今は町を歩く普通の女の子が着ているワンピースを身に着けていました。

 それと手提げのかばんに少しのお金と、ゴルドー様から預かった書状と、ハンカチと、それからエプロンなどを詰めておきました。

 誰が見ても町娘に見えることでしょう。


「承知の上です。書状をお渡しすれば、分かって頂けるはずですから問題はありません。それにお料理を作るところで働くのですから、小奇麗な服を着ても仕方がないと思います」


「ううむ、それはそうかもしれないが。……などと心配ごとばかり言っても仕方がないな。いってらっしゃい、リコ」

 

 お父様は半ば諦めるような形でしたが、最後には笑顔で見送ってくださいました。


「はい。行ってまいります」


 私は笑顔で答えて、屋敷を出発しました。 





 屋敷を出てのんびりと街を歩くのは気分が良いものです。

 私とお父様の住むお屋敷はとても治安の良いところにあります。

 お屋敷の周りを取り囲むように立ち並ぶ住宅は、お父様に縁のある人ばかりで、私も何度かお会いしたことがあるほどに顔見知りの方が多く住んでいらっしゃいます。

 そのおかげで、屋敷の近くに怪しい人影や来訪者があると街の方々がすぐに気づいてくださるので、お屋敷に物盗りの類が入ったことはありません。もっとも、盗むようなものもありませんし、貧乏侯爵であることはとても有名なので、盗人からしてもお断りでしょう。


 住宅街を少し歩くと、賑やかな商店が立ち並ぶ大通りが見えてきます。

 お父様がこの通りを歩くと、この地を治める侯爵なので多くの人がお気づきになってちょっとした騒ぎになってしまうと思いますが、私はそれほど顔が知られていないので問題はありません。

とはいっても、中には私の顔を知っている方もいらっしゃるので、時折挨拶などを交わして進んで行きます。

 


 そうしてのんびりと大通りを歩いて、街の中を歩いて、ようやくその場所に辿りつきました。


「『飯屋デカンズ』……間違いありませんね」


 私は看板と手元の書状を見比べて一人でこくこくと頷いています。


 そのお店は、一戸建ての少し古びた建物の一階部分のようで、二階のベランダからは洗濯物が干してあるのが見えます。

 住宅街の中に溶け込んでしまっていて、知らずに通り過ぎてしまうこともありそうなほどです。

 

「まだ開店していないようですね……」


 とりあえずそっと入口に近づいて、扉についている小窓から中を覗いてみます。

 木製のテーブルが三つとそれぞれのテーブルに椅子が四つずつ。

 カウンター席もあるようで、椅子が四つ並んでいます。


「……お客さんか」


「っ!? いえ、その」


 私は背後から声を掛けられて慌てて振り返ります。


「うちは昼からの営業だ。悪ぃが出直してくれや」

 

 男性はぶっきらぼうにそう言いました。

 お父様と同じ歳くらいの方でしょうか、禿頭(とくとう)でいらっしゃるのと眉間に皺を寄せていらっしゃるせいか、少し老けているように見えてしまいます。

 その男性は両手に重そうな手提げ袋を持っていて、どうやら買い出しの帰りのようです。

 

「すみません。私、リコルット・ルーデランドと申します」


「ルーデランド、って言ったか?」


 男性はジロリと私の方を見ます。


「はい。ゴルドー・ムンブルク様の紹介で参りました。こちらがその書状になります」


 私は鞄から書状を取り出して男性に差し出します。

 男性は荷物を一度床に置いて訝しげにその書状を受け取り、それに目を通すとふんと鼻を鳴らします。


「なるほど。ゴルドーの旦那の書状に違いねぇ。……で、嬢ちゃんが、リコルット・ルーデランドさんなのかい」


「はい」


「……侯爵令嬢なんだよな?」


「はい。……そうは見えないかとは思いますが、侯爵の娘です」


「見えねぇなぁ。っと、すまん。侯爵の令嬢さんにこんな口聞いたらいかんな」


「いえ、お気になさらないでください。ところで、失礼ですがお名前を教えて頂けませんか?」


「それなら遠慮しないぜ。俺の名前はロギー・デカンズだ。この飯屋デカンズの店長だ。……ま、とりあえず入るか」


 ロギーさんは書状を手提げ袋のなかに入れてお店と隣の家の間の路地の中を進んで行くので、私もそれについて行きます。

 ちょうとお店の反対側が玄関口になっているようで、そこから家の中に入ります。


「帰ったぞ」


「おかえりとうちゃーん」

「おかえりー」

「おかえりなさーい」


 ロギーさんの声に、子供の声が三つ重なるように答えて、どたどたと騒がしい足音が近づいてきます。


「失礼します」


 私も続いて中に入ると、走ってきた子供たちとばったり遭遇します。


「おねえちゃんだれー?」

「誰ですかー?」

「お客さんですか?」


 小さな男の子と、その子より少し大きな女の子。

 そしてその二人の子供に両側からくっつかれている女の子がきっと一番お姉さんなのでしょう。


「この人はな、今日からたまに働きに来る人だ。仲良くしてやるんだぞ」


「はーい」

「はーい」

「はーい」

 

 三人の子供たちの元気の良い返事を聞いて、私も元気をわけてもらえました。


「リコルットといいます。よろしくね」


「ロイだよ。よろしくおねーちゃん」

「イオです。よろしくおねがいします」

「メアっていいます。私たちもいつもお店の手伝いをしているので、一緒に頑張りましょう!」


「ふふ。よろしくお願いしますね、ロイくん。イオちゃん。メアちゃん」


 私はその場でかがんで、三人と顔を合わせてにっこりと挨拶をしました。

 

「あらー? その子がゴルドー様のおっしゃってた侯爵令嬢さんかしらー?」


 奥の部屋から間延びした女性の声が聞こえてきました。

 

どうやら、ロギーさんの奥様のようです。

 ほっそりとした方で、茶色の髪を一本に結んで肩から前に流しています。

 エプロン姿がよく似合っていて、細い目元が優しい曲線を描いています。 


「はい。リコルットと申します。これからしばらくお世話になります。お手数お掛けすることになると思いますが、誠心誠意努めて参ります。よろしくお願いします」


「ご丁寧にありがとうございますねー。私はマールと申します。夫のロギーと共にこの店を経営しています。リコルットさんにはまず下ごしらえを手伝ってもらおうかしらー?」


 マールさんはロギーさんの方を向いて確認するように言います。


「いいんじゃねぇかな。令嬢さんがどのくらいのことをできるのかは知らねぇが、最初は誰だって初心者だ。気負わずゆっくり丁寧にやることだ。……こっちが厨房だ、ついてきな」


 ロギーさんは奥へと進みながら、私の方を振り返ることなく言いました。


「はい、よろしくお願いします!」


 私は少し気合を入れてからロギーさんの背中を追いかけました。


「ぼくがおしえてあげる!」

「あたしが教えてがえるー!」

「はいはい。二人ともケンカしないの」


 その私の背中にくっつくように、ロイくんとイオちゃんとメアちゃんがついてきます。

 私は少し驚いてしまいましたが、振り返ってしゃがみます。


「色々教えてくださいね、先輩の皆さん!」


 ロイくんは首を傾げます。


「せんぱい?」

「先生みたいなもの?」

「うーん、ちょっと違うけどそんな感じ」


 メアちゃんがそう教えてあげると、ロイくんとイオちゃんはパーっと顔を輝かせました。


「うん! がんばる!」

「たくさん教えてあげるね!」

「分からないことあったら何でも聞いてくださいね」


 三人は少し誇らしげです。

 

「それでは、行きましょうか!」


 私はすっと立ち上がって、三人と一緒に厨房に向かいます。



 ――こうして、「飯屋デカンズ」での労働の日々は幕を開けるのでした。

 




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