19話 転機となる襲撃と英雄の誓いのお話
その日は、朝から特に変わった様子もなく、いつも通りの一日の始まりに思えました。
「いってらっしゃいませ、ヴェルザル様」
「うむ。行ってくる」
そんな短い挨拶を交わすことも、私にとってはたまらなく嬉しい時間です。
王国騎士団訓練兵舎に向かわれるヴェルザル様を見送って、掃除や庭の手入れなどをしていると、ふと人の気配を感じました。
ヴェルザル様のお住まいの周りの住宅にもちろん人は住んでいますが、いつものこの時間はまるで人の気配がないほどに静かなものです。
それなのに、複数の人の気配が私には感じられました。
それが勘違いであれば良いのですが、そうでなかったら大変です。
「……もしかして」
私は物音を立てないように庭に出て、周囲の様子に耳をそばだてます。
すると、やはり複数の人たちがヴェルザル様のお住まいの周りを囲むようにうろついているようです。大きな足音を立てているわけではありませんが、足音を隠しているわけでもないようです。その人たちがどのような人たちなのかは分かりませんが、怪しいことは間違いありません。
「ついに、来たのですね」
私は緊張と恐怖で早まる鼓動を落ち着けながら、住まいの中へと戻ります。
「もう囲まれているみたいですから」
私は住まいの外に逃げ出すことを諦めて、ヴェルザル様に教えられている通りに地下室に向かいます。地下室の扉は衣装室にあるクローゼットを開いたその奥にありました。
衣装室といっても、そこにあるのはヴェルザル様が受勲や贈答品として受け取った衣装がほとんどで、貴族の屋敷にあるような華やかな空間ではありません。
地下室の入口は念入りに調査しなければ気がつくことができないような場所だとは思いますが、逆に言えば念を入れて調査すれば気が付かれるということでもあります。
もしも気が付かれてしまった時には――――
そんな嫌な考えが頭をよぎったとき、遠くから物音が聞こえます。
その物音はもはや気のせいでは済まされないほどに近づいてきているように思えました。
おそらく、この住まいを囲んでいる人たちが徐々にその輪を徐々に小さくしているのでしょう。
「迷っている場合ではない、ですね」
私は決心をして、クローゼットの中に入り、その戸を閉めます。
そして、クローゼットの奥の扉を開き、何も見えない暗闇の中へと進み、それからその扉を閉めます。
「……真っ暗、ですね」
地下室にはヴェルザル様の貴重品や頂いた贈答品などが収納されていて、用事があれば蝋燭に火を灯して入るのですが、今回はそんな悠長なことはできそうにありません。
それに、その火の明かりが原因で見つかったりしても困りますし、どのくらい長い間地下室にいることになるのかも分からないので、この暗闇の中でじっとしているしかないでしょう。
真っ暗闇の地下室にはじっとりとした湿気があって、お世辞にも居心地の良いところとはいえません。それに真っ暗闇というのは、正直に言ってしまうととても怖いです。
実は私の勘違いだったりしないでしょうか、と考えていると大きな物音が聞こえてきました。
ついに家の中にまで入りこんできたようです。
そして私の勘違いではなかったことがはっきりと分かってしまいました。
私の存在を認識しているのかどうか分かりませんが、複数の足音が家の中で音を立てているのが聞こえてきます。
私のことを、探しているのでしょうか。
あるいは、何か物を探しているのでしょうか。
ヴェルザル様が不在であることは知った上で来ているのでしょうから、それ以外に何か目的があるはずです。
その足音から、彼らが何をしようとしているのかまではさっぱり分かりません。
私は暗闇の中で自分を抱きしめるように座り込んで、彼らが去るのを待つしかありません。
そしてふと、自分が震えていることに気が付きます。
「……こうなることは、分かっていたのに」
私の呟きの直後に、耳をつんざくような音が響きます。
おそらく、何かものを壊したのでしょう。
それに続くようにいくつも、いくつも、物を壊す音が聞こえてきます。
人の声は全く聞こえません。
けれど、物が壊れる音だけは地下室に届く程に大きく響いていました。
私はその音と共に、多くのものが無情に壊されていることを理解しました。
「分かっていたのに……っ」
私は物が壊されていく音を聞きながら、ただただ震えることしかできませんでした。
◆◆◆
ヴェルザルにその知らせが届いたのは、昼休みに入ろうかという時間だった。
『ヴェルザル教官のお住まいの近くで何か事件があったようです!』
それを聞いたヴェルザルは訓練生たちに自主鍛錬を言い渡してすぐさま駆け出した。
そして家の前に着くと、人だかりが出来ていた。
「失礼! 通して頂きたい!」
ヴェルザルの一喝に人だかりはビクリと反応し、慌てて道をあけた。
「ご協力感謝する」
ヴェルザルは短くそう言って自分の住まいの中に入っていく。
壁や床には大きな傷や穴が作られ、机や調度品は破壊され、変わり果てたその住まいの様子に、ヴェルザルは事態の深刻さを理解し、その頭が燃え上がるように熱くする。
「リコルット殿!」
ヴェルザルはリコルットの名を叫び、衣装室へと駆け入る。
「リコルット殿! 私だ、ヴェルザルだ!」
衣装室でそう叫ぶと、ゆっくりと軋むような物音がした。
「……ヴェルザル様?」
そして扉が開く音と共に姿を現したのは、その表情を陰らせたリコルットだった。
「リコルット殿……!」
ヴェルザルはほっと一息つき、リコルットに駆け寄った。
「ご無事ですか! お怪我はありませんか!」
「は、はい。大丈夫です。それよりも、ヴェルザル様のお住まいが……」
リコルットは心ここにあらずといった様子で、虚ろにそう呟いた。
「そんなものはどうでもいい! ……ご無事でよかった」
ヴェルザルはリコルットの手を強く握りしめて、心底ほっとしたというように息をついた。
「……ヴェルザル様」
リコルットは、そんなヴェルザルの行動にその目を潤ませて俯いた。
「……っ! こ、これは失礼」
ヴェルザルはそんなリコルットの様子には気づかず、自分がリコルットの手を無意識に握りしめていたことに気が付くと慌ててその手を離した。
そしてようやくリコルットの様子がおかしいことに気が付いた。
そのリコルットの様子を、ヴェルザルは怖がっているのだろうと解釈した。
「……リコルット殿」
ヴェルザルは名前を呼んでから、どう言葉を続ければいいのか分からなくなってしまった。
危険なことをリコルットは承知していたが、こんな事態になる可能性があってそれを受け入れたのはヴェルザル自身だった。
どうしてあの時、断ることができなかったのか。
断っていれば、こんな事態にリコルットを巻き込まずに済んだのではないか。
ヴェルザルの中に、そんな後悔と自責の念が去来する。
こうなるかもしれないという可能性を、どうして自分は無視してしまったのか。
――それほどまでにヴェルザル自身の心がリコルットに寄り添っていることに、ヴェルザルはこのような事態になってようやく気が付き始めていた。
「……申し訳ありませんでした、ヴェルザル様」
リコルットの唐突なその言葉にヴェルザルは慌てた。
「どうしてリコルット殿が謝る必要がある。謝るべきなのは私だ。……すまなかった、リコルット殿」
ヴェルザルが絞り出すように言うと、リコルットは俯いたままなおも謝った。
「……悪いのは、私、なんで、す」
リコルットのそんな震えた声を、ヴェルザルはどこかで聞いたことがあるような覚えがあった。
恐怖に震え、たどたどしく紡がれるその言葉のその声色は、ヴェルザルの記憶に確かに存在していた。
いつのことだったかはヴェルザルの中で明確ではない。
騎士団兵舎に潜り込んでいた怪しい二人組の男を捕えた時に、その場にいた少女。その声色に、それはあまりにも似ていた。
ヴェルザルはそれがいつの記憶だったのかを思い出そうとしてリコルットの顔を見た。
「リコルット殿……?」
そこで初めてリコルットが泣いていることにヴェルザルは気が付いた。
「わたし、本当に取り返しの、つかない、ことを」
リコルットの嗚咽交じりの言葉に、ヴェルザルはいよいよ自分がどうすればいいのか分からなくなってしまった。
困り果てたヴェルザルが思いついたのは、リコルットが再び同棲生活をすることになった日にした約束だった。
「私の傍にいれば危険だと、これではっきりしてしまった。進んで危険は冒さない。そして、何かがあったら屋敷に戻る。それが約束だった。そうだろうリコルット殿」
ヴェルザルの声色に刺々しさも突き放すような厳しさもありはしなかった。
けれど、その言葉を拒絶の言葉と受け取ってしまうほどにリコルットは冷静ではなかった。
「……はい。お約束いたしました」
リコルットは全てを諦めるかのように、顔を伏せたまま動かなくなった。
ヴェルザルはそんなリコルットを励まそうと言葉を続けた。
「私の住まいについて心配する必要はない。王国騎士団の兵舎をしばらくは借りよう。全てのものを運び出せはしないだろうが、無事に残っているものについてはできる限り持っていく」
「……はい」
リコルットはそう答えるが、顔は上げなかった。
滴り落ちる涙も、止まることはなかった。
ヴェルザルには、リコルットがどうしてそれほどに自分を責めているのか分からない。
それを聞き出すことも、彼には正しいと思えなかった。
だから、ヴェルザルは愚直なまでに、リコルットに正直にいようとそう考えた。
「必ず、あなたを迎えにいく」
リコルットは、ゆっくりと顔を上げた。
ヴェルザルは、リコルットが怯えるかどうかなどと遠慮することなく真っ直ぐにリコルットの目を見た。
リコルットはその視線に怯えることなく、同じように目を見た。
リコルットの潤んだ瞳には驚きがあり、ヴェルザルの鋭く力強い瞳には決意があった。
「どうか、待っていてほしい。この事件が解決し、何の憂いもなくあなたと暮らせると、そう断言できるようになるその時まで。そしてその時は、私のために料理を作って、掃除をして、そして何よりも笑顔でいて欲しい。私もその一助となりたい」
ヴェルザルの言葉に、リコルットの潤んだ瞳は揺れた。
「……もしも、その時にまで私のことを憎からず思ってくれていたのなら、だが」
先に視線をそらしたのは、人生で初めての愛の告白とも言えるその言葉を捻りだしたその羞恥に耐えきれなかったヴェルザルだった。
「わ、私なんかで、いいのですか」
リコルットは驚きのあまりに声が上擦っていた。
これまでリコルットがヴェルザルに好意をはっきり示した回数も多くはないが、ヴェルザルの方からはっきりと好意を示したのはこれが初めてだった。
「そうだ。リコルット殿が……いや、そうだな」
ヴェルザルは咳払いをして、言い直した。
「リコルット。あなたと一緒にいたいと、そう思っている」
「……こんな、嬉しいことが、あっていいんでしょうか」
リコルットの瞳からは大粒の涙がぼろぼろと流れた。
「嬉しいと思ってもらえることが、私にはたまらなく嬉しい」
ヴェルザルはリコルットの手を優しく握る。
「どうか。私を信じて待っていてほしい」
リコルットは、その顔をくしゃくしゃにして、泣いて、そして笑って、けれどそこに一抹の憂いを秘めさせて答えた。
「はいっ! いつまでも、いつまでも待ちます!」
◇◇◇
その後、ヴェルザルは王国騎士団兵舎に移り住み、リコルットは屋敷へと戻った。
ヴェルザルの言葉に偽りはなかった。
しかし、同時にこの事態がそう容易くは解決しないだろうということをヴェルザルは嫌というほどに理解していた。
果たしてリコルットがどれまで待っていてくれるのだろうという考えも浮かんだが、もしも思い人を他に見つけることができたのならそれが彼女の幸せだろうと思えるほどにヴェルザルはリコルットの幸せを祈っていた。
それからのヴェルザルの生活は、一人で生活していた頃とそれほど変わらなかった。
王国騎士団兵舎に対して襲い掛かるようなことはないだろうと考えられていたし、実際にそれ以降ヴェルザルに対して帝国の主戦派が何かをすることはなく、日々は過ぎた。
そして、その知らせがヴェルザルに届いたのは、ヴェルザル邸襲撃の事件から二か月ほど経ったときだった。
「……結婚式、だと?」
それは、ヴェルザルとリコルットの結婚式開催の知らせだった。




