18話 転機となる再びの同棲生活のお話
それは、私とお父様の話し合いから二か月ほど経ったある日の朝のことです。
季節が秋口に入り始めた時節で、吹き抜ける風に涼しさではなく寒さを感じるようになり始めていました。
街を歩く人たちも服を重ねてきるようになりつつありますが、その日は陽射しが暖かくて、心地よいお天気です。
そんな日の朝早くから私は屋敷を出て、とあるところにまで歩いてきました。
「……リコルット殿?」
扉を開いて出てきたのは、ヴェルザル様です。
そしてその目の前にいるのが私、リコルット・ルーデランドです。
「はい。リコルットです、ヴェルザル様」
そう、私はたくさんの荷物を鞄に詰めてヴェルザル様のお宅に来ていたのです。
「……これは、どういうことなのだろうか」
ヴェルザル様は、私以外に誰かが一緒に来ていると思われたのでしょうか。
周辺を見渡してから首を傾げます。
「その、本日はお休みだと聞きまして、きっと今行けばお会いできると」
「……そ、そうか」
私は久しぶりにお会いできたのもあって、ついついヴェルザル様をじっと見つめてしまいます。私があまりに遠慮なくヴェルザル様をじろじろと見るものですから、ヴェルザル様は少し居心地が悪そうです。
……よく見ると、少しお痩せになったようです。
いまだに暴動らしい暴動は起きていませんが、帝国主戦派の影は、ヴェルザル様の心と体を確実に蝕んでいるのでしょう。
「それで、その、また一緒に住まわせて頂きたいのですが」
「……今なんと?」
「一緒に住まわせて頂きたい、と」
「リコルット殿。状況を分かっていないわけではないだろう」
ヴェルザル様は少し怒っているようで、私はびくびくしてしまいます。
「は、はい。もちろんです。理解はしています」
「それならばどうして」
ヴェルザル様の問いに、私ははっきりと目を見てお答えします。
「私が、そうしたいからです。私がヴェルザル様のために、何かをしたいと考えたからです。……もっと正直に言ってしまうと、その、私は、ヴェルザル様と一緒にいたいのです」
ヴェルザル様は目を見開いて驚かれて、それから慌てて言います。
「リコルット殿のお気持ちはよく分かったがしかし」
「どうかお願いいたします。もしも何かあった時には屋敷に戻ります。決して自ら進んで危険を冒すようなことはしません。ですからどうか」
私は言いながらヴェルザル様に詰め寄ります。
「………………分かった。その二つを守れるというのなら、私から言うことは何もない」
ヴェルザル様は諦める様にため息をついてそう言って、穏やかに笑みを浮かべてくださいました。
その小さな笑みが、私にはとても、とってもとっても嬉しく感じられました。
「ありがとうございます!」
私は舞い上がってしまって、小躍りしそうになります。
「……こちらこそありがとう」
ヴェルザル様はそう短く言うと私に背を見せて扉を開きます。
「事前に連絡の一つぐらいは欲しかったがね」
そしてお礼を言った気恥しさを誤魔化すようにそうおっしゃるのでした。
「……はい、申し訳ありませんでした」
私は嘘をついていました。
その嘘に対する謝罪の気持ちも込めたことを隠すように、私は明るく振る舞わなくてはいけません。
ヴェルザル様にだけは、この嘘を見抜かれてはいけないのですから。
私はヴェルザル様の背中を見送ってから荷物をいつもの客室に置きに行きます。
「……ふふ。久しぶりです」
私は客室の寝台や窓にそっと触れながら、ヴェルザル様のお住まいに初めて来た日のことを思い出します。
そしてそれが連鎖するように、ヴェルザル様に出会った日の記憶が蘇りました。
怪しい二人組に抱いた恐ろしさ。
ヴェルザル様の優しさ。
それを裏切った自分の臆病さ。
「私にできることを、しっかりやらないと」
あの時の私とはもう違います。
私はヴェルザル様の力になるために、こうして押しかけたのです。
「……まずは掃除からですね! 頑張りましょう!」
私が自分を奮い立たせて客室を出ると、ちょうどすぐそこにヴェルザル様が立っていらっしゃいました。
私がびっくりしていると、ヴェルザル様が遠慮がちに言葉を紡ぎます。
「驚かせてしまってすまない。……リコルット殿」
「は、はい。なんでしょうかヴェルザル様」
私は独り言を聞かれたのではないかと恥ずかしくなる気持ちを抑えてそう答えます。
「私にも家事を手伝わせてもらえないだろうか」
「えっ?」
私は思ってもみなかったヴェルザル様の言葉に驚いてしまいます。
「で、ですが、これは私がお役に立ちたくてやっていることですので」
「それは分かる。嬉しくも思う。ただ、それをぼんやりと見ているのは、かえって居心地が悪いのだ」
「居心地が、ですか?」
「居心地が、だ。リコルット殿のすることを否定するつもりは欠片もない。ただ、少し手伝わせてもらえればと思うのだが」
ヴェルザル様のその遠慮がちな言葉に、私は胸が熱くなっていました。
ヴェルザル様に手伝って頂けるのももちろん嬉しいのですが、それ以上にヴェルザル様にそう言って頂けたこと自体が、たまらなく嬉しくなってしまったのです。
お役に立ちたいという気持ちもあります。
私に任せてくださいという気持ちもあります。
それでも、ヴェルザル様のそのお言葉は、家政婦に対するものではなくて、まるで旦那様が奥様に接するような、優しくて温かみのあるものにも思えてしまったのです。
「……! は、はいっ! よろしくお願いしますっ!」
どうして喜ばずにいられるでしょう。
私は満面の笑みでお答えしました。
「う、うむ。よろしく頼む」
「それではまずは、埃をはたくところから始めましょう! どこのお部屋からにしましょうか!」
「ど、どこがよいのだろうな」
「それでは、このお部屋から!」
「う、うむ」
「…………あっ」
私は気分が高揚しすぎていて、ヴェルザル様が困っていらっしゃることに今更気がついてしまいました。
「も、申し訳ありません。はしゃぎすぎてしまって」
私はなんだか急に自分がまた情けなく思えて縮こまる思いで俯きます。
「……いや、気にすることはない。私も、実は少し楽しいのだ」
「え?」
再びの意外すぎるそのお言葉に、私は呆気にとられてしまいました。
「誰かと掃除をする機会自体はこれまでも騎士団で何度もあった。我が家を掃除する機会も少なくはない。……けれど、リコルット殿が掃除をしているのを見ていると、なんだかそれが楽しそうに思えてしまってね」
「楽しそう……でしたか?」
「そうだ。だから任せてしまってもいいのだろうとも思った」
「それではどうして今日は手伝ってくださるのですか?」
「……分からない」
ヴェルザル様は、分からないと言いながらもその表情に陰りはなくて、むしろ少し楽しそうに見えました。
「分からないが、手伝いたいとそう思ったのだ。たまの一度くらいは、手伝いたいと」
「ヴェルザル様……」
「うむ。それよりも掃除をしよう、リコルット殿。私は何をすればいいだろうか?」
「あっ。それでは、まず高いところから埃をはたいていきましょう」
「心得た」
そうして、いくらか落ち着いた私は、どこか楽しげなヴェルザル様と一緒に掃除をすることになるのでした。
いつも一人でするか、家政婦の方と一緒にすることの多い掃除ですが、まさかこのような形でヴェルザル様と一緒にすることになるとは思ってもいなかったので、私はどうしても夢心地でした。
なので、気が付いた時にはすっかりお昼を過ぎてしまっていて、お昼ご飯よりも晩御飯のことを考えなくてはいけない時間になっていました。
端的に言ってしまうと、陽がほとんど傾いていました。
「……楽しいというのも考えものだということがよく分かった」
ヴェルザル様は神妙な顔つきでそうおっしゃいます。
これでもかというほどにお住まいは綺麗になったのですが、他のことがおろそかになってしまってはいけません。
「も、申し訳ありませんでした」
「リコルット殿が謝ることは何もない。だが、どうしようか」
「え、えっと…… それでは私は晩御飯の支度をいたしますので、買い物に行って参りますね」
「うむ。よろしく頼む。……いや、そうだな。私も行こう。万が一、ということもある」
ヴェルザル様の言葉を聞いて、私は冷や水を浴びせられたように熱を失っていくのを感じました。
「万が一……ですか」
「ああ、そうだ。私の身の回りに今のところそれといった怪しい動きはないが、警戒を怠るわけにはいかない」
「……そうですね。申し訳ありませんが、よろしくお願いします」
私は不意に現実に引き戻されたような錯覚を感じました。
先ほどまでの楽しい時間が、まるで夢だったかのように、自分の頭が冷静になっていきます。
自分の役割を、ここに来た理由を忘れてはいけません。
私は、進んで危険を冒そうとしているのです。
「献立は決まっているのかね?」
「…………」
「リコルット殿?」
「は、はい。えっと、お買い物をしながら考えようかなと」
ヴェルザル様はこれが食べたい、あれが食べたくない、などということを全くおっしゃらない方なので、いつも美味しいものを食べてもらえるようにと旬のお野菜や新鮮なお肉や卵などを選んで料理をしています。
それでもできる限りお尋ねするようにはしているのですが、ヴェルザル様の方から尋ねられたのは初めてのことでした。
それはとても嬉しいことのはずなのに、私の心は冷え込んでしまっています。
「そうか。では、私も共に考えるとしよう」
「…………はい、ありがとうございますっ!」
それでも、私は努めて笑顔を作ります。
ヴェルザル様にだけは、私の考えを知られてはいけないのですから。
※次回以降は数日おきの投稿となります。




