マジキチと呼ばれた男
楽しい作品を書きました。
突然だけど、僕はマジキチだ。どういうわけか周りの皆がそう呼ぶんだから仕方がない。
マジキチ。一聴にしてコンビニのおにぎりのラベルに書いてありそうな四文字だけど、世間一般にはそんな意味合いじゃないらしい。そういうのに疎い僕だから調べてみました、マジキチの意味。
【マジキチ】
・常軌を逸した人物・物事、特に人物の形容として使う。マジでキチガイじみているの略語。
(そんなに偏った愛を示すのは――だ。)
うん、納得いかない。なんだよ常軌を逸した行動って。ずいぶん無礼な言葉だな。僕は一般社会の一般階級に生きる一般的な一般人だ。訂正、好青年だ。
そんな僕がマジキチ? 冗談もほどほどにしてほしい。今度皆に言ってやらなきゃ。
「さてと、そろそろ出かけるかな。外は寒いだろうな、マフラーと手袋していかなきゃ」
時刻は午後の六時半。一時間後、近所の飲食店で待ち合わせをすることになっている。少し早めの出発だが、これには理由がある。
「リュックにはお財布に定期券、スマホに充電器それと文庫本を一冊。あとはカイロをふくめた常備品を一通り。相手の電話番号も控えてあるし、ばっちりだ」
さっきシャワーを浴びて、身だしなみは整えた。これから外に繰り出す自分の姿をもう一度、姿見で確認する。
整髪料で額を見せるようにセットした髪は、ちょっとだけ右下に流すことでさわやかな印象に。荷物をつめた小柄なリュックはスマートな見た目とはうらはらに収容力がすこぶる高く、ずっと愛用している品物だ。
クツだって、ちょっと良い値のブランド物をセールの時に買っておいた。
胸元には金に輝くペンダントが一つ。
服装は、海パン一丁。
「よし完璧だ」
僕は玄関の戸をくぐった。晩冬のきびしい冷気が体中の毛穴をつらぬいた。
「んっぎゃぁぁあああああああああ毛穴がッ、毛穴がぁああああああああああああああッ! 寒い」
ふぅ……手袋とマフラーが無ければ即死だったぜ。
夕闇に染まる河川敷をリズムよくなぞっていく。初めは早歩き、そしてスピードを徐々に上げ、最後はジョギングへと移行する。
これは毎日続けているトレーニングの一環だ。
今月末におこなわれる新春・寒中水泳大会、僕はそれに出場することになっている。雪さえ舞い降るこの時期だ。何の準備もなしに、極寒の天然水へ飛び込むのは流石に無鉄砲だといえるだろう。そこで僕は考えた。
本番に近い状態でトレーニングをするべきではないか──と。
だからこうして大会当日に着用する予定の水着をはいて、日々の鍛錬を積むことにしている。
待ち合わせ時間より早めに家を出たのも、ジョギングをするためだ。
しかしことわっておくけど、最初からこの姿でやり始めたわけではない。きちんと段階を踏んでトレーニングをしてきた僕だからこそできる芸当だ。
素人がいきなり海パンで街中に出てはいけないぞ。寒いから。
そんな僕を見て周囲の皆はマジキチだとか変態って言うけど、どこがおかしいというのだろう。僕はこの大会に向けて、真剣に取り組んでいるだけだというのに。
そして、僕が大会で目指すものはただ一つ……優勝だ。今度の大会は、絶対に負けられない。
川沿いに走っていくと海に出た。
砂浜を渚の風がなでていく。赤みを帯びる水平線は夜の帳がおりていくのを、緞帳の後ろで名残惜しげに手を振り続ける舞台役者のように、光の際を輝かせていた。
比喩なんか使って格好つけてみたけど、そうでもない。
海を折り返し地点とし、あとは来た道を引き返すだけだ。復路をたどって、僕の家をすぎた先に待ち合わせ場所のお店がある。
僕はお店に到着した。あたりはすっかり暗くなっていて、店先で流れる川面に街燈が反射されてまばゆい。
今日はコースを短めにしたこともあって、息切れどころか汗の一滴も出なかった。このトレーニングを始めてからというもの、心臓と肺が非常に強くなったというのは密かな自慢だ。
余裕を持たせて時間を決めていたけど、その予定よりもやや早くついてしまった。手持無沙汰にならないよう、僕はリュックから文庫本を取り出してしおりを挟んでいたページを開く。
ちょうど場面としては面白いところだ。読み進めているうちに可笑しさをこらえきれず、不覚にも吹き出してしまうことがあった。その度にハッと顔をあげると、道行く人々から奇異の目で見られてたのは、少し恥ずかしかった。
本を閉じて首に下げたペンダントをいじっていると、きれいな女性がやって来た。
「今日も海パン、なんだね」
はにかむ顔がとてもかわいいこの人は、僕の恋人だ。今日は彼女とディナーをともにする約束をしている。
窓の外から覗いてみるとお店の中は、シンプルのようでおしゃれな雰囲気がただよっており、彼女の清楚さにとても合っていた。
「さ、中に入ろう」
お店のドアに手をかけ、彼女をエスコートしようとした。そのとき、一台のスクーターが猛然と僕らの横を突っ切った。
後から巻き起こった風が僕の脇をなめて行ったので、少し寒かった。
「危ない運転するなぁ。大丈夫だった?」
たずねてみると、恋人の顔はとても青ざめている。どうしたのだろう。
「い、今のスクーターにバッグを……」
「なんだって!」
ひったくりだ。振り返ってみてみると、確かに運転者の手には彼女のバッグが握られていた。僕の恋人に手を出すなんて、許さない。
彼女に店で待つように言うと、僕は全力でアスファルトを蹴った。勢いよく撃ち出された体は弾丸のように道路を飛んだ。
スクーターの背中はそう遠くへは行っていない。マフラーが、風に強くなびいた。
大声で叫びながら二輪車の後を追う。運転者は僕の存在に気づいたようで、その速度を一層早めた。
しかし追手の僕も負けてない。むしろ距離をみるみるうちにちぢめていく。日ごろの鍛錬がここで活きたと、心の隅で喜んだ。
ときどきスクーターの方から風に流れて声が届いた。
「たすけ……まじ……きちが…………いかけてくる」
何を言ってるのかさっぱり分からない。
汗が体中から後ろに向かって噴射される。夜風を切る音だけが耳に入る。
ひったくりと僕の距離の縮まりを決定づけたのは、細い曲がり角を折れた瞬間だった。
カーブを曲がるためにスクーターが速度を緩めるのに対し、僕は一切の減速をゆるさず角を直角に曲がりきった。
ひったくりが何かまた叫んでるけど、今度は言葉というより絶叫だった。何故だろう。
細い道を抜けて川に面した道に出ようとしたとき、曲がるのに失敗したスクーターははげしく転倒した。
ひったくりの手に握られていた彼女のバッグが空中に放り上げられた。しかし運悪くバッグの口が、川に向かってかすかに開いていた。その隙間から飛び出したのは、一本のペンダントだった。
それは、恋人とおそろいで買った思い出の品だった。
僕が大声で転倒者はひったくり犯だと叫んだため、スクーターに乗っていた男は周囲にいた人が取り押さえてくれた。
そして僕は走る速度を落とすことなく人だかりを通り過ぎ、背中のリュックと防寒具を投げ捨てると川沿いのガードレールを飛び越えた。
宙を舞うペンダントに向かって飛びつく。
伸ばした左手の指先が、チェーンをぎりぎり引っ掛けてつかみ取った。
「やった!」
思わず喜びの声をあげられたのも束の間、僕は自分の状況を思い出す。左手の真下には水面。
それを認識するよりも、僕が落ちる方が先だった。
着水した箇所から順に握り潰されるような水の冷たさが襲う。落ちたのは頭からか、はたまた足からか。天井も水底もまっくらで前後不覚におちいりかけた。
……もはやこれまでか。
すると、頭上に光が射しこんだ。
一筋。いや二筋、三筋、四筋……水中を照らす光はぞくぞくと増えていく。きれいだ。
無重力の中にいる僕から見ればそれは、まるで天使の梯子のように見えた。
僕は光の見える方へ進んだ。水をかき分け、ひたすらにかき分け、光のもとを目指した。
やがて僕は水面に出た。顔をぬぐうと沢山の照明が目に入り、大勢の声が聞こえた。目を凝らしてみればガードレールに多くの人が集まっていた。
「いたぞ!」
「おうい! 大丈夫か!」
主にそんなことを言われている。手を振って無事を伝えた。光の正体はどうやら彼らの持っている懐中電灯や携帯電話によるものらしい。
なんだかよく分からないけど、漠然とした安心感を胸に得た。
僕は岸に向かってゆっくり泳ぎだす。
こんな時、海パン姿でよかったなと思える。水を吸って重くなった服に、わずらわしさを覚えなくて済むんだもの。
川の水は凍てつくほどに冷たいけど、毎日泳いでる寒流の海に比べたら大したことはなかった。
引き上げられた僕の姿を見て、群衆の誰かが言った。
「海パンを持ってるなんて、用意がよかったんだな」
「いえ、これが普段着なんで」
何の気なしにそう言うと、周囲は水を打ったように静まり返った。そしてその中で、またも誰かが呟いた。
「マジキチかよ」
うわ、出た、マジキチ呼ばわり。調べて出た意味を要約すると、変な人。
僕はちゃんとした大義名分を背負ってこの格好をしているんだ。今回はしっかり異議の申し立てをしておかないと。
「いや、そうじゃなくてですね──」
言葉は途中でさえぎられた。
僕の胸に恋人が飛び込んできたのだ。片手には僕のリュックが、もう片方には盗られていたバッグがしっかり握られている。
彼女は「無事で良かった」と何度もくりかえし、子供みたいにわんわん泣きじゃくっている。顔はすでにぐしゃぐしゃで、もはや鼻水さえ垂れ流していた。
「外が騒がしくて店を出たら、突然現れた海パン姿の青年が川に飛び込んだって聞いて、それってキミ以外考えられなくて、それで……」
恋人の話にひっかかる節があり、目の前にある建物の看板を見て驚いた。なんとここはさっきの飲食店の前だった。どうやらスクーターを追いかけてるうちに区画を一周していたらしい。
なんだか可笑しくなって、思いがけず笑ってしまった。
「何がおかしいの?」
きょとんとした顔をする彼女の背中をさすりながら、首を振る。
「何でもない。そうだ、これ」
恋人の手を取ってひらかせた。その上に左手を添えて、握っていたものを放す。彼女は目をまるくした。
「あっ、ペンダント……」
「濡らしちゃった、ごめんね」
「まさかこれを取るために……?」
「それを失くしたら、君が悲しむと思って」
彼女は目をいっそうまんまるにし、その後肩を思いっきり引き上げ、と思えば今度は逆に眉を下げて顔を真っ赤にするなど、一通りいそがしく表情を変えまくった所でまたもや目頭を潤すと、
「ありがとおぉ~~」
ぽろぽろ涙をこぼしながらなんともふやけきった声で抱きついてきた。さすがに僕も苦笑するしかなかったけど、周囲の人たちからはあたたかな拍手が起こった。恥ずかしくなってきたから早くなんとかしたいんだけど、恋人がそれでも手を放さずに泣きつづけるから、もうどうしようにもできない。
雪が降って来たよ――と、子供の声がした。空を見れば、たしかに細かい雪があちこちへゆっくり降りてきている。
そこで、僕は思い出した。
今が真冬であることを。
自分が……海パン一丁であることを。
風が吹いた。人々は身をちぢこませた。
僕はわめいた。
「んっほぉぉおおおおおおおおおおおおおお! 寒いにょぉぉおおおおおおおおおおおおおおおおお!」
そして大きなクシャミをひとつ。マフラーと手袋のない僕は素っ裸も同様。全身びしょ濡れなのも相まって、体感気温は南極大陸に匹敵している、と思う。たぶん。
すると恋人は自分のコートの裏からカイロをはがし、僕のおなかに貼ってくれた。じんわりとした恋人のやさしい温もりが、僕の肌に直接つたわってくる。
「どう、あったかい?」
「あ……すごくあったかいや」
恋人は「よかった」と言う代わりに微笑した。
僕らを取り囲んでいた人はそれぞれ思い思いのところへ散っていった。
リュックの中にしまってあった防寒具を再び身に着け、僕は彼女と手をつないだ。
「もう大丈夫。これで安心だ」
「本当に? 大会前に風邪なんかひかないでね」
「絶対ひかないさ。大会のための格好なんだから」
「そんなに本気なんだ、優勝するの」
「当たり前だよ。だって君との約束だもの。絶対に賞品の旅行券は勝ち取ってやる!」
「じゃあ期待してるね、おバカさん」
「あっ、誰がおバカさんだ」
「おバカさんだからおバカさんなんだよ~だ!」
「おバカ……おバカ?」
「あれ? ……もしかして怒ちゃった?」
ピンと来た。すべてが納得いった。
「ねえ」
「はっ、はいっ!?」
僕は真剣な顔で恋人に向き直る。今、脳裏によみがえった事柄を丁寧に整理しつつ自分の身に起こった衝撃を理解するためにじっくり咀嚼している。
「あのう、どうかしましたかー? ……なんちて」
「僕はっ!」
「ひょい!?」
彼女は叩き付けたゴムボールのような反応をして目をしばたかせた。突貫工事だけど、結論はできあがった。
「僕はマジキチだ!」
「…………え?」
すさまじく微妙な顔をされた。つらい。
「僕はやっぱりマジキチなんだよ。どうして今まで認められなかったんだろう」
「あの、えと、ごめん、その、意味がちょっと分かんないんだけど……?」
「ごめん僕にも分からない」
「えぇ」
ゴミを見るような目で見られた。つらい。
「だって好きなんだもん君のこと」
恋人の動作が停止した。おそらく脳の処理速度が追いつけなくなったんだろう。
僕は考えた。何故こうも周りからマジキチ呼ばわりされているのかって。僕は大会で優勝を果たすために努力しているだけなのに、それを周囲からマジキチと言われるのだ。
では何故そんな行為をしているのか? 恋人との約束を守るためだ。
だったら恋人との約束を守ろうとするのは何故だ? そんなの決まっている。
「好きすぎるんだよなぁ、頭おかしくなるくらい好き。うわ、めっちゃ好き。本当もう大好き」
「いや、ちょ、えっ、なに、いきなり何!?」
「なんでこんな好きなの。好きすぎて超ヤバイってくらい大好き。愛しい、もはや愛しい」
「も、もう良いって! こっちが恥ずかしくなってきちゃった」
「あいらびゅー」
「もう良いってばあ!」
湯気だちそうな顔を見てたら笑えてきた。
「だからさ」
恋人の手を引いて、もう一回エスコートする。待ち合わせの飲食店、扉を開く。
あたたかい空気と音楽そして照明が彼女の赤ら顔と、僕の海パンをつつんだ。
「君のためなら、僕は何度だってマジキチになるよ」
【マジキチ】
・常軌を逸した人物・物事、特に人物の形容として使う。マジでキチガイじみているの略語。
(そんなに偏った愛を示すのは――だ。)
これが言いたかっただけだろシリーズ第一作目、まずは読んでいただき誠にありがとうございます。
久しぶりに伸び伸びと書けたので、僕はとても喜んでいます。すごく楽しかったです。読んでくださった貴方にも、その楽しさをお伝えできていたら嬉しいです。
さて、初にお目にかかるかもと存じます。天ノ川 こたろうと申します。僕のモットーはとにかくハッピー、飛びぬけてクレイジー(常識の範囲内で)、ほんのちょっぴりファンタジーと心得ています。
お笑いクリエイターくらいに覚えていただけると幸いです。
それではまたいつの日か!
ご愛読ありがとうございました。天ノ川先生の次回作にご期待ください!