第388話 海亀の血海モドキ
海が赤に染まったその瞬間、ケルヴィンやセラ、それに現在隠密に徹していたアンジェなどは、その水の危険性について直ぐに理解した。これに触れた瞬間、致命的な何かが起こってしまう。何が何でもそれは避けなくてはならないと、本能的に理解してしまったのだ。そして今、ケルヴィン達はそれら水に触れて――― いなかった。辺りの海水が赤で染まった今も、メルの『水絶除泡際々』が機能し続けていたからだ。水の影響を排除する彼の魔法は、どうやらこの赤い水にも有効のようである。
「……んっ? あれれ、何ともないの? これで結構な人数を一掃しようかなって、割と真面目に考えていたんだけど…… やっぱり、何かカラクリがあるのかな? 貴方達、地上に居るのかってくらい、ずっと素早いままだし」
可愛らしいそんな声を耳にして、ケルヴィンの心はゾクゾクと高鳴り続けていた。まるで初恋の相手に告白された時のように、或いは運命の相手と対面した時のように。
「……よお、はじめまして。漸く会う事ができたな、本気のお前と」
目を見開き、変化を終えた敵を見据える。ケルヴィンの瞳に映ったのは、マリアのような何かであった。上半身のシルエットは元々のマリアであるのだが、残りの半身は魚の尾で構成されており、まるで人魚のような姿になっていたのだ。しかし、それは決して人魚のような可愛らしいものではなかった。全身があの分身体達のように赤黒く、そして靄がかかっている。何よりも目に付くのは、マリアの全身を激しく行き来する十の光。融合する前の分身体達も、それぞれに一つずつ、似た光の塊を有していた。恐らくは分身体全てが融合する事で、それら光も一つの体に統合されたのだろうと、ケルヴィンは推測――― 同時に、マリアを囲っていた風の障壁が消失した事も感じ取る。
「やあやあ、本気の妾だよ~。 ……なんて言ってはみたけど、ちょっと決まりが悪いかな? 本気を出した初っ端の攻撃が看破されて、実はショックを受けているところなんだよね、妾」
「そうは見えないが?」
「それはまあ、妾は演技派ですから。でも、ショックなのは本当だよ? 妾が何の為に序盤から攻撃を受け続けて、血を海に流し続けたと思う? 何を隠そう、この『海亀の血海モドキ』を完成させる為だったんだよね」
「また随分な名前の技だな。料理人の道も切り開けそうだ」
じゅるりと、どこかの女神の口からそんな音が聞こえた気がした。無視した。
「フフン、家庭的な女の子はお好きかな? まあ、この技はどちらかと言うと、猟奇的な訳だけど」
マリア曰く、『海亀の血海モドキ』は海のバトルフィールドにおける、彼女の奥の手の一つであったそうだ。水中に自身の血を一定量ばら撒き、水自体を自らの肉体として一部機能させる。その機能こそが吸血行為であり、この赤い水に触れた者は、たとえそれが大型生物であったとしても、一瞬にしてミイラと化してしまう――― そんなカラクリであるらしい。
「使った血の量に応じて効果範囲が変わるけど、このくらいのバトルフィールドなら、今ので丸っと支配下に置けたかな? 黙っていても数日はこの状態が維持されるし、吸い取った血は妾に還元されて、広範囲の殲滅と魔力の補充が同時にできる、妾自慢の技なんだ~。バイ、開発協力は妾の五番目の娘!」
「何ともセンスに富んだ娘だな。だがまあ、俺好みではある。だから、俺の奥の手も受け取ってくれ。 ―――黒神鎌垓光雨」
「ッ!」
たっぷりと会話を挟んだお陰で、ケルヴィン達の攻撃準備は十分過ぎるほどに整っていた。ケルヴィンから放たれた魔力が、一斉に漆黒の光芒へと変化し、容赦なくマリアへと降り注いでいく。無数に誕生したそれらは、光の如く全てを両断する性質を有しているだけでなく、新たな力も併せ持っていた。
(やばばっ! これ、全部に強制石化の効果がある気がする! 回避回避、超回避ッ!)
そう、合体魔法【黒神鎌垓光雨】には、『神鎌垓光雨』に『大風黒神鎌』の力が新たに加えられたものだったのだ。水中になろうともその狂暴性は衰えず、あらゆる方向から襲い掛かるこの魔法は、如何に本気のマリアといえども触れる訳にはいかなかった。故に、彼女は全力で回避を試みる。
(いや、だからと言って全部躱せるような魔法じゃないんだが……)
人魚の姿となったマリアは、回避の最中、赤き水の中を信じられない速度で泳いでいた。新たな形態となった彼女は肉体を根本から作り直し、完全な水中仕様へと最適化してしまったらしい。よくよく観察してみれば鰓や鰭を有しており、手の指にも水かきがあった。本来であれば躱す事が絶対できないであろう黒神鎌垓光雨も、小さな小さな攻撃の隙間を見つけ、タコの如くそこへと入り込む。水中を優雅に舞い、骨格という概念があるのかが怪しい彼女には、全方位からの光速攻撃も関係ないのか、ただの一度も掠る事がなかった。そして、遂には漆黒の光の雨を抜け、攻撃の外へと辿り着く。
「「待ったおったぞ、最強ッ!」」
「出待ちはマナー違反だと思うかな、妾! で、誰ッ!?」
しかし、その先には融合して『血染の騎士王』となった、セラとジェラールが待ち構えていた。マリアを迎え入れるのと同時に、血染めの大剣、そして蛇腹剣の尾を同時に叩き込む。
「おっ! っと! っとぉ!? これは! 予想外! かもぉッ!」
「「それは! 私と! ワシの! 台詞じゃッ! ってのぉぉぉ!」」
斬撃を拳で迎え撃ち、下半身の尾を使って蛇腹剣を払いのける。その後に続く連撃にも、マリアは互角に対応してみせていた。いや、この場合はセラ達が互角に渡り合えているのだと、そう言った方が正しいだろうか。融合した事で超強化され、更には『怪物親』の効果が合わさる事で、セラ達は新たな領域に足を踏み入れていたのだ。正しくその力は、ケルヴィン達の現戦力中最強を誇るまでに至っている。圧倒的強者側であるマリアも、まさかこの場面で互角の接近戦を披露する事になるとは、夢にも思っていなかったようだ。
(うわ、すごっ。純粋な力による攻撃も、久遠仕込みの技も上手く対応されちゃってる。隙を見つけては血を付着させようとしてくるし、その都度吸血して対応するのがとっても面倒。諸々の強化を含めると、ひょっとしてネル以上の強さになってる……?)
刃と拳を交える最中、マリアはとある女騎士の事を思い出していた。元の世界でマリアとまともに殴り合える唯一の人間で、彼女がお世辞なしに実力を認める猛者である。
(こういう殴り合い、懐かしいな。ネルの奴、最近二人目の子供を授かって、なかなか遊んでくれなかったんだよね。何よ、今は子育てで大事な時期だから、遊んでる暇はないって!? わざわざ言われなくたって、妾だってそれくらいの事は分かるもん! ネルよりもずっと経験者だし! だから、我慢してあげてるし! まあ、代わりに久遠と知り合って、組手って形で遊ぶ事が増えたけど――― やっぱり妾、こういう激しいのが好き! 楽しいね、本当に楽しい! うん、この子なら大丈夫! きっと妾を受け止めてくれるよね!)
マリアは認めた。眼前の好敵手が有する、その確かな実力を。だからこそ、新たなる期待をぶつけたくなる。
「妾の十重奏、受け取―――」
「―――今日の主役、誰だったか覚えてるかな?」
が、残念な事にこれは一対十の戦い。眼前の敵ばかりに意識が割かれれば、当然の如く横槍を入れられるものだ。




