第386話 妾が紡ぎし十物語
マリアが動き出したのは、フィールドが海水で満たされた直後の事だった。それまで沈みっ放しだったのが嘘であるかのように、彼女は水の中を高々と飛翔。水の抵抗を全く受けていないかの如く、異様な速度へと達していた。
「妾が紡ぎし十物語」
そして、次に聞こえて来たのはマリアのそんな歌声だった。水中であるにもかかわらず、不思議にも全員の耳に届いた訳だが、そんなミステリーに意識を割いている暇はない。何せ歌を口ずさんだ当のマリアの体が、その瞬間に十に分かれていたのだ。
『ッ! スプリングと同系統の奴らだ! 数が多くなったからって、無駄に動揺するなよ!』
その正体に逸早く気付いたのは、かつてそれらとの交戦経験があったケルヴィンだった。『並列思考』で分割された十の肉体の中からスプリングとサマーを捜し出し、他の面々も何かしらの人の姿を模しているのを見抜いたのだ。
久遠と殆ど同じ姿形をしているスプリング、長髪をなびかせ刀を握るサマー、その他にも銃らしき得物を持つ男の影、荒れ狂う風の剣を操る女の影、先の銃と剣をそれぞれの手に持った幼い少女の影、女の子の姿をしているのにもかかわらず獣のような構えを取る影、角の生えたメイドの影、筋肉質の巨漢の影――― それ以外の者達も非常に特徴的な姿としており、これは明らかに元となったモデルが居るなと、ケルヴィンは生唾を飲み込む。
「ストックしていた血がもうないとか、そんな事を言ってなかったか!?」
「あの時はそうだったけど、妾もこの時の為に色々と準備していたんだよ。えへん!」
ケルヴィンに向かって来たスプリングから、そんなマリアの声が発せられる。さっきは水中で溺れかけていたのに、今は普通に喋れるのかと心の中でツッコミつつ、わざわざ元の世界に戻って血のストックとやらを準備してくれたのか! と、更に心の中で感謝をするケルヴィン。ただ、それと同時にこの状況でそれは悪手ではないかと、少しばかり訝しんでもいた。
S級青魔法【水絶除泡際々】、現在メルはこの場に居る仲間達全員に対し、これを施していた。この魔法は水中での活動を補助する泡を作り出すC級青魔法【水除泡】、その深海版であるA級青魔法【水絶除泡】の、更なる上位仕様となるものだ。それまで泡を発生させていた水除泡と水絶除泡であるが、水絶除泡際々は対象の周囲に泡を発生させる事なく、全くの素の状態で水中での影響を無視させ、無制限の呼吸を可能とする。試合を開始して以来、ケルヴィン達が全く水の影響を受けていなかったのは、その為であった。
(泡がなくなった事で、接近戦を仕掛ける際の間合いの取り方を気にする必要がなくなった。泡があると、その中に敵が入り込んでしまうリスクがあったからな。あとは見た目に変化がないから、それで敵を欺く事ができるようになったのも大きい。まあマリアの事だから、もう気が付いてはいるんだろうが…… だが、そうであったとしても、この利点はやはりでかい)
十の姿に分かれたこの者達も、平時のケルヴィン達と同等、もしくはそれ以上の力を有している。が、水の抵抗があるとないとでは、発揮できる力に雲泥の差が生じるものだ。マリアほどの突出した力の持ち主は別として、その力を分割したスプリング達では、その影響がもろに出てしまう。ましてや、今のケルヴィン達には『怪物親』による強化が備わっており――― まあ言ってしまえば、ほぼほぼ勝てるのである。
事実、ケルヴィン達はスプリング達を一方的に押していた。それぞれが1対1で戦うのではなく、それぞれの役割と陣形を維持したまま戦う事もできた。それだけスプリング達の動きは鈍く、そもそも『怪物親』状態のケルヴィン達が相手では、実力的にも劣っていたのだ。唯一筋肉質の巨漢だけは、水中にもかかわらず俊敏に泳いでいたが、それでも互角に戦えているとは言えず、たった今ボガに力負けしたところだ。
「おいおい、やっぱり力を分割したのは悪手だったろ? 何か裏があるのか?」
「裏? フフン、妾は表しかないよ? アイドルだからね! それに、これは形式美ってやつだよ。舞台を盛り上げる為の演出は何事においても不可欠でしょ? できるアイドルは優秀な演出家でもあるのだよ、君~」
「そうかよ。なら、その演出と共に沈んでくれやッ!」
マリアが生み出した影達は、気が付けばその半数近くが撃破されていた。残るはマリアの意識がセットされたスプリングと、銃に嵐の剣、それとメイドだけである。
「意地悪な事を言わないでよ~? ここ、海が舞台ってところが、とってもロマンチック。ケルヴィン君達が相手なのも、凄く魅力的だよね。けど、一つだけ不満もあって…… 観客、少な過ぎない? さっきまでのお祭り、あんなにお客さんが居たよね? 何で他の人達も呼ばなかったの? 見られてやる気を出すタイプの妾、そこだけが不満です! テンション、いまいち上がらな~い!」
「そうか、それは良かったよ!」
ちなみに、この戦いに対しての観客が必要最低限の者達しか居ないのも、ケルヴィン達の策に含まれている。アイドルを自称するマリアは自身がそう言う通り、明らかに目立つ事でポテンシャルを発揮させるタイプだ。海の底を戦いの場にする事で、周りからの視線をシャットアウトするこの策は、案外マリアに対して効果的だったようだ。まあそもそもの話、マリアという異次元クラスの怪物の存在を、大っぴらにする事ができないという理由もあるのだが。
「何か納得いかな~い。けど、まあやりたい事はやれているし、今回はそこで手を打っておこうかな? 少しは貴方達にも見せ場を作る事ができたしね」
「心遣いに感謝する! で、こっからどうする!?」
周りには最早、スプリング以外の影の姿はなくなっていた。マリアの意識が備わっている為なのか、このスプリングだけは力が突出していたようだが、それもケルヴィンだけで対応可能なレベルだ。仲間達の矛先が彼女へと集中している今の状況は、正に絶体絶命といえるだろう。
「ここから? まあ、振り出しに戻る感じかな」
「ッ!」
靄に塗れた見た目は変わらず、纏う雰囲気も変わっていない。しかし、肉体の分割によって弱体化していた力は、たちまちにして“個”であった時のものへと戻っていた。今のスプリングはさっきまでとは別物、それこそ、最初のマリアに匹敵するだけの力にまで達している。
「分かってると思うけど、一応言っておくね。分身体をいくら倒したところで、妾には欠片のダメージも入らないよ? 分身体を倒したら、その分の力がまた妾に戻ってくるんだもん。おすすめは分身体の封印か、妾との分断かな? 一時的とはいえ、妾の大本の力を弱体化させる事には繋がるからね。まっ、そんな感じのどうにかする策を用意しているんじゃないかなって、そう踏んでいたんだけど…… 杞憂だったりする?」
そして、そんなスプリングの肉体が再び爆散。飛び散った彼女の肉片は新たな影の形へと変化し、文字通り振り出しへと戦況を戻すのであった。
「……わざわざ親切な忠告をどうも。けど、同じ見せ場はもういらないかな。やる気がないのなら、早々に次のステップに進ませてもらう」
その瞬間、マリアが作り出した十の影、その全てが吹き飛ばされた。そう、フィールドの外へと向かって。