第373話 自由堕天使
「ここ、は……?」
目が覚めると、視界一杯に真っ黒な天井が広がっていた。当然、ルキルはここまで黒に統一された天井なんて見た覚えがない。ここは何処、いえ、それ以前に私はどうしたんだったか。と、思考が巡り始める。
「む、目を覚ましたか」
「アダムス? ……ああ、そうですか」
表情の見えない邪神の顔を見て、自分がなぜこんなところで寝ていたのか、その理由を思い出す。ルキルは二人の怪物達の力を借り、メルフィーナとケルヴィンに“ちょっと待った”を宣言したのだ。そして、負けた。考え得る手を全て使い果たし、あれだけの醜態を晒してまで力を得て、最後まで自分を信じて続けて――― それでも、徹底的に負けてしまったのだ。ルキルは思う。まったく、メルフィーナ様最大の理解者だの、隣に居るべきは自分だのと啖呵を切ったというのに、負ける時は呆気のないものだ…… と。
「……不思議なものですね。あれだけ欲していた勝利を逃したというのに、なぜか晴れやかな気持ちで心が満たされています。メルフィーナ様に対する独占欲も、ケルヴィンに対する憎悪の心も、今はもう――― うふふ、すっかり毒気が抜けてしまいました」
「毒気、か。まあ、安堵の表情を浮かべて石化していたほどだったからな。全力を尽くしたが故に、諦めが付いのだろう」
「………」
「それとも心が新たな境地に達したのか、もしくは全力の力を行使して何だかんだスッキリしてしまったのか、これは判断の難しいところであるな」
「ええと、最後のは適当が過ぎません?」
「そうとも限らんぞ? 心とは複雑なようで、時に単純なものでもあるからな。まあ、ただの我には関係のない話だ、正直どうでも良い。それよりも、これからどうするつもりだ? ああ、そうだ。まずは一杯飲んでおくか? 駆けつけに三杯ほど」
そう言って、ごく自然に一升瓶を取り出すアダムス。
「その前に、現在の状況についてお伺いしたいのですが…… ここ、どこです?」
が、ルキルはこれをやんわりと自然に別の話へ誘導。手慣れた拒否の仕方であった。
「ケルヴィンが魔法で生成した式場だ」
「……正直予想はしていましたけど、まさか当たってしまうとは」
こんな真っ黒な式場があるのかと、軽く頭痛を覚えるルキル。アダムス曰く、今はケルヴィンとメルの式の真っ最中なのだという。ルキルに治療を施した後、二人は時間ギリギリまで看病を続けたのだが、その時には目を覚まさず、予定していた式の時間が迫り――― 結局、式場の建物内にて静養させる事にしたと、そういう流れであるらしい。
「ただの我から見ても、貴様に対する治療は完璧なものであった。が、度重なる無理が祟って、疲労は限界まで蓄積していた。それで今の今まで眠っていたのだろう。尤も、ほんの数時間の睡眠で目覚めたのだから、並外れた回復力だとは思うがな。マリアの血の恩恵も失ったというのに、まったく、呆れるタフさだ」
「これでも、かつての転生神候補生ではありましたからね。相応に鍛えてはいるのですよ。ただ、やはり血は失われてしまったのですね」
「うむ、貴様としては残念だろうが、そうなってしまったな。またマリアに血がほしいと頼むか? 興味深い余興を見せてくれた礼だ。望むのであれば、ただの我が口利きしてやっても良いぞ?」
「……いえ、その必要はありません。むしろ、貴方から頂いた権能についても返還したいのですが」
「ふむ? どういう風の吹き回しだ?」
「心境の変化というやつです。『大聖』の権能は大変に素晴らしいものでしたが、正直、私らしくないかなと思いまして」
そう言って、ルキルはアダムスに手を差し出た。その言葉の通り、与えられた権能を返したいようである。
「……ふうむ、そう言われてもな。ただの我は貴様に可能性を与えただけで、それにより発現した権能については、あくまでも貴様の力そのものだ。今になってそれをただの我に渡す事はできぬし、無に帰す事もできんよ。まあ必要ないと言うのであれば、今後使わなければ良いだけの事。所持している分には、損をする事もあるまい」
「そう、ですか…… なら、有難く頂いておきます。宝の持ち腐れになるとは思いますけどね」
「それならばそれでも良い。で、話を戻すが、これからどうする? 貴様が敬愛するメルとやらが、まだかまだかと貴様を待ち侘びているようだったぞ? 今向かえば、披露宴には間に合うだろう。メルと久遠による大食い対決、マリア考案の余興ダンスなど、まだまだ見どころがあった筈だ。酒を飲むにしても、まずは会場へ―――」
「―――いえ、折角の招待ですが、辞退したいと思います」
ルキルがベッドから降り、傍に置かれていた荷物を纏め始める。
「挨拶もなしに、か?」
「あれだけ気持ちをぶつけ合ったんです。今更、挨拶なんて必要ないでしょう」
「そうか。貴様がそう判断したのなら、これ以上ただの我から言う事はない。 ……本当に良いのか?」
「フフッ。何だかんだでお節介ですね、貴方も」
ルキルは自然に笑っていた。彼女の目に後悔の念は感じられず、むしろ晴々とさえしているようだ。
「あの権能を頂いて、良かったと思う事が幾つかあります。メルフィーナ様、いえ、今はもうメル様ですね。正面から彼女と向かい合えた事、ケルヴィンを沢山殴れた事、そして――― これまでの私の視野が如何に狭かったのか、それを知れた事」
ルキルが指先に小さな黒炎を灯し、その色彩を赤色に変化させていく。
「私はこの地を飛び出し、どこへでも行けた筈だった。私は天使の風習や仕来りに縛られる事なく、何でもできた筈だった。なのに私はメル様の事しか頭になく、他に何も見ていなかった。 ……それって、凄くもったいない事だと思うんです。憎悪から生まれた歪んだ愛も代え難いものですが、だからこそ、酷く不自由で視野が狭くなっていました」
軽く息を吹きかけて炎を消し、立ち上がる。
「私はこれから旅に出ようと思います。世界中を巡る、長い旅を」
「知見を広めるという事か?」
「そういった意味もあると思いますが、まあ、何と言いますか…… ただ単純に、私がそうしたいんです。正直、小難しい理由なんて全然考えていなくって、だから、メル様には私が消えたとでも伝えて頂ければ」
「フッ、随分と自由人になったものだ。了解した。彼奴らには上手く伝えておくとしよう」
「感謝します。世界を巡った後、まだメル様を想う気持ちが強ければ、そうですね…… 今度は両親と共に、箱推しをさせてもらいますよ。場合によっては、また“ちょっと待った”を仕掛けるかもしれませんが」
そう多くない荷物を背負い、ルキルはもう一度アダムスの方へと振り返る。彼女は笑顔だ。鮮やかで満ち足りた、そんな笑顔だった。
「……なるほどな。権能を使っていた時よりも、よほど良い笑顔をするようになった」
「何か言いましたか?」
「いいや、何も。しかし、少し寂しくなるな。折角ただの我が酒を持ち運び、駆け付け三杯を共にしてやろうと楽しみにしていたのだが」
「貴方は本当にお酒ばかりですね…… あ、では私の代理役を立てましょう。ほら、貴方の配下にパトリックとかいう遊び好きが居るでしょう? アレを連れて来て、その分を好きなだけ飲ませてあげてください。こんなめでたい日なのです。私が許します、ガンガン逝かせましょう」
「……ルキルよ、笑顔が昔のものに戻っているぞ?」
「気のせいですよ」
そうしてルキルは人知れず旅立ち、代わりの贄――― 否、代役を務める事となった『運命の神』パトリックは、しこたま酒を浴びる事になるのであった。