第313話 一本釣り
シュトラの私室前に辿り着いた俺は、その扉の前で深呼吸をしていた。ついでに覚悟も決め直す。この部屋に入る事になるのは、何もこれが初めての事ではない。準備期間の最中、お茶にお呼ばれされて、何度かお邪魔した事がある。
シュトラの部屋はヌイグルミが所狭しと置かれていて、途轍もなくファンシーな空間だ。うちの屋敷にも結構な数があったけど、流石は長年住んできた実家の私室と言うべきか、正直数は比較にならない。一般的に流通しているヌイグルミから、どこかの国で限定発売されたプレミアもの、中には自作したと思われる温かみのあるもの、エフィルが製作したゲオルギウスやモニカまで、数だけでなくその種類も実に様々だった。
で、そんなヌイグルミ達に囲まれながらのお茶会は、ヌイグルミについて力説するシュトラの珍しい表情を見る事ができる、稀有な機会だったと言える。いやあ、あんな生き生きとしたシュトラ、そうそう目にできるもんじゃないよ。少女漫画みたいに瞳が輝いていたし、本当に楽しそうに語るんだ。俺は専ら聞いているだけだったけど、それだけでも幸福な時間だったと断言しよう。大人の状態でシュトラがあんな顔を見せてくれるのは、本当に本当に珍しい事なんだ。
……さて、時間も時間だし、そろそろ入室と行きますかね。まずは扉を軽くノック。
―――コンコン。
「はい」
「シュトラ、俺だ。入っても良いかな?」
「もちろんです。鍵は…… 今開けました。どうぞ」
扉越しに魔力の流れを感じた。さては魔糸で鍵を開けたな? フッ、すっかり魔法にも慣れたもんだ。では、お言葉に甘えて入らせてもらおう。ガチャっと入室。
「お邪魔します。シュトラ、俺の寝床って本当にここで……」
「ええ、合っていますよ。ようこそお越しくださいました」
「………」
「あの、ケルヴィンさん?」
「……あー、お邪魔しました」
再びガチャっと扉を閉め、退室。うん、うん…… う、ううーん……? よし、一応扉越しに確認してみよう。
「ええっと、シュトラ? 何だか普段見ないような服を着ていた気がしたけど、俺の見間違いかな?」
具体的に言うと、透明度の高いセクシーなアレと言いますか……
「はて、何の事だか分かりません。もう一度、ご自分で確認されては如何でしょうか?」
それはご尤も。んでもって、流石に理解したよ。何分、夜の不意打ちに関しての経験は人一倍、いや、二倍三倍くらいはあるからな。何となく察してしまうものがあるのだ。しかし、俺も甘く見られたものだな。これで動揺すると、そう思われているのだろうか? まあ確かに、視界に入った瞬間に見惚れてしまったのは嘘じゃない。いつもの調子であれば、やられっ放しのルートに入っていただろう。が、ちょっと待ってほしい。今日の俺は予め覚悟を決め、更にはシュトラよりも経験豊富というアドバンテージも有しているのだ。いくらシュトラが世界屈指の策士で魅力たっぷりとは言え、ここで後れを取る訳が―――
―――ガチャ! ヒュッ、グイッ!
それは突然の事だった。扉が勝手に開き、その奥から何本もの糸が出現。瞬く間に俺の体に巻き付いて、そのまま部屋の奥へ奥へと、物凄い勢いで引きずり込んで行ったのだ。オー、べリベリーアクティブ。
「……今日のシュトラはなかなかに過激だな?」
「そうですか? 私はただ、有限な時間を有効に使いたいだけですよ」
そして、対面。いつの間にやら俺は、シュトラの目の前に立たされていた。 ……糸で全身を捕縛されたまま、立たされていた。
「そうか、その考えには同意しよう。けど…… 何か近くない?」
「ええ、ケルヴィンさんが近付きましたからね」
うん、確かに位置関係としては、俺が近付いたって事で間違いはないんだろうけど、強制的に近付かせたのはシュトラの方だよね?
「ケルヴィンさん、こちらを見てください」
「あー、見ても良いのか? 不敬罪で処刑されない?」
「フフッ、面白い冗談ですね。大丈夫、安心してください。そんな事にはなりませんので。なったとしても、私が弁護側で法廷に立ちますよ」
「そうか、それは心強いな」
仮にどんな罪で立たされたとしても、シュトラなら無罪を勝ち取ってくれそうだ。 ……いや、今はそんな事を考えている場合じゃないか。
「シュトラ、今のうちに確認しておきたいんだが」
「はい、何でしょうか?」
「その、初夜的なものってさ、普通は式の後にやるものじゃなかったっけ? 俺の記憶が正しければ、シュトラはその辺をかなり気にしているように思えたんだけど?」
現にそれが原因で、俺達はまだキスもしていない訳で。
「ああ、その点に関してもご安心を。つい先ほど日が変わり、今日はもう式当日です。つまり、もう私達は夫婦も同然なんですよ?」
「なるほど、そうなのか――― って、その理論はやっぱり無理がないか!?」
超解釈が過ぎると思います。
「理由、必要ですか? ん、そうですね。それらしい理由なんていくらでも作れますが、一番のそれは…… やはり、時間的な問題でしょうか? この七日間、ケルヴィンさんは各地の式を巡り、かなりハードな日程をこなす事になります。私とのトライセンの式が終われば、翌日にはパーズでのリオンさんの式に臨む事になりますし」
「それはまあ、そうだが……」
「でしょう? 移動時間などの諸々を換算すると、式が終わった後では、時間的余裕があまりないのです。加えて“ちょっと待った”の内容如何では、相当に疲労されている可能性もあります。私達の大事な初夜に余裕ある時間を作れるかどうか、正直今からは確約なんてできませんよね?」
「それもまあ、そうだな……」
「なので、式後ではなく式前にする事にしたのです。納得頂けましたか? まだ理由が必要であれば、続けて語らせて頂きますが」
「あ、納得したので大丈夫です、はい……」
結局、いつもの調子で言い包められてしまった。口では勝てないよ、こんなの……
「取り合えず、この糸を解いてくれないか? このままじゃ何もできないって」
「と言いますと、その気になってくれたのですか?」
「俺は最初からその気だよ。それに、嫁にここまでされた上で蔑ろにするほど、俺は朴念仁じゃないつもりだ。あとは、その…… やるからには男らしく、シュトラをリードしたいと思ってさ」
「リード…… なるほど、経験の差と言うものですか。道理ですね」
「あ、ああ」
いや、改めてそう言われると、何だか後ろめたい気持ちになってしまうんだが。
「確かに経験という意味では、私に勝ち目はないでしょう。ですがですが、その点もご安心を。その為に収集させて頂きましたから」
……ん?
「収集って、一体何を?」
「もちろん、情報を、です」
……ん、んんっ?
「最も機会と回数の多かったエフィルさんはもちろんの事、セラさんやアンジェさん、メルさんからコレットちゃんまで、ケルヴィンさんの弱いところを事細かく教えて頂きまして」
「え、ちょ」
「ご存じの通り、私には『完全記憶』が備わっています。拙い技術と経験は網羅した知識でカバー、ついでに糸を使ったあれやそれも駆使して、ケルヴィンさんには満足して頂くつもりです。ああ、呼称は如何しましょうか? 流石にこの姿でお兄ちゃんと呼ぶのは恥ずかしいのですが、ケルヴィンさんが望むのであれば―――」
「―――ストップ、シュトラ、一旦冷静になるんだ! 初めての選択肢にしては何か上級コースな気がするから!?」
俺がそう静止するも、シュトラは捕縛中の俺を抱き締め、胸の中に顔を埋め始めていた。これは完全に密着状態って、いかん! 流石にこの展開は予想外だ! ひょっとしなくても、メルとコレットの時レベルにピンチである……!
「……ケルヴィンさん」
「シュ、シュトラ、落ち着いた、のか……?」
「いえ、えと…… 実は、さっきの理由付けで言い忘れていた事があったのですが…… パレードに参加するからには、その…… ファーストキス、二人きりで済ませておき、たいです……」
俺を見上げたシュトラの顔は、いつの間にか真っ赤に染まっていた。 ……何度も言うけどさ、予想外が過ぎるんだよ。