第312話 義兄の禊
時間は多事激務に比例して速くなり、本日、気が付けばもう式前夜である。トライセンだけでなく、各地での最終調整をする為に全国を飛び回った俺の疲労はピークに達していた。まあ、そんな疲れも“ちょっと待った”を頭に浮かべる事で、瞬時に回復していく訳だが。当然、結婚式についても同様である。精神的な疲れが胸の高鳴りで上書きされ、肉体的な疲れも回復魔法で強制的に完治、明日からの一週間は何が何でも全力でやり切る! そんな所存なのだ。
「おい、何ボケっとしてんだよ? 大丈夫か?」
っと、そうだそうだ。今はアズグラッドと酒を飲み交わしているところだった。頑張る事を頑張る意思表明も、そこそこにしておかないとな。
ちなみにこの酒宴、実はアズグラッドの方から提案してくれたものだったりする。飲みたい気分だから、ちょっと相手になれ! って言う、何とも不器用なお誘いだったんだけどな。ただ、明日から義理の弟になる身として、これは嬉しくもちょうど良い機会だった。アズグラッドが誘ってくれなかったら、俺の方から声を掛けるつもりでもあった訳で…… まあ、そんな感じだ。
「ああ、大丈夫だ。明日の式について、頭の中で予行練習していてさ」
「ハッ、まさか緊張しているとでも? バトルの事しか頭にないお前の口から、まさか式の予行練習なんて言葉が出て来るとはな。明日の天気は雨か、残念な事だ」
「いやいや、自分の結婚式なんだぞ? 戦闘好きの俺だって緊張くらいするっての。あまり意地悪な事を言わないでくれよ…… アズにい!」
「おい、その呼び方はマジで気色悪いから止めろ」
「駄目だったか? 少しでも親しみが湧くように、リオンを見習ってみたんだが……」
「親しみよりも先に殺意が湧くわ!」
うん、俺も何か違うなと思っていたところだ。ここは素直に撤回しよう。
「じゃ、今まで通りアズグラッドで通すよ。今更、変に気を遣うのもおかしいしな」
「そうしろ、俺も今まで通りに接する」
そう言ってアズグラッドが、空になった酒杯を俺に突き出した。分かった分かった、誠心誠意注がせて頂きます。え、俺の酒杯も空じゃないかもっと飲めって? いや、そろそろ明日に差し障るから、俺はもうそろそろ――― はいはい、付き合いますって。俺も同じように酒杯を差し出し、アズグラッドに酌をしてもらった。 ……おい、そんなギリギリまで注ぐなって。こぼれる、こぼれるから! ああ、こぼれたッ!
……まあ、何だ。そんなドタバタを交え、暫く言葉を交わし、時には拳も交えそうになるのを何とか我慢しながらも、俺達はこの小さな酒宴を楽しむのであった。
「「………」」
それから暫くして、僅かな無言の時がやって来る。示し合わせたが如く、酒杯に入っていた酒を一気に飲み干し、ぷはっと一息。トライセンの酒は癖があるな。ジェラール好みの味って言うか、喉が焼けるような感触が強い。
「……おい、ケルヴィン」
「何だ、アズグラッド?」
「一発殴らせろ」
「おう、来いや」
俺がそう答えた直後、アズグラッドは直ぐ様に動き出していた。対面していたが故に助走はなし。しかし、一切の迷いもなし。立ち上がりと同時に放ったとは思えないほどの、腰の入った重い拳が俺の顔面に叩き込まれる。唐突とも思えるアズグラッドの攻撃を、俺は真っ正面から受け止めた。座ったまま、魔法による補助も使わない。ただ、己の肉体のみで受け止める。
―――ゴッ!
目の前、と言うよりも間近も間近で鈍い打撃音が響く。当たった瞬間、本気で殴った事が伝わって来た。頭が後方へブレそうになるも、これを何とか堪えて座ったまま体勢を維持。その代償と言うべきか、もろに打撃を食らった鼻が酷い事になっていそうだ。
「……いってぇな。見ろ、鼻血が出ちゃったよ。つか俺の鼻、あらぬ方向に曲がってない? 明日は大事な式だって言っただろ。何で顔面に来るかねぇ」
「うるせぇな、いてぇのはこっちの方だ。召喚士の癖して頑丈な体しやがって。殴った俺の拳の出血の方が酷いっての。お前、皮膚の下に鉄板でも仕込んでるのか?」
このやり取りの結果、俺達は鼻と拳から血を流す事になってしまった。傍からすれば、酔っ払い同士のくだらない喧嘩にしか見えないだろうな、これ。けど、俺達には必要な事だったんだ。禊と言うか、同じシスコンであるが故に通ずるところがあると言うか…… 兎に角、必要な事だったんだ。
「そいつは悪かったな。魔法で治そうか?」
「要らねぇよ、この程度なら放っときゃ直ぐに治る。ケルヴィン、お前こそ―――」
「―――俺も大丈夫だ。『自然治癒』でもう治った」
「ッチ、そうかよ」
舌打ちの後、再び酒を注ごうとしたアズグラッドであったが、用意した酒瓶はもう空の状態だった。どうやら、さっきの一気で飲み干してしまったみたいだ。
「ったく、酒ももうありゃしねぇ。お開きだ、お開き。もう用は済んだから、さっさと出て行きやがれ」
「そっちから呼んでおいて、勝手な奴だな。けど、酒は美味かったよ。また誘ってくれよな、アズグラッド義兄さん」
「だから、その変な呼び方は止めろ! 鳥肌が立っちまう!」
「普通の義兄さん呼びも駄目なのかよ……」
「当たり前だろうが! それに、次に誘うのは戦場だ! 今日の比じゃねぇくらいに強烈なのを叩きこんでやるから、今から覚悟しておくんだな!」
「おっ、そいつは嬉しいお誘いだな。了解、楽しみにしておくよ。んで、その後にまた一杯ひっかけよう。その時は俺が酒を持ってくるからさ」
「上等なもんを持ってこいよな! 今日の酒は俺の小遣いから出してんだからよ!」
「ハハッ、小遣い制なのかよ」
次の約束を無事にしたところで、退出の為に立ち上がる。これ以上長居していたら、二発目の拳を貰ってしまいそうだしな。 ……それもアリか?
「ケルヴィン」
「ん?」
退出すべきか残るべきか、迷いながら部屋の扉に向かって歩いていると、不意に名前を呼ばれた。何だ何だ、アズグラッドもその気なのか? 仕方ないな、その期待に応えてやるとしますか―――
「シュトラの事、よろしく頼む」
―――振り向けば、アズグラッドが深々と頭を下げていた。
「……ああ」
そんな返事のみを残して、アズグラッドの部屋を出る。言われずとも全力で。元からそう決心していた俺だけど、他でもないアズグラッドにああ言われてしまっては、尚更強く心に決まるってものだろう。
「ったく、狡いよな。あんな風に頭を下げられたら、期待に応えるしかないっての」
結構飲んだってのに、飲む前よりも思考がクリアな気がする。しかし、本日の宿泊場所がシュトラの私室ってのは、一体誰の仕込みなんだろうか? 今までの人生経験から察するに、こっちも一応の覚悟を決めた方が良さそうだ。