第298話 薫陶
「じゃ、いっくよ~! ブラッド注入♪」
マリアが尻尾の先っぽをルキルの腹部に突き刺し、注射をするが如く、血を彼女へと流し込み始める。ドクンドクンと尻尾が脈打つたびに、ルキルの身体からは不自然なほどに血管が浮き出ていた。
「く、ううぅぅ、あぐ、がぁぁぁぁッ……!」
苦悶に満ちたルキルの顔にも血管は現れ、彼女が叫べば叫ぶほどにその数も増していく。瞳はまぶたの奥へと裏返り、露わになった白目から次第に血の涙が溢れ出し――― 率直に言って、早くも異常な様相を呈している。拘束する鎖がある為に周囲への影響は殆どないが、これがなかったとしたら、苦痛で暴れ回るルキルが、この洞窟を破壊していたかもしれない。
「さっすが結界障壁スペシャリストのイザベルちゃん、魔法で作ったこの鎖もとっても頑丈だね。納得の安心設計♪」
「な、なあ、もうその辺にしておいた方が良いんじゃないかな、マリアちゃん? あんまり血を入れ過ぎるのも、何だか体に悪そうだし……」
「大丈夫大丈夫、ルキルちゃんからは思いっ切りやってくれって言われているし、目分量だけど、まだ行けそうな気がするんだよね、妾~♪」
「そ、そう……? と言うか、さっき腕を切断したのは? そこから流した血を使うんじゃなかったの?」
「あはは、アレはあくまで演出だよ~。腕からドパドパ血を流して、それを全部口から入れる訳にもいかないでしょ? だから、尻尾から直接打った方が効率的。ほら、もう妾の腕も元通りになっている事だし」
そう言って、マリアが先ほど切断した腕を見せる。確かに腕は完治していた。切断面の痕すら残っていない。
「それよりもパトリックよ、そろそろ貴様も準備をした方が良いのではないか? 『手遊』を使用するのであれば、今が好機だぞ?」
「っと、そうでしたそうでした! 権能顕現! からの~、僕渾身のダイスロール!」
変身後、権能の力を込めたダイスを盛大に振るうパトリック。自分が良い目を出して、せめてもの援護しよう! という意気込みの元に、随分と気合の入ったダイスロールである。
「僕のダイスは百面ダイス、1から100の目が記されている! 出た目の値が低いほどに、運命は僕達にとってご都合主義に、値が高いほどに最悪の事態に見舞われる! スペシャルと言う100の値だけは例外的で、出たら一体何が起こるのか予想不可能な事になっちゃうよ! この前はこの値を出して、マリアちゃんが召喚されちゃった訳だし!」
「はえ~、そうなんだ~。つまり、狙う目は100って事?」
「これ以上のギャンブル要素を増やしてどうするの!? 狙うは普通に最小の1の目だよ!」
「ふむ……」
ルキルが苦し気な叫びを上げる中、三人がダイスの行方を見守っていく。角で立ち、スケーターの如くクルクルと回転を続けるダイス。次第にその勢いも衰え、そして―――
「あっ、やばっ……」
―――ダイスが止まるよりも前に、マリアがそんな声を漏らした。
「あ、あの、マリアちゃん? 何だか不穏な声が耳にお届けされた気がするんだけど、一体どうしたのかな?」
「う、ううん、何でもないよ? サイコロに気を取られちゃって、ルキルちゃんに注入する血の量が想定よりも多くなったとか、そんな事は全然ないよ?」
「うん、うっかりよそ見しちゃったんだね!? 多く注入しちゃったんだね!?」
パトリックの指摘は当たっていたのだろう。マリアは大慌てで尻尾を引き抜き、ばつが悪そうに視線を逸らしていた。
「が、ぺ、ばッ……!」
「ルキル、さっき以上に美女がしちゃいけない顔になっちゃってるよ!? がぺばとか言ってるし!」
「あー、えー、うー…… お、多くなったと言ってもほんの少しだし、執念深いルキルちゃんならギリ許容範囲じゃないかな、なんて!」
力強くそう言い訳するマリアであるが、視線は逸らしたままだ。
「やばい! やっばいですよ、これは!」
「ふむ、難儀な話であるな。それよりも、そろそろ賽が止まるところだ」
「あっ、そ、そうか! ここでダイスの目が良ければ、ワンチャン多くなった血がより強くなる方へ転ずるかも! 運命の神よ、賭博の神よ、どうかダイスに微笑んでくれたまえッ!」
「いや、それ全部パトちゃんの事でしょ」
「よっし、なら神である僕が笑おう! ほら、笑ってるよ、マイダイス! だから良い目を出して!」
パトリックが無理な笑顔を作る中、百面ダイスがいよいよ止まる時が来た。ダイスが導き出した目の数は――― 91。
「ぶっふぁっ……」
目の数を確認したパトリックが、変な声と共に腰を抜かしてしまう。出た目は前回のようなスペシャルなどではなく、狙っていた低目でもない。91、そう、普通に大外れに分類されるであろう、91なのだ。
「……あっ、もしかしたら急激に視力が悪くなって、見間違えたとか? うん、その可能性はある。大いにある」
何と言い訳しようと、何度確認しようとも結果が変わる事はない。出た目は91、つまりはこれから、パトリック達にとっての最悪の事態が巻き起こる。
「がっ…… がががかカカカカッ!」
「ル、ルキル!?」
気が付けば、それまで辛うじて彼女の声として認識できていた叫びが、全く別のものへと変貌していた。身の毛がよだつ奇妙な笑い声である。声の質も女性のものではなくなっており、まるで正体不明の怪物が発しているかのようだ。
「あー、これは本格的に不味ったかも? 完全に妾の血が暴走しちゃってるっぽい。うーん、妾ってば血も溌剌としちゃってるからなぁ」
「呑気に何言っちゃってんのって、止めを刺したのは僕みたいなもんだし何も言えないぃぃぃ!」
「カキャキャキャキャキャ!」
パトリックが後悔している間にも、ルキルの変貌は続いていた。変化をきたしたのは声だけでなく、その肉体までもが大きく膨張し、形も天使のそれから異質な怪物のそれへと移り変わっていく。女神の如く美しい容姿をしていた彼女の面影は、最早殆どない。辛うじて金の髪が、頭部に残っているくらいだろうか。彼女を捕らえる鎖の大きさは据え置きである為、膨張した肉がそこに食い込んで、何とも痛々しい光景を晒していた。
ギャンブルに敗北したこの状況に、パトリックは絶望に叩き落とされ、マリアも「悪い事したなぁ」と、何だかんだで反省の模様。要はもう諦めモードを通り過ぎているところなのだが、そんな中でアダムスだけは、未だ落ち着きを保ったままであった。
「……意外と思われるかもしれんが、ただの我は陶芸が趣味でな。大戦前の頃などは、暇を見つけては土と向かい合っていたものよ」
保ったまま、何か趣味の話をし始めた。
「はえ?」
「え……? あ、えと、アダムス、一体何の話を……?」
「ただの我の趣味の話であり、陶芸の話である。いや、この手で理想を追求する尊い行為と言い換えれば、その素晴らしさが伝わるだろうか?」
「「……?」」
残念な事に、どうやら伝わっていないようだった。
「素材は何でも良い。質が悪ければそれも味、良ければ選択の幅が広がる。香で薫りを染み込ませれば、また違った側面を見せてくれるだろう。このように、土とは素材の時点でさえ千差万別なのだ。形を整えていけば、それこそ可能性は無限に広がっていく。ただの我が権能と称する『薫陶』も、その本質は同様だ。さあ、ルキルよ。強く歪んだ信仰・執着・復讐心、そこにマリアの血という香りが加わった事で、我が前に貴様という素材が提示された訳だが…… 今はただ、誇れ。このような風変りな素材、ただの我でさえもお目にかかった事がない。ああ、これは本当に良いものだな。類稀な陶物作ができそうだ」
そう言ってアダムスは、怪物と化したルキルにそっと手を添えた。