第232話 逃げ道などない
幾度となく矢に貫かれ、その度に肉体が腐り落ちたハザマであったが、彼はその事を一切気にする様子もなく、地下を掘り進む速度を上げていった。そして遂には大地の底を突き破り、広大な地下空間らしき場所へと到達する。
「カカッ、漸く到着か。さあ、娘っ子。早う姿を現すが良い。この場所をお前の墓場にして―――」
「―――堕ち尽く」
地下空間に降り立ったその瞬間に、ドロシーは堕ち尽くを唱え、彼女以外の世界全てを停止させた。今この時ばかりは眼前のハザマだけでなく、この大陸で同じく敵と戦っているであろう仲間達、そして敵となる十権能も、閉ざされた時間の中で停止状態となる。
未だ腐食の矢しか撃っていなかったドロシーを、ハザマは厄介な黒魔導士程度にしか認識していないだろう。ましてや、世にも珍しい『時魔法』の使い手だとは、微塵も思っていなかった筈だ。そんなドロシーを相手に、時間停止の対処法の一つとなる障害物の中、この場合の大地の中に逃げ込んだのは、偶然ではあるが理に適っていた。まあ、だからこそ今の今まで『時魔法』の神髄を見る事がなかったのだが…… 今はもう、何を言っても遅い段階だ。
「悪運が強い、とでも言うんですかね。ここまで清々しい逃げっぷりを見せられるとは、正直夢にも思っていませんでした。貴重な経験をありがとうございます」
追走劇を終え、この停止した世界でドロシーとハザマは、今になって漸く顔を合わせる事になる。と言っても、前述の通りドロシー以外の全てが停止した状態にあるので、相手を認識しているのも彼女だけなのだが。
「それにしても…… 先ほども言った気がしますが、何とも奇怪な肉体をお持ちのようで。一体何の神様なんですか、貴方?」
ドロシーの眼前にて停止したそれは、何とも複雑怪奇な生物であった。大口のみが発達した異様な頭部は、生物のそれとはとても思えず、目らしきものが見たらない。かと思えば、なぜかその大口の中に巨大な一つ目が埋め込まれており、停止した時間の中でも、ギョロリとドロシーを見詰めているようであった。
(……視線が凄まじくいやらしいですね。不快です)
取り合えずドロシーの中で、一つ目を完全に潰す事が決定事項となったようだ。まあ、そんないやらしい一つ目はさて置き、頭部が異様であれば、そこから下もハザマは異様そのものだった。基盤となる不形の肉塊は最早どういった形状を取っているのか不明で、そこからムカデの尾やら肉の触手、人の腕を模した何かが生えており、数々の冒涜的な要素を織り交ぜたかのような、生物としてあるまじき姿をしていたのだ。常人であれば停止したこの状態であったとしても、視界に入れた途端に発狂してしまうだろう。
「常にローブで身を隠していた理由、色々とお察ししますよ」
幸いグロテスクな光景に耐性があったのか、ハザマの冒涜的な姿を目にしても、ドロシーの心は冷静さを保っていた。むしろ戦いから逃げられた時、一つ目と視線が合ってしまった時の方が、感情的だったくらいだ。
「しかし、この場所もなかなかに異様ですね。天使が住まう神聖な大陸に、なぜこのような施設が?」
ドロシーが興味深そうに辺りを見回し始める。追走劇の末に辿り着いたこの広い地下空間には、この世界にはそぐわないほどに近代的な研究施設が備わっていた。特に目を引いたのは、透明なオレンジ色の液体で満たされた、大きなガラス管である。かなりの数がこの地下空間内に並んでおり、それらの中には天使と思わしき者達が納められていたのだ。ガラス管の中で培養されているのか、完全に成人の容姿に至っている者が居れば、まだ幼さを残す者、果ては人の形を成していない者まで見受けられる。まるで天使を成長過程順に並べているかのようだ。
(……私では想像もしえない、高度な文明施設のようですね。噂に聞いたジルドラの研究施設と類似しているようですが、確かその者はこの大陸内部に足を踏み入れていない筈。では、十権能の誰かが? いえ、それもないですね。施設の保存状態から察するに、真新しい場所ではないです。少なくともこの場所が建造されてから、それなりの年月は経過している。となれば、大陸内部の者が何らかの目的で、ずっと前から運用していた施設、という事でしょうか? ……ああ、残念な事に我がチームに一人だけ、関連性のありそうな、非常に怪しい堕天使が居るんですよね)
ドロシーが思い浮かべたのは、十権能を復活させた張本人であるルキルの顔であった。彼女は白翼の地内で自由に行動する事ができた数少ない人物であり、積み重なった憎愛の感情がメルを転生神へ復権させるという、異質な方向に向かってしまった狂信者でもある。正直ドロシーにとっては現段階でも味方ではないし、むしろ獅子身中の虫だとさえ思っていた。
(ここに居る天使達は、恐らくは人工的に作り上げた人形のようなもの。彼女が長年この施設を使い、義体を作り出す実験をしていたとすれば、存在理由も納得できる。問題はここまで高度な施設を、あの狂信者が独自に作り出せるのか、という点ですが…… やはりジルドラ繋がりですかね。具体的な手段までは分かりませんが、それ以外の入手経路は考えられませんし)
地上で暗躍していた堕天使達に調査させ、その技術情報をルキルの下に送らせていたのか、はたまたルキル自身がジルドラとのコネクションを持っていたのか。或いは黒女神時代のクロメルが、もしもの時に備えてケルヴィンの為に先行投資していた、という線もある。ジルドラとクロメルが亡き今、それを確認するにはルキル自身に問い質すしかないだろうが、彼女が素直に話すとも思えない。まあつまるところ、今となっては確認する術などない。
「ハァ、本当に厄介な…… っと、すみません。今優先すべきは、貴方の殲滅でしたね。ですが、ご心配なく。準備はもう済んでいます」
人魚の姿から人の姿へ戻ったドロシーが、大杖の先をハザマへと向ける。考察の最中にも、彼女は停止するハザマの周囲に、とある魔法を発現させていた。
「散々逝き渡る」
ハザマの周りに出現したのは、死角を潰すように配置された、八つの魔法の起点であった。そして今、その起点全てから周囲全てを腐食させる逝き渡るが発動する。矢型の腐食攻撃である黄泉飛ばす、足裏に範囲を集中させ踏み潰す腐り堕ちるなど、一瞬で数十年の時を経過させるそれら魔法と比べて、逝き渡るは腐食の効力が抑えられている代わりに、腐食が適用される効果範囲に優れている。起点を中心に外へ外へと腐食の波が向かっていく為、この残酷な魔法を回避するのは至難の業、と言うよりも不可能に近いのだ。まして今のハザマは動く事ができず、僅かな逃げ場も完全に潰されている。ドロシーはハザマという悍ましい存在を、欠片もこの世に残すつもりはないらしい。
時間停止の堕ち尽くの性質により、腐食の波はハザマに接触する数ミリ手前のところで、一旦停止する。だが、それも僅かな時間のみの話。動き出す時間を止める事は誰にもできず、既にこの地下研究施設の全てが、腐食の波に覆いつくされていた。
「これにて仕舞いにしましょう。権能三傑の打破、更には怪し気な研究施設も破壊できて、一石二鳥ですね。きっとリオンさんも喜んでくれるでしょう、うふふ。では――― 時よ、動き出せ」
時が動き出したその瞬間、ハザマの肉体は崩壊の一途を辿り、周囲の取り巻く研究施設群も急速な老朽化の後、その機能を停止させていった。




