第104話 汚染と浄化
世界を護る最後の盾、そして魔を退く神の刃として創造されたのが、神柱である私達だ。全能の母である転生神エレアリス様は、世界各地に十の神柱を打ち立てた。神鯨ゼヴァル、神竜ザッハーカ、神機デウスエクスマキナ、神狼ガロンゾルブ、神鳥ワイルドグロウ、神霊デァトート、神蛇アンラ、神蟲レンゲランゲ、神獣ディアマンテ――― そして、最後にこのルミエストの地に創造されたのが、この私、神人ドロシアラだった。
私達に与えられた使命は、今後永遠に続いていくであろう次代の勇者達の戦いに、自らが魔を断つ事で力添えしていく事だ。奇跡的にルミエストが争いとは無縁の土地であった為か、これまで私が使命の為に目覚める機会はなかったが、まだ生まれてもいない休眠状態にある中でも、同胞達がその大義を果たしていくのを、本能的に感じる事はできていた。それら華々しい戦果を同胞として誇らしく思えたのは、少なくともこの段階で、人間としての素質があったからだと思う。人間とは感情に富み、繋がりを大切にするものだから。 ……けど、結果的にその繋がりが、私の心に黒いものを抱かせる事になってしまう。
休眠状態でも他の神柱の状態を知る事ができた私は、あるタイミングを境に、彼方で同胞達に良くない変化が起きている事に気が付いたんだ。正常であったものが狂わされて、段々とおかしくなっていくような、そんな変化だった。言ってしまえば、同胞達に人為的なバグが生じたのである。魔の者に敗北し、破壊された訳ではない。けれど、私にとっての唯一の繋がり、その尊厳が冒されるのは、本当に耐え難く辛いものだった。日に日におかしくなっていく同胞達を、私は彼方から見ている事しかできなかった。
それから次第に私の心は病んでいき、ふつふつと怒りの感情が芽生えるようになっていった。一体誰がこんな事を。よくも同胞達を。そんな風に正体も分からない敵を相手取って、気が付けば心には強い負の感情が積み上がっていた。
『あら? ……貴女、ひょっとしなくても心をお持ちですね? それも、憎しみに塗れた大変に人間らしい心を。これは驚きです。これまでの神柱はただ機械的に使命を全うし、余分な感情など持ち合わせていませんでしたのに』
そんなある時の事だ。ふと、誰かからそんな言葉を投げ掛けられた。しかも実際の言葉ではなく、私の意識に直接語り掛けて、である。動揺はしていたと思う。けど、それ以上に心に燃え広がる何かが生じていた。遂に私のところにも来た。こいつだ、こいつが同胞達を狂わせたんだと、理由もなく確信した。
……今思えば、もう既に私は道化だったのかもしれない。最初から気付くべきだったんだ。けど、私の心は積み上げて来た怒りで、それどころではなかった。敵が邪悪な存在であれば、柱に奴が触れた瞬間に私は覚醒する。その瞬間が私の誕生、復讐の始まり。そう考えながら身構えたりもしていたんだけど、私の覚醒は一向に起こらなかったんだ。
『エレアリスが設計をミスした? ああ、いえ、違いますね。確かこの神柱は、まだ覚醒した事がなかったんでしたね。彼女は現世に降りて来られないから、そもそも神柱の中身も確認できていない。なるほど、納得です。それにしても、フフッ。何に育つか分からない手法だったとはいえ、まさか人間が元になってしまうだなんて、あの女神は想像もしていなかったでしょうね。大方、周りの学徒の気に当てられて、そのような心が後天的にもたらされてしまったのでしょうが、正に喜劇としか言えません。そのようなもの、神柱にとっては不要ですもの。ですが、私にとっては僥倖です』
奴は私達神柱の特性を知っているばかりか、創造主であるエレアリス様についてもよく知っている風だった。直接触れず、だけど私の中身を、怒りを、正確に読み取っていた。そしてこの時になって、漸く私は察した。
『神柱全てにバグをもたらし、エレアリスの権威を失墜させるつもりでしたが、貴女は別、そのままの状態にしておきましょう。戦の種はいくら撒いても、あったに越した事はありません。その負の心、大事に大事に育ててくださいね? きっとそれは、貴女にとっての大きな力になりますから。これ、同族としてのアドバイスです』
この正体不明の敵は、私の怒りどころではない、もっと強大な闇を抱えていた。世界に絶望した上で、尚も世界を欲している。私に僅かに宿っていた神の因子が、さっきから最大級の警報を鳴り響かせていた。格が違い過ぎる。私の怒りは一瞬にして風前の灯となり、彼女に畏れさえも抱いてしまった。
『今後私自身が関わる事はないですし、果たして出番があるかどうかも定かではありませんが、仮にその時が来たら、私にその想いをぶつけに来なさい。或いは、そう、私の夫に八つ当たりしても良いですよ? 折角ですから、夫の情報を教えて差し上げますね。忘れぬよう、貴女の記憶に書きこんでおきましょう』
そう言った彼女は、どうやったのか私の脳内に、一人の男の映像を映し出した。そして、加速する。男の情報のみが記された分厚いアルバムが何十冊も並べられるが如く、それら情報が一気に私の中を巡って行ったのだ。
『彼の名はケルヴィン、私にとって最愛の人です。言葉では表せないほどに男前で、優しくて強くてユーモアに溢れていて、あらゆる面で魅力に溢れているんです。ええ、それはもう、絶対に彼以上の男性は存在しないほどに。遠い未来、このケルヴィンが貴女の同胞を破壊するかもしれません。その時、果たして貴女はどんな感情を心に秘めるのでしょうね? 憎いですか? 憎いですよね? なら、貴女が目覚めた時に彼を止めないと』
私の心にあった黒い部分の矛先が、全てこの男へと向かって行く。挫けそうだった心が、あろう事か敵に癒され、更なる負を連鎖させていく。
『この憎しみの種が一体どのタイミングで開花するのか、不謹慎ながら楽しみにしている自分がいます。私の前座として朽ち果てるのか、それとも万が一の事が起こり、あなた様を楽しませる保険として、それなりに機能するのか――― ああ、まだそこにいたのですか。待つ時間は長いのです、もうお眠りなさい。貴女が必要とされる、その時が来るまで……』
私の記憶に残っている、女の最後の言葉がそれだった。
―――以降、狂ってしまった同胞達が破壊される度に、以前にも増して私の心は黒々としたものを宿していった。最早そこに理性はなく、ただただ同胞の仇を討つ為の復讐鬼と化していったんだ。殺す、ケルヴィンは殺す。そう心の中で何度も何度も反復させる。 ……やはり、私は道化であった。
次なるターニングポイントは、私が覚醒してからの事だった。私の頭の中で一杯になっているケルヴィンだったら良かったのだが、残念な事に私の眼前にいたのは、どこの誰とも知らない男だった。堕天使という種族自体は物珍しかったが、ただそれだけだ。事実、あの女ほどの脅威は全く感じさせず、生まれたての私でも余裕ですり潰せる程度の存在だった。本来であれば使命に従い、私を覚醒させたこの男を滅さなければならない。けど、私はケルヴィンを殺す事を何よりも優先していた。だからこそ、ケルヴィンを私の手で仕留めるという、この男の提案に乗ったのだ。
それから、ここまでに至る過程は嫌になるくらいに長かった。ホラスという名のその男の資金援助を受け、目覚めた先にあった学園に目立たない成績で入学し、とある機会を得てケルヴィンと接触する。当てもなく世界中を自力で探すよりは現実的だったけど、人としての常識を身につける等々、本当に面倒で厄介で、私の積み上げて来た心が萎えないか、それだけが心配だった。けど、私は耐えた。やり遂げたんだ。私は心に闇を抱えたまま、だけれども誰にも悟られる事なく無事に入学を迎える事ができた。後は対抗戦に現れるであろうケルヴィンを、生徒という立場を利用して好きなように暗殺――― などと、入学式の最中に考えていた、その時である。
『やっ、隣失礼するね』
その声を耳にした途端、私の黒き心は浄化されてしまった。
コミカライズ2巻が重版だそうです。やったー。