第543話 恋焦がれる
―――黒女神の神域
溢れ出る液体の量は夥しく、牢の隙間から絶えず流れていた。通常の水よりもドロリとした質感は、泥を多分に含んだ濁り水のようにも見える。真っ黒な色合いと相まって、透明な飲料水とは真逆の性質を呈していた。そんな泥水のあまりの量に、それ以上近づく事を躊躇ってしまう。牢から放出され不可視の床へと滴る事で、徐々にこの空間を侵食しているようにも思えたんだ。
「メルフィーナが使う魔法じゃないな。それ、お前のオリジナルか?」
「愚問ですね。そもそも、私と私では扱う魔法は異なるのです」
これだけの水が出ようとも、内部にいるクロメルは普通に喋る事ができるらしい。自分の魔法なのだから、当然といえば当然だ。但し、あの魔法の特性については、鑑定眼を用いても有用な情報が全く取り出せない。これまで目にしてきた魔法とは、根底から何かが違う。分かったのはそれくらいだ。
「あなた様がよくご存知なのは、白魔法と青魔法を会得した私ですね? 輝かしい光と生命の源である水を操る、実に女神らしい力であるといえます」
「そういうお前の魔法は、どう見たって光っぽくはないな」
「ええ、私が司るは黒魔法と青魔法ですから。それも、この失墜の闇水は闇と水の2つの属性を掛け合わせて創造したもの。いつか、あなた様の風とエフィルの炎で合体魔法なるものを作っていたではありませんか。確か…… そう、暖風と名付けていましたね。これはその合体魔法の究極形とも呼べるものです」
「ハハッ、大層な自信じゃないか。わざわざ教えてくれて、ありがとよ」
暖風だなんて、また懐かしいものを引き合いに出してきたもんだ。アレは2つの魔法を加減して使って、何とか家電製品代わりに使ったに過ぎない。合体魔法とは名ばかりで、完璧に2つの属性を融合させている訳じゃなかった。
対してクロメルのあの魔法は、合体魔法と正しく評価できる完成度を誇っている。2つの魔法を唱えた後に無理矢理合わせたのではなく、2属性の性質を元から持つ魔法を生み出したんだ。これは今の俺にだってできない事であり、それがどれだけの効力を発揮するのか、正直想像する事ができない。
―――ギギギギギ……!
異常が発生したのは、俺とクロメルのちょっとした会話の直後の事。クロメルを閉じ込めた剛黒の監獄が、内部より引き裂かれるようにして歪んでいったのだ。鉄格子の隙間より見えたのは、小さな小さな指だった。黒髪や黒翼とは正反対な純白、か弱さを象徴するようなクロメルの指が、俺の魔力の限りを尽くした監獄を押し曲げる。粘土遊びをするが如く、或いは子供が無邪気に玩具を破壊するが如く――― ひしゃげた牢の中から、クロメルの姿が見え始めていた。
無理矢理に開けられた隙間からは、黒の水が更に勢いを強めて流れ出でた。監獄の目玉から流れる涙とでも呼ぼうか。しかしながら、その渦中にいるクロメルは全く汚れない。ただただクロメル以外のものを、全く別のものへと染めているようにも思える。あの鉄格子は単純な馬鹿力だとか、そんなもので破壊できるものではないんだ。
「あなた様とこうして向かい合いますと、ついついお喋りをしてしまいたくなりますね」
視線を交わすと、クロメルが本当に楽しそうにそんな事を言い出した。好きな子に悪戯を仕掛ける、幼い子供みたいだ。但しこの場合、男女の立場は逆転してるけど。
「この失墜の闇水には触れない方が身の為ですよ」
「ああ、もう見た目だけでそうだって分かるよ」
あの水に触れさせた後に牢を破ったという事は、水に何らかの効果があるのは明白だ。幸い聖槍を閉じ込めた檻の方は、内部からガンガンと物理的な反抗をされるに止まっている。時間を掛ければ突破されるだろうが、あの黒水に触れさせない限りはまだまだ持つだろう。
「では、改めて参りましょうか。終焉の象徴」
「―――っ!?」
なんて事を考えているのも束の間、クロメルの次なる魔法詠唱が開始される。今度は散々放出していた黒水が、幾本もの触手のような形状となって動き出しやがった。
「その黒い水が襲い掛かって来るのは、まあ予想通りだけどさ…… その形はどうなんだよ?」
「より恐怖感を増すでしょう?」
クロメルがニッコリと微笑み、それを合図に触手達が俺のいる空中へと舞い上がる。最早全面が泥水で満たされた床から、クロメルが腰掛ける牢の残骸から、またそこから今も流れ出ている真新しい黒水からも、この一瞬で生理的に受け付けない形状をした者達が生み出され、蠢いているのが目に入ってしまう。率直に言って、見ただけで精神が削がれる。
触手のスピードは速く、クロメルとまではいかなくとも素のアンジェ以上に俊敏。数字にして5桁に届くか届くまいか、といったところか。このまま聖槍を閉じ込めたもう1つの牢に触れさせては、クロメルと同様にこじ開けられてしまうだろう。それはそれで癪に障る話なので、阻止する為に行動させてもらう。
粘風反護壁・Ⅴを檻の周囲に更に展開、それと飛翔を施してやり――― 蹴る! 聖槍と檻を包み込んだこいつをゴムまりに見立て、どこまで広がっているのかも分からない真上に向かって、思いっ切り蹴り上げてやる。真下の触手地獄の近くにいるよりかは、多少は安全ってものだろう。どこまでも飛んで行くといい、神の槍達よ。
「あなた様、人の得物を粗末に扱わないでくださいませんか?」
「足癖が悪いんだよ。お前の寝相ほどじゃないけどなっ!」
「ま、まあ……!」
なぜか少し照れてる様子が見受けられるが、残念な事に俺はそれどころじゃない。聖槍入りの檻を飛ばした次は、いよいよ俺の番。うじゃうじゃと俺を狙う触手の猛撃が、ちゃっかりと既に始まっていたのだ。それらの攻撃を躱しに躱し、隙を見て重風圧・Ⅴを叩き込んでやる。効果は一応あるようで、触手達は怯んでくれた。が、この感覚は―――
「ⅤⅤと、そんなに連発してよろしいのですか? 先ほどの障壁にも使っていましたよね? いくらあなた様が魔力馬鹿だといっても、そろそろ枯渇する頃なのでは?」
あくまでも雑談にも興じるクロメル。俺にそんな余裕はなく、大鎌による斬撃で遠距離から迫る触手を切り刻むのを先決させる。いつの間にかこの触手群、重風圧による押し潰しにも適応しつつあったのだ。いや、触手ではなく、俺の魔法の方が変化しているのか?
「キャッチボールもできないほどにお悩みのようですので、教えて差し上げましょうか。失墜の闇水に触れたものは、それが生物であれ、物体であれ、魔法であれ、何であろうとその能力値や威力を、この世界の最低値にまで改変させてしまうのです。詰まりですね、あなた様がいくら魔力超過でⅣだのⅤだのと底上げを施そうとも、全くの無意味―――」
「―――剿滅の罰光・Ⅵ!」
「っ!」
高説を垂れるクロメルに対し、どこかの勇者譲りの魔法攻撃を食わらしてやる。魔力超過の度合いももう一段階上げて、燃費最悪なⅥだ。その分の威力と速度は言わずもがな。クロメルは周囲の触手で護りを固めるも、解き放たれた極大レーザーにそれごと薙ぎ払われるのを察して、座していた牢から飛び退いた。しかし逃げるのが遅れたが為に、僅かに俺の魔法がクロメルの頬に掠る。
「何だ、ちゃんと通じるじゃないか。攻撃」
「良いです、とても良いですね、あなた様……!」
焼け焦げた頬に手を当てて、クロメルは口端を吊り上げる。たぶん、俺も同じ表情を作っていた。