第416話 茜色が紅に染まる
俺達は走った。心に嫌な予感を抱えながらも懸命に駆け抜けた。手には『戦の神』を拘束したロープを持ち、地面に引き摺りながら悲鳴を無視した。途中、マリアと久遠が本格的に観光宣言を口にし、離脱をしてくれちゃったりもしたが、今となってはツッコミを入れている暇もなかった。兎に角、だ。俺達は全速でエバの下へと向かったのだ。
そうして辿り着いた場所は、一面が茜色で覆われた広大な空間だった。どこまでも空が広がる足場のない空間なのだが、不思議と地面は踏み締められる。また、中央には立派な玉座が置かれていて、そこには誰も座っておらず――― ただ一枚きりの紙切れが、投げ捨てるように置かれていた。
「……アレ、罠か?」
「そんな気はビックリするくらい全然しないわね」
「と言うか、ここまで来る間も本当に何もなかったね……」
「王が引き摺っていた例の者は、ずっと悲鳴を上げていたがのう」
「うごごごごご……」
「ああ、すっごい頑丈だよな。俺が思うに、今はアレだが磨けば光る逸材だと―――」
「―――おい、話が逸れているぞ! 今はそんな奴の話など捨て置け!」
「エバめ、もしや…… いや、今はそれよりも、あの紙か。グロリア、『間隙』でアレを取れるか?」
「当然」
グロリアがそう言った直後、彼女の手には玉座にあった紙が握られていた。そうした後も特に何かが起こる訳でもなく、茜色の空間は静寂を保っている。やはり罠はないようだ。
「マジで何もないみたいだな…… で、結局それは何だったんだ? 置手紙か?」
「……手紙ってほどの文章量ではない。ただ一言だけ、恐らくはエバが書いたであろう文字が記されている」
「グロリアよ、それを読み上げるがよい」
「………」
アダムスにそう命令されるグロリアであったが、これを口にして良いものかと、僅かにそんな感じの迷いがあるように見受けられた。ただ、このまま黙っている訳にもいかず、渋々といった様子で声に出し始める。
―――旅に出ます。探さないでください。
「「「「「………」」」」」
この場に居合わせた一同、揃いも揃って黙りこくってしまう。
「……え? ごめん、俺が聞き間違えたのかな? 今何て?」
「旅に出ます。探さないでください。 ……それ以外には何も記されていない。この一言だけだ」
ほら! と、グロリアが紙切れを皆に差し出し、これが現実である事を示してしまった。つまり、だ。神々の親玉、アダムスの半身、何百何千年と『主神』としてあの玉座に居た筈のエバは、迷う事なく逃走してしまったと、そういう訳? ……は?
「い、いや、まだだ! 俺には狙い目の神ベスト10が、まだ残っている! 『宙の神』、いや、今なら『秩序の神』でも良い! そいつらを捜し出そう!」
「ケルヴィン、それも可能性が薄い気がするわ」
「何でッ!?」
セラに食い気味に聞いてしまう。
「私、さっき言ったじゃない。強い気配が揃って居なくなった気がする、って。揃ってってのは、当然複数って意味よ?」
「つ、つまり……?」
「主だった神々は全員エバに付いて行った、そういう事か~」
「ぐぅっはぁぁぁ!?」
「ご、ご主人様~~~!?」
アンジェの真実の言葉が、俺の胸に容赦なく突き刺さる。俺はリアルに血を吐いた。
「最早この神域には、腑抜けた馬鹿共しか残っていないという事か。ハァ、全く拍子抜けだな」
「ア、アダムス、どうする……? 戦い、始まる前に終わってた、よ……?」
「ふうむ…… 『戦の神』を誑かしての時間稼ぎ、敢えて他に何もしない事で猜疑心を生ませるこの手口――― なるほど、費用対効果を重んじるエバらしい撤退戦だったと、今となっては納得できる。見事に一本取られた訳だ。ククッ、流石はただの我の半身よ」
「感心しているところ悪ぃんだけどよ、また一からエバとその一派の奴らを見つけなきゃならねぇんだろ、これ? しかも、捜索範囲は宇宙……? とかいうクッソ広ぇ場所全域なんだろ? 滅茶苦茶面倒じゃね?」
「ッ!」
血を吐いている最中、不意に聞こえて来たダハクの言葉に僅かな希望を見出す。そうだよ、逃げたのならまた追えば良い。楽しみは後に取っておけって言うし、今日のところは神域に残された出涸らしの神々を見つけ出して、『戦の神』共々光るところを探す事に勤しもう。うん、それが良い。そうしよ―――
「―――残念だが、それは無理だな。どこに居ようとも感じられていた感覚が、今は完全に無に帰してしまっている。恐らく、エバらは別世界に移動してしまったのだろう」
「別世界、ですか?」
「マリアや久遠が元居た世界のようなもの、とでも言った方が分かりやすいか。本来は絶対に交わる事のない次元、エバは残った力の全てを使い、その扉を開いたのだ。こうなっては、最早見つけるのは不可能だろうな」
「ごぉっふぉぉぉ!?」
「ケ、ケルにい~~~?!」
アダムスの冷静過ぎる情報整理が、俺の胸に無残にも突き刺さる。俺はリアルに血の涙を流した。
「ハァ、ハァ…… ま、まだだ。俺はまだ諦めるつもりはないぞ……!」
「お、おい、戦ってもいないのに、ケルヴィンが瀕死になっているぞ? 大丈夫なのか?」
「ああ、平常運転なのでお気になさらず。ですが、あなた様? 妻として重々に気持ちを察しますが、これ以上どうするおつもりで?」
「要は越えられない次元をどうするかって話なんだろ? なら、話が早い。こっちにはマリアと久遠っていう、その壁を越えて来た実例がもう居るんだ。二人に頭を下げるなり土下座するなり何でもして、その手段を使わせてもらえば―――」
「―――あ、それ多分無理だよ? 妾達がここに来たのって、ルキルちゃんが道標になってくれたからこそだもん。次元を越える術は確かにあるけど、狙って行きたい世界に行けるものじゃないんだよね、これが!」
「ぶぅっがぁぁぁ!?」
「ケ、ケルヴィンお兄ちゃん、流石にそろそろ堪えて!?」
タイミングよく現れたマリアが口にした現実が、俺の胸に止めとばかりに突き刺さる。俺はその場に倒れ、見えない床に血の海を作った。
「前もって言っておくが、ただの我の『幻想掴み取る啻人』でも無理だぞ。理由はマリアのものと同じく、最早エバの行き先に見当が付かないからだ。まあ、つまりだな…… ケルヴィンよ、ドンマイである」
「………」
これ以上の流すものがなくなった俺が、以降に叫びを上げる事はなかった。ああ、逃がした魚のなんと大きい事か。
……だが、同時に決心もついた。いつか、いつか次元の壁を狙って越える術を見つけてやるぅぅぅ……!