176話 てんきゅ
「ありがとう。今まで私に仕えてくれて」
その台詞を聞いた途端、ヒルデシアの目からは大粒の涙が意図せずして流れてくる。
しばらく嗚咽を殺していた彼女は、息を整えて震える声で首を振った。
「…………そんなこと、言わないでください。私が、好きで姫さまのもとに付いてきただけです。これまでずっとそうだった。そして、これからもずっとそうです」
ヒルデシアの言葉にユーリティシアスは頬を膨らませる。
「そんな顔してもだめです」
「だめか。ふうん。ヒルデは意地っ張りさんねえ。いいわ。あなたは最期まで私に付いてきなさい」
珍しく笑顔を見せるヒルデシアにユーリティシアスはため息をついてから声を張り上げた。
「それじゃあ、他の者は皆、坑道へ撤退を。歩ける者は、歩けない者を連れて行っ……」
彼女は台詞の途中で言葉を切る。
ユーリティシアスが見た兵士たちの誰もが彼女の命令を聞こうともしていなかったからだ。
「……これは、命令なのよ?」
誰もが無視して、魔族を最期まで迎撃する準備を続ける。
ユーリティシアスは何度か命じたが、撤退を聞き入れる者は誰一人いない。
「……まったくもう。あなたたちは意地っ張りなんだから」
「姫さまの臣下ですからね。王は臣を呼ぶと言いますし」
「むう、それって私のことを意地っ張りだって言ってるのかしら」
頬を膨らませたユーリティシアスに、今度はヒルデシアと城の中にいる兵士たちは笑った。
どおん。
その時、ことさら大きな滅びの音が響いた。
扉を押さえていた兵士たちが一瞬であるが吹き飛びそうになる。
そして扉も僅かだったヒビが弾け、あちこちに亀裂が入った。
「扉を押さえるのだっ! 迎撃陣形を構えろっ! 最期までマルクトの誇り高き武人の意地を張るのだっ!」
オオオオオゥ――――――――。
ヒルデシアの叫びに城中にいた兵士たちは咆哮する。
動けて力のある兵士はすべて扉を押さえに走った。
立つこともままならない兵士たちは盾を支えにして扉の近くで防御陣形を構えた。
民兵として徴収された青少年たちは弓の弦を引いて扉へと向けた。
ユーリティシアスはそれを眺めながらゆっくりと大広間の中央に歩いていく。
その後ろにヒルデシアは付き従う。
「そういえば、イズィったらどうしてるのかしら。あはは、できるなら見送りたかったんだけれど私に言わずに行っちゃうんだもの。彼、投石機で飛んでいったんでしょう?」
「え、ええ、まあ。視界から外れるまで見ていましたが、上手くいっているようでした。信じがたいことです。鳥でもドラゴンでもない人間が空を飛ぶなんて」
「そう。ああ、そういえば、私。小さい時に一度、空を鳥みたく自由に飛んでみたいと思ったことがあるわ。そして大きくなるにつれて、人間は飛べないものだと知ってなに馬鹿な事考えていたんだろうって思った。でもね。今はまた、飛べるんじゃないかって思い始めてるのよねえ」
誰かに思いを馳せているような優しい顔でそんなことを言うユーリティシアス。
それを見ていたヒルデシアは、小さく頬を緩めた。
「ユーリもやはり、好きなのですね」
「あら? なにがかしら」
「いえ別に、なんでもありません」
「むう。なんだかよくわからないけれどとりあえず、むう」
むすっとした表情でユーリティシアスは大広間中央の床にしゃがんだ。
そして床面に敷かれた不壊石の色合いの違いにより描かれた幾何学的な星を手で押し込む。
すると歯車の回るような音をたてて床の一部がせり上がってきた。
円柱形の石だ。
そこにぽっかり空いた穴へ、ユーリティシアスは首に提げていた自壊装置の引き金をはめ込む。
あとはその引き金を回せば、終りの刻がくる。
どおん。
ばりばり。
城の扉に大きな亀裂が入った。
そこから少しだけ外が見える。
魔族の血走った眼球がこちらを覗いていた。




