第8話 結
結城の妹が入院しているという病室は、やけに奥まったところにあった。5階建ての病院の4階、エレベータを降りて向かい側のナースステーションに軽く会釈し、リハビリルームを抜ける。その奥に続く廊下から北側にある別館へと移動した頃には、そこが普通の入院患者が入るところではないのだと光永にも分かった。
『結城 結』とプレートがかかった扉の前にあるアルコールスプレーで両手を消毒した後、入室する。元は二人部屋のようであるが、片方のベッドには誰もいない。もう片方には、ぐったりとだるそうに寄りかかっている少女がいた。
「きたぞー」
そんな少女の様子はいつも通りのことなのかもしれない。明るく声をかけて近寄ろうとした結城の鼻先を掠めて飛んでいったのは、いつぞやに目撃した例の髪留めだった。
「っぶねーな」
反射的に、飛んできたものを彼は軽々とキャッチする。飛んでくるといっても、ひどく弱々しく投げられたものだからスピードはない。
投げた本人は当たらなかったことに不満だったのか、少し眉をひそめた。ボサボサのショートカットにひどくやせこけた体は、ともすれば少年にも見えてしまう。けれど、はつらつとした兄の結城とはあまりにも違いすぎるオーラに、目の前の少女が彼の妹であるとはなかなか気づかないはずだ。
「当たったって痛くないくせに! それ、合わないから返す」
ぷいとそっぽを向いた態度にも慣れているらしく、彼は困ったように笑った。
「似合うと思ったんだけどなー。可愛いじゃん。あ、光永、悪いけどカーテン開けてくれる?」
カーテンまで締め切ってしまっては余計に心が塞いでしまう、と彼が戸惑うように立ちすくんでいる光永に頼むと、今度は怒りの矛先が彼女へと向かってしまう。
「ちょっとやめてよ、まぶしいんだから。てか、あんた誰? お兄ちゃんと一緒に笑いに来たわけ? それとも話し相手になってあげるわーって? 冗談じゃない!」
「ごめん、光永。いいから開けちゃって」
ややあって彼女がカーテンを開けると、僅かながら光が入ってきた。北向きの部屋だからそれほど明るくはないが、視界が大分良くなる。そうしてようやくまともに見ることができた彼の妹は、肌はがさがさなのに、目だけ異様にぎらぎらしていて……まるで、御伽噺に出てくる魔女のように見えなくもない。
「ちゃんと食ってんのかよ。この前塗ってやったマニキュアははがれてるしー。爪噛むなよなー、せっかく可愛いのに」
「料理は不味いし、お兄ちゃんのマニキュアは下手くそだもん」
「わりーな。俺だって塗ったの初めてだから勘弁しろよ。それはそうと、お前が好きなヨーグルト買ってきたぞ。林檎の入ってるやつ」
妹の言葉も特に気にしないといった風に、彼は袋からヨーグルトとスプーンを取り出した。食べるかと問えば、いらないと拒絶されたため、横に備え付けられた小さな冷蔵庫に保管されることになる。「食べたくなったらいつでも看護師さんに言えよ」という兄の言葉に、少しだけ妹は困ったような顔をした。
「着替えとかはこっちの紙袋な。今日はこれで帰るけど、また来るよ」
「もう……来なくていいよ」
そういったきり布団に潜ってしまった妹の表情は見えなかったけれど、どこか寂しそうな声に、彼はもう一度「また来る」と告げる。そして、光永を連れて病室を出た。
ガーッと音を立てて開いた自動ドアから病院の外へ出ると、爽やかな風が吹いて、まるで違う世界から戻ってきたような錯覚に陥る。二人は深呼吸して新鮮な空気を吸い込んだ。
「気分悪いもん見せちまったな。いつもはもう少し機嫌いいんだけど」
バス停まで歩く間、結城は申し訳なさそうに謝った。光永はなんと言えばいいのかわからず、ただ首を横に振った。
こんなにも良い天気なのに、彼の妹の心にまで光が届いてないことが悲しい。ぐるぐると渦巻いている何かにとりつかれたように、周りを拒絶して生きるのは……幸せなのだろうか。
そこまで考えたところで、何かデジャヴを感じることに彼女は気づいた。
「結の病気は難病らしい。原因は不明、治療法も不明、一番近いのは重症筋無力症っていう病気で、だんだん筋力が衰えていくんだ。でも、その病気の進行を遅らせる薬は効かなくて、どんどん加速するように悪化してて……」
手を上手く動かせないと言い始めたのは数年前。それからあっという間に病気は悪化して歩けなくなったのだと彼は語る。身体は動かなくなってくるのに、脳に影響はなくて……事態を理解できるだけに、自覚できるだけに辛いのだと。
あの頑なな態度も、母親が妹に病気のことを告げてからだった。それまでは少し髪をいじってやるだけで喜んでいたのに、今ではあの有様である。
「心を閉ざして、何か言えば二言目には『私ばかり不幸だ』ってさ。だからな、昨日俺が言った言葉は光永に言ったんじゃないんだ。本当はあいつとそれから心の奥にいる俺自身に言ったんだよ」
これが俺の真実。
そこまで話した後、結城は今まで黙ったままだった光永の顔を見る。彼女は言葉を選ぶように少し考えるが、適切な回答が見つからなかったようだ。
「妹さんには……そうね、言えないもんね」
悪態をつきながらも彼女は彼女なりに戦っていた。代わってあげることはできない苦しみ。その辛さは分かるまい。その苦しみを思うと光永は何といってよいのか分からなくなる。可哀想だなんて言葉は全然違うと思った。そんな上っ面をなでるような言葉で片付けたくないと思った。
「あんな調子だから友達どころか、看護師さんにまで嫌われててよー」
誰も近づかない。余計に一人でこもる。悪循環だと分かっているのに、やめられない。だからせめてもと結城と彼の母親が顔を出すようにしているのだという。それでも今日のように追い返されることも少なくないのだとか。
「もー、俺、どーしていいのかわかんねーんだわ」
そうしてため息をついた彼の姿は、教室で見ていた彼のイメージからは遠くかけ離れたものだった。