4.ボクの望んだこと
4.ボクの望んだこと
熱を出していたのだ、そうだ。
どこか朦朧とする意識の中で、二日ほど寝込んでいたことをボクは知った。
ここはボクの部屋でボクが使わせて貰っている寝場所だと、判る。
だから、ボクはきっとここで二日間、考える事も感じることも放棄して、安穏とした休息をしていたのだと思う。
学校で目にしてしまった出来事を最後に、切り取られたような時間がある。
二日寝込んだと聞かされても不思議に思えるほど、ボクは意識の最後に続いている。
けれど。
確かに、寝込んでいた二日間というものは存在するのだろう。
ボクの心に嵐はない。
静かだった。
全てが乾いてしまったかのように、静かだった。
「兄ちゃん、起きてる?」
扉がノックされて、ボクは体を起こした。
熱があったそうだけど、気だるさだけで今の体調は悪くない。
「うん。起きてる」
ボクは妹の声に答える。
がちゃりとドアノブが回されて、愛らしい妹の姿が目にできる。
血の繋がった兄妹らしいけど、うちの瑞恵は兄には似ても似つかない。
かわいい、女の子だ。
「大丈夫…じゃないか。少しは楽になった?」
瑞恵は質問を忙しく変えると、疲れたような顔に笑顔を浮かべた。
その姿は、ボクの善く知る中学校の制服だった。
三年ほど、毎日のように見ていたから判る。
ボクが通っていた中学校のものだ。
淡い青のように見える爽やかな色だとボクは、その制服の善さを自分の妹が着て初めて知ることができたように思う。毎日、目にしていた頃は、ひどく冴えない色合いだと思っていたのに。
「う、うん。色々、ゴメンね」
ボクは首を体に埋めるようにして、頭を下げる。
親が、ボクらに構うコトはない。
だから、憶えてはいないけど、熱を出したボクの面倒を見ていたのは瑞恵に違いない。
ボクは感謝と、いっぱいの申し訳なさで頭を下げていた。
「いいよ、兄妹でしょ」
瑞恵は軽く言って、笑う。
少しだけ、頬が赤くなっている。
照れているのかもしれない。
「で、でも。大変だったんだからねっ!
連れてこられたトキ、兄ちゃんゲロまみれだったんだから…」
…うっ。
そういえば、ボクは惨めに無様にゲロゲロしていた記憶がある。
あの後に気絶でもしたのなら、ボクは自分が吐き出した吐瀉物の上に寝転んだということになる。
服も、顔も体も自分のゲロ塗れ。
あまりにも考えたくない情けない姿だ。
「学生服はシャワーで洗い流してから、クリーニングに出したから、もうキレイになってる」
瑞恵が胸を張って、壁を指差す。
壁には、これまた見慣れた喪服のように黒い制服があった。
ビニールに覆われた制服から考えるに、戻ってきたばかりなのだろう。
埃がつかないように、そのままにしてくれているんだろうけど、確か、あれってビニールは取った方がいいように聞いたことがある。
そのままだと、湿気がこもっちゃうらしいんだよね。
「なによりねぇ~。半分意識のない兄ちゃんをシャワーに入れるのが…」
なおも口を開いていた瑞恵が急に動きを止める。
なんだろうと、思った。
シャワー?
そうだよね。ゲロ塗れのまま布団に寝かすのは流石に問題があるから、瑞江はボクを風呂に入れてくれたのだと思う。
ちょっと汗の臭いがあるけど、有り難いコトにボクにゲロの臭いはなかった。
…え?
でも、だって…。
「ご、ゴメンっ!」
ボクはやっとのこと、瑞恵の恥じらいに気付いた。
風呂に入れるってコトは、ボクは瑞恵に服を脱がされて、体を洗われたってことだ。
うわっ!
最低だぞ。
家族とはいえ、年頃の女の子になんてことさせちゃったんだ、ボクっ。
「お、重かったから…た、大変だったんだからねっ!」
耳まで真っ赤に染めた瑞恵は、ふんと顔を背ける。
「ご、ゴメンね。ぼ、ボク、デブだから重かったもんね」
ボクもきっと顔を染めているんだろう。女の子の瑞恵ほどじゃないんだろうけど、でもそれでも、やっぱりボクも恥ずかしかったのだ。
一応、ボクも年頃なので。
コンプレックスも多い自分の体を見られるのは、辛いものがある。
…うぅ。
自己嫌悪、全開だ。
「…あのね」
落ち込み始めていたボクに、瑞恵の声がかかる。
「な、なに?」
「実は、兄ちゃんにお客さんが来ているんだけど……会える?」
飛びつくように話題の転換に答えたボクは、胃の軋みを憶える。
「…え?」
一瞬、頭をよぎったのは、警察だった。
学校での出来事が、まざまざと脳裏に蘇り。
ボクはまた、溢れかえりそうな吐き気を覚えている。
……我ながら、へタレで嫌になる。
でも、一瞬、想像はしてしまったけれど、警察がボクに尋ねに来ることなどないようにも、思う。ボクとリオを繋ぐ線は大人たちには決して見つけられるようなものだと、ボクは愚かにも信じてしまっている。
では、誰がボクなんかに会いに来たというのだろう?
学校の先生が一介の目立たず問題もないような生徒を心配して来るようなことはないだろうし、瑞恵の言い方からも、そういった役職として来訪してきた相手ではないことは窺い知れる。
瑞恵は「お客さん」と言っていた。
ボクは首を傾げるしかなかった。
瑞恵も知らない相手で、心配性の瑞恵が今のボクに会わせてもいいか、判断がつき兼ねる人物にボクは心当たりを持てない。
「あれ、白帝学園中等部の制服なのかな?
眼鏡をかけた頭の良さそうな、なんだか、か細そうな男の子なんだけど…」
兄ちゃんの友達なの?
と、その目は尋ねていた。
ボクは交友関係が広くないので、そんな進学校に通う友達がいるとは瑞恵も思っていないのだろう。
不審はあるのだろうが、有名私立中学に通う相手だけあって瑞恵の警戒も濃くはない。ブランドに弱いという訳じゃなく、あそこは、通う子供の家柄にもうるさければ、礼儀や作法にもうるさい学校だと評判があるのだ。
「沼クン…だ」
ボクは思いつく相手の呼び名を口にしていた。
「…どうする?」
心配そうな瑞恵の視線だった。
ボクの体調や心理状態を心配してくれるのが、嬉しかった。
「会うよ」
迷いがなかった訳じゃない。
だけど、ボクはそう答えていた。
お茶を持ってきてくれた瑞恵に、落ち着いた会釈を返す沼クンには大人のような貫禄があった。
ボクが知るゲームやオモチャを熱く語る子供のような沼クンとは別人のようだ。
でも、それはボクが知る相手だ。
居場所をなくした子供たちが集ってしまう寂しい夜を、子供たちの夜と口にした沼クンだった。
「…似てないね」
呟いた何処か突き放したような言い方も、やはり、沼クンだった。
少しだけ、ボクは安心する。
事件はもう沼クンにも届いているだろうけど、いつもの沼クンでいてくれることが、ボクに安心を与えてくれていた。
仲間が死んでしまって事実を前に、あっさりと体調を崩して寝込んでしまう弱い自分を実感させらて、ちょっと情けなくもあるんだけど…。
「うん。ボクに似ず、かわいいでしょ?」
自慢の妹だもの。
つい、返事を期待してしまう。
「まぁね」
眼鏡を押し上げながら、沼クンは答える。気のない返事だけど、ふっと笑った顔に過ぎる表情にボクは手ごたえを感じていた。
でも、ちょっと不安もある。
「俺はどうも気紛れな年上の女性を好むからね……。
かわいいとは思うけど…好みから外れるよ。
残念ながらね」
ボクの不安を先読むように、沼クンは言う。
自分から聞いてしまったことだけど、胸を撫で下ろしている自分もいた。
……自慢の妹だけに、手放したくない気持ちもあるのだ。
「アキラさんも、かわいいよ…」
思いもかけない言葉に、ボクは驚く。
そこでボクの容姿に話が向くとは思わなかったので、ボクは呆けたように沼クンを見てしまっていた。
「妹さんとは、違う意味だけどね。ヌイグルミみたいだし…かわいいんじゃないかな。
女の人にもてるんじゃないの?」
そんなことを言われたのは、初めてだった。
嫌味とか、お世辞かなとも思ったけど、あまりそういうのは沼クンから出るとは思えない。
訳もわからず、どうしていいか判らなかったので、ボクは小さく「どうも」とだけ、答える。
一応は、褒めてもらったみたいだから。
「リオにも、気に入られていたみたいだし……ね」
ズキン。
頭から胸を刺し貫かれたような痛みを、ボクは覚えている。
薄く頬を上げ、睨むような観察するような沼クンの視線に晒されて、恐怖にも似た感覚も味わっていた。
「そ、そんなこと…ないよ」
否定する。
ジリジリと何故だか膨れ上がる不安に焙られ、恐怖に胃を軋ませながら、ボクは否定していた。
自惚れるなと、ボクの奥底が叱咤をあげる。
だけど、どうしても…。
ボクにはリオと交わした『約束の証』が、頭を過ぎってしまう。
あれは…。
あれは、自分に自信のないボクを励ましてくれるだけの、行為だ。
きっと…。
きっと、リオは優しいから、惨めなボクを哀れんでくれただけ。
だから…。
だから、ボクが隠して否定しながらも、ずっと望んでいた物語を読んでもらうコトを、してくれようとしてくれただけなんだ。
他に、意味なんかない。
意味なんか、ない。
意味なんか求めちゃいけないんだ。
「アキラさんが、どう思おうと。関係ないかな…」
ボクの沈黙を苦笑が断ち切る。
大人びた沼クンの言葉も表情も、いつもと同じなのに何故だかボクは怖いような不安を覚えている。
いつもと同じに思える沼クンの姿だし、声だ。
…なのに、なんでだろう。
ボクは不安と恐怖を覚える相手に、危うさを感じてしまっている。やっぱり、沼クンにも大事なものを失くした辛さがあるんだと、ボクは今更ながらに感じていた。
「リオは、自分の気に入らない奴を、側に置くような奴じゃない」
知っているでしょ? アキラさんも。
言葉には出さないけど、責めるような視線はそう言っていた。
「…そ、それは、ボクが勝手に隣にいようとしただけ、だよ。
ボク、あんまり喋らないし、ゲームの邪魔をしなかっただけで…」
ボクは厚かましくもリオの隣を指定席にしていた。
それはリオを女の子だと気付かなかったり、人相手や喋るのを得意としないボクにはゲームに熱中するリオの隣が、静かで居心地が善かったこともある。
だけど、それは本当にポジショニングだけの話で、ボクはリオの側を許されていた訳じゃないんだ。
「それでも、あの中でさえ一番、側にいたのは、アキラさんだ」
取り繕うボクの言葉に、取り合うことなく沼クンは言った。
言い切っていた。
「リオは、気紛れな奴だ。
気に入らなきゃ、席を外して何処にでも行く」
自信と経験に裏打ちされた言葉だった。
そういえば、リオはゼロ子さんと同じ制服だった。
沼クンも、同じ系列の学校の制服を着ている。
小学校からエスカレータ式の中学生と高校生だもの、沼クンとリオは面識があったのかもしれない。
そうでなくても、同じ高校に通うゼロ子さんから、普段のリオの話を聞いているのかもしれない。
ゼロ子さんと沼クンは、通学も一緒にするような間柄みたいだし。
でも。
だけど、ボクは沼クンの言葉に疑問を持っていた。
確かにボクもリオには猫のような気紛れを持ったところがあるように思うけど、平気で独りでいられるような少女じゃないような気がするんだ。
ボクだって、驚いた。
二人だけの夜に寂しいと呟いた、リオに…。
「だからね。俺は知りたいんだ」
思いに沈みかけたボクは沼クンの言葉に冷水のような冷たさを感じながら、顔をあげる。
沼クンは足にローラーの付いた椅子を滑らすと、ボクへと近付く。
ベッドの上で布団を腰まで被って座るボクは身動きもできずに、近付く沼クンを見ていた。
何故だか、視線が逸らせない。
「俺たちが、知り得なかったリオを…」
目を逸らそうとするボクの気持ちを知るように、沼クンは頬に手を添えて目を背けるコトさえ許してくれない。
心を鷲掴みにされるような恐怖が、ボクを追い立てている。
それは以前に感じた恐怖のようだった。
記憶が蘇る。
そうだ、あれは…。
ボクは沼クンを前にして、リオと二人っきりだった夜を思い返している。
だけど、それも沼クンの一言で終わっていた。
「リオが自殺するなんて思えないんだ…」
呼吸が止まる。
鼓動が一度、大きく跳ねるように打ったかと思うと、嘘のように静かになる。
「掴み所のない気紛れな奴だけど、リオは『子供たちの夜』を壊すようなことは望まない」
静かな。
本当に鼓動も何もない体の中に、沼クンの声だけが流れる。
流される。
「不自然なんだよ…なんでだかっ!
リオが自殺するにしたって、死ぬ場所があそこであることは、有り得ないんだ。考えない訳ないんだ、リオがっ!」
憤りが、叫びになっていた。
止まったような時間の中で、ボクは沼クンの言葉を理解する。
本当は考えたくもなかった。
だけど、ボクの頭は沼クンの言葉を租借しようと動いてしまう。
「……」
リオは考えるだろう。
自分のコトだけじゃなく、人のコト。
気紛れなんだろうけど、自分が引き起こす何かで人に迷惑がかかるようなコト、リオは望まない。
夜の常連だと、気紛れだと、ボクも沼クンも認めているリオ。
だけど、夜中にあの場所へと足を向けるのは、リオが『子供たちの夜』を気に入っていたに他ならない。
例え、その後。
自分が足を向けることがなくても、リオは自分の気に入った場所を進んで壊すようなことはしないだろう。
なんでだろう…。
リオのコト、知ってることなんて少ないんだと思う。
会話もたまにしか、しなかった。
隣にいたけど。
隣にいさせてもらったけど、ボクらが共にした時間なんて僅かでしかない。
ボクがリオと交わした時間も言葉も少ないんだって、ホントに思う。
だけど、リオは。
あの場所を。
コドモタチノヨルを宝物のように感じていてくれた。
それだけはボクの中に確信となって、ある。
「違うっ…待って!」
だけど、ボクの否定の言葉を口にしていた。
「違わない!
リオは子供たちの夜を始めた奴なんだぞっ?
俺みたいに親どもに過度の期待かけられて、どうしようもなく、どうしようもなくっ!
苦しくて、抗いたくて抗えない…。
そんな大人や現実を前に傷ついちまうガキが、少しでも休める場所が必要だって、リオは言ってたんだっ!」
あぁ。
沼クンも、平静ではいられないんだ。
たぶん、いつもは口にしないような弱気が、怒鳴り声の中に混じっている。
…少しだけ感じていた。
いいとこの坊ちゃんだと自分のコトを言っていた沼クンは、どこか冷めていた。
親が医者だとも聞いたことがある。
期待なんかされたことのないボクなんかには想像もつかないけど、きっと辛かったんだと思う。
当たり前のように期待され、それに答えなきゃいけないコト。
時には力になるんだと思う。
だけど、子供の頃からずっとずっと繰り返されたら?
期待は重荷へと変わるだろう。
重荷は足かせとなって、子供は囚人へと変わる。
前にしか進めない檻に放り込まれたようなものだ。
辛くならない訳が、ない。
「俺にだって…リオにだって、大事な場所の筈なんだっ!
それを壊すなんて、奴はしないっ!
俺たちがただの子供でいられる場所を壊すなんて、親鳥のリオはしないんだっ!!」
「そうじゃない、そうじゃなくてっ!」
もどかしくて、自分の言いたいことが言葉にならなくて、どうしようもなくもどかしくてボクは叫んでいた。
叫ぶなんて経験はひどく少ない。
だから、叫んだ自分に怯えて震えている。
「リオは…リオは、じ、自殺……したの?」
気付く。
震えは慣れない叫び声を上げたから、だけ、じゃない。
ボクはこれを確認することに、奥底から凍えるような恐怖を感じていた。
「……アキラさん」
沼クンは驚いたような、呆れたような顔をしていた。
ボクだって、リオがあの場所を、みんなが土砂降りの現実に疲れて、雨宿りするように集っていた子供たちの夜を宝物のように感じていてくれたコト、判る。
だから、違うといったのは、それじゃない。
待って欲しかったのは、否定して確認したかったのは、気がかりだった言葉だった。
「アキラさんは、自殺したリオを見たんでしょ?」
自殺。
沼クンは、まるでTVの話をボクにするように言う。
「リオが自殺した学校の生徒だって…悪いけど、知ってる。警察が死体を片すときに、具合を悪くした生徒の一人だとも、聞いている」
繰り返される言葉に、ボクは震えが止まらない。
「そうか…。寝込んでたって、妹さん、言ってたね。
リオは護身用に持っていたナイフで自分の首を切って、死んだんだよ」
ほら、夜中に女子供が出歩くと危ないからって持っていた奴だよと、沼クンは言う。
ボクも見たことがある。
コンビニで買ったお菓子が開けられなくて困った時に借りたことだって、ある。
バタフライナイフっていうのかな、折りたたみしてしまえば手の中に納まってしまうような、そんな刃物だったと思う。
握るところが赤くて透明で…。
金と銀の浮き出るような龍の模様がカッコイイだろって、自慢してた。
「…でも。だって…」
ボクは震えている。
自分の腕で自分を抱きしめて、体を倒している。
惨めに取り残された子供のように、ただ怖さに負けて震えている。
「服…制服だって、破れてて……」
「……うん。乱暴されたんだろうね。
怖くなってリオは逃げた。
でも、怖くて逃げ切れないと思い込んで、リオは自分で死ぬことを選んだんだ……。
と、いうことになっているよ」
淡々と語られる文章に、ボクの中に小さな炎が生まれる。
乱暴?
乱暴だって?
そんな簡単で上辺だけの言葉で済まして欲しくない。
あれは。
だって……。
「遺書、染みたノートへの書き込みもあったそうだ。だから、警察もリオの親も自殺としたらしい」
ゾクゾクと震えが、ボクの体を走る。
そんなボクに呆れているのか、沼クンは自分の言いたいことだけを続ける。
「自殺も暴行も、あまり評判のいい話じゃない。
被害を訴えたりする者がいなければ、事件とはならないのが世の中だからね」
つまらなそうな声だと、ボクはそれを感じていた。
「リオの死は自殺として一件落着だよ」
顔を上げる。
苦しくて、辛い。
頬を滑るのが冷や汗なのか涙なのか、もう判らない。
「だけど、俺には不満が残る」
惨めな姿を晒すボクを嘲笑うように、沼クンはまっすぐに視線を定めたまま頬を上げる。
「アキラさんも、そう考えるだろうと思っていた。だから、最後にリオに会ったアキラさんから、何か聞けるんじゃないかと……」
沼クンはきっちりしたところがある。
あんまり曖昧を好まないんだと、思う。
釈然としないことをそのままにするよりは、自分の理論を駆使してでも納得できるようにしないと気が済まないタイプなんだろうと、うすぼんやりと感じたことがボクにはあった。
「思っていたんだけど、ね」
言って、沼クンは首を振る。
残念だと言わんばかりに。
「アキラさんは、それどころじゃなさそうだ…」
現実を受け止めることもできずに、無力に自分の頭も体も動かせないボクを立ち上がった沼クンは見下ろす。
「リオの死に疑問を持つなんてできやしないんだ。自分で手一杯なんだよ」
沼クンを落胆させている。
軽蔑をされているのだと思う。
だけど、ボクは動けない。何も言えない。
リオの死に嘆くばかりで、先を、周りを見ようともしないそんなボクに、沼クンは憐れみさえ浮かべている。
現実から目を逸らして自分ばかりを守ろうと、体を崩すことで逃げようとしているボクを、沼クンは目の前している。
「お大事に。アキラさん…」
沼クンが立ち去る。
冷徹に断ち切られるような、言葉だった。
ボクは苦しくて情けなくて、泣くことすらできなかった。
ペンをボクは手にしている。
空いた手には、メモ帳があった。
そうやって、ボクは幾つもの物語を書いたと思う。
どれも物語の途中まで書いて、ほったらかしにしながら、何度も何度もメモ帳を変えたような気がする。
その中には、同じキャラクターで似たような設定で、何度か書き直したものもある。
今でも、続きをちょこちょこ書き足しているメモ帳もある。
でも、どれも物語は途中までだ。
ラストを迎える前に、ボクはいつも筆を置いてしまう。
…なんでだか、考えなかった訳じゃない。
最後まで話を考え終わっている物語もあったのに、ボクは何一つとして物語を書き上げたことが、ない。
善くて、最終話のさわりまでだ。
そのまま書き続けちゃえば、すぐに終わりそうな短い話だってある。
だけど、ボクは書くのを止めてしまう。
……なんでだか、考える。
「きっと、ボクは終わりなんか見たくないんだ」
何度目になるか判らない理由を、今のボクは、そう決める。
自分で書く物語だ。
話の流れで嫌なことになることだって、ある。
だけど、それでも、ボクは好きなことを好きなように書いてきた。
だから、その物語も、キャラクターもボクの好きなもの。
それを終わらせて、手放すことが怖かったのかもしれない。
頭で考えるのはいいのだけれど、紙に書き記してしまったら、もう物語を取り戻せないんじゃないかって馬鹿なことまで思っていたみたいだ。
終わりは、一端だけの終わりなのかもしれない。
書こうと思えば、終わった後の物語の続きだってできるかもしれない。
物語を終わらせたところで、何が変わる訳じゃない。
一つの物語を書き上げて終わらせたって、また、同じのを書いたっていいんだ。他に書いている物語だって幾らでもある。
一つの物語を終わらせたところで、何も変わりはしない。
なのに。
ボクは終わりなんて、見たくなかった。
「終わりなんて、なくていいんだよ…」
ぽたりぽたりと、メモ帳に雫が落ちる。
「なくて、いいのに…」
ボクは今更ながらに、実感していた。
リオという少女の物語が、終わってしまったことを。
「続き、読んでくれるって…言ったのに」
鼻水を啜る。
みっともない顔をしているんだって、判る。
だけど、泣くのを止められない。
「や、約束だって、言った…」
なんで泣いているのかなんて、判らなかった。
頭なんて動かない。
動かしてやらない。
言葉なんか、何の意味もない。
終わってしまった物語には、もう何も書き込めやしない。
「約束の証だって、くれたのに…」
自分の唇に触れる。
それはもう遠くなってしまった記憶の中で、バツの悪そうに。でも、微笑んでくれたリオがいる。
優しく触れた、潤う感触が、今は遠い。
「…あたま、いたく、なってきた」
泣いたら、泣き続けたら、少しは楽になるんじゃないかって思ってた。
だけど、現実はそんなに甘くなかった。
泣き続ける根性も体力もボクはないようだった。
情けないけれど、体の悲鳴を前にボクは休憩を求めていた。
ボクはベッドの棚になっている所に乗せていた、今まで書き散らかしたメモ帳の全てをゴミ箱に放る。
手に握っていたペンも、メモ帳も続けて放った。
そして、そのままベッドへと体を投げる。
「約束…かぁ…」
なんとなく引っかかっていた言葉をボクは呟く。
うつぶせた先にあるクッション兼マクラで、ボクは顔を拭う。
鼻水も付いてしまった気がするので、そのまま投げる。カバーを洗濯する気なんか、今は起きない。
「…リオ、約束破る人じゃないよね」
呟いた言葉に、ボクは心の中に棘のようにいつまでも突き刺さり、気にかかっていた疑問があったコトを知る。
リオの何を知っているんだと言われてしまえば、困るより、ない。
けれど。
リオは人から約束されたコトには無頓着に気にしなさそうだけど、自分からした約束を破るようなイメージがボクはないのだ。
リオはそんな人だと、思う。
理由とか根拠とかないけど、ボクはそう思ってしまう。
「でも、リオは…自分で自分を殺しちゃって。ボクとの約束を…」
…不可抗力というやつなのかもしれない。
なにより、それどころじゃない気持ちになっちゃたんだって、話もあった。
だけど、リオは約束を果たさなかった。
果たさないまま、リオは死を選んだのだと聞かされた。
「……」
ボクなんかとの約束なんて、取るに足らないコト、だったのかもしれない。
…ううん。
約束の証なんてリオはしてくれたから、ボクだけが約束だって変に意識しちゃっていただけなんだと思う。
けど、どうしても。
どうしても、気になってしまう。
「リオは、約束、破る人じゃない…」
沼クンは、リオが大事な場所を壊すことしないって、言ってた。
自殺がそんな悪いことだとは思わないけれど、きっとリオが死んじゃった場所は使えなくなる。
しばらくは、警察の人だって動くだろうから現場だっていって近付く事だってできないだろうし。
子供たちの夜を迎えたあの連中だって、リオが死んじゃった場所に集まること、辛くなって無理になっていると思う。
リオはあんまり喋ったり、みんなの和に加わったりするような人じゃないけど、みんなから慕われていたもの。
「リオは、あの夜を壊すような人じゃない…」
なんだか、不思議に思える。
不思議なんかじゃない。
おかしいよ。
おかしいんだっ!
ボクは、叫びだしたいような気分を味わっていた。
膨れ上がる気持ちをボクは必死で押さえつける。
何処か遠くの自分が、これもリオの自殺を受け入れられずに逃げているだけなんじゃないかと、嘲笑う。
「本当に…リオは、自殺、したの?」
ボクはリオを失った悲しみから逃れるために、何かにしがみつきたかっただけなのかもしれない。
……物語に終わりが必要だというなら、それもいいだろう。
ボクはリオの命の最後を目にした。
「でも…。ボクは、リオの物語の最後を目にした訳じゃない」
それは。
ボクが物語のラストを望んだ。
初めての夜だった。
つづく