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1.夜へと

1.夜へと


夜が来る。

明けた朝を終えて、明るいだけの昼が過ぎて、夜が来る。

太陽もどこかに消えて。

誰も彼もが曖昧に沈む黄昏を越えて。

夜が来た。

だから、ボクは出かける支度を済ますんだ。

お風呂も済ましているので、パジャマからの着替え。

布地の薄い楽なズボンに、Tシャツ。

夜中になれば気温も下がるだろうから、上着も羽織っておく。暑ければ、脱げばいい。そんな気楽な身支度だった。

ポケットに入れたメモ帳とペンだけあれば、問題がないと思ってしまうボクは外見には無頓着なんだと思う。

それでも、いい。

そのくらいで充分だと思う。

「…さてっと」

一階も騒がしくなってきたようだし、そろそろ出かけてしまおうとボクは窓を開ける。

寒さも薄らいだ春先だけど、それでも夜風は涼しくボクの頬を滑った。

出かける夜に吹く風は、何故だか乾いている。

涼しいよりも寒いよりも、感じるのはそんなことだけだった。

ボクは一瞬だけ、顔を自分の部屋へと向ける。

いつ自分が消えてもいいように、片付けられた部屋だ。

必要なものだけを残し、できるだけ自分が関わるものを残さないように心がけている。

特に何の予定もないけれど、なんでだかそれは自分にとって必要な心構えなのだと、ボクは思っている。

片付いた部屋を一瞥している。

だけど、ボクが見ていたのは、自分の部屋じゃなかった。

部屋を。

廊下を。

階段を越えて、見ていたのは。きっと、階下の二人だったのかもしれない。

毎夜のように言い争う二人をボクはどこか遠くで気にかけているのだと思い知って、ボクはため息を一つだけ、夜に漏らす。

未練たらしい自分に呆れた。

泣きたくなるくらい、情けないと思う。

無力で、だけど何かを夢見ている自分が、憐れだった。

だから、ボクは目を背けて逃げたいと思い、願っていた。

逃げたいと思う夜を何度となく繰り返した。

そして、一時だけでも逃げ出せる場所を、ボクは見つけていた。

階下の罵りあう声からも。

思い通りにならない現実も。

なんもかんもを投げ打って忘れ去りたくて目を背けていたくて、ボクは夜に抜け出して一時だけ、休むのだ。

ボクは疲れた心に気付いている。

少しくらい、休んだって罰は当たらないと思うんだ。

そうして…。

一時の逃げだすだけの夜を、ボクは繰り返そうと思う。

ボクは窓を乗り越えて、夜へと身を委ねる。

仄かに香る風と、夜だけがボクを迎えてくれる。

「ちょっとだけ、いってくるね」

答えは返らない。

それでも、口にしてしまっていた自分を笑って。

ボクは夜の闇へと歩き出していた。




見慣れた景色をぼんやりと眺めながら、ボクは住宅街を歩いた。

まだ人が寝静まるような時間ではない。

けれど、寂れた街にある寂れた住宅街に姿を見せる生き物は、ひどく少ない。

住宅街を抜けるまでに出会った生き物は、犬が一つに、赤ら顔のフラフラと二足歩行するスーツ姿の大人らしきものが一つ、二つくらいだった。

変にたくさんの大人なんかと会うよりは、ずっといいと思う。

大人は子供が夜に出歩く姿を嫌うみたいだから、変に出会って呼び止められたり咎められてしまうよりは、いないでいてくれた方がずっとマシなんだろう。

寂れた街にある公園の横を過ぎる。

団地を過ぎる。

人はもう家にいて、明るい団欒なんてのを楽しんでいるのだろう。

ちょっと羨ましいと思う心が疼いた。

一軒家やマンションに灯る明かりが少しだけ恨めしい。

明るい団欒なんかを迎えられない子供としては、妬む気持ちくらい持たせてもらっても許してほしいものだと、ボクは思う。

夜に明るい家々の明かりを眺めながら、ボクは歩き続けた。

最後の建物を過ぎれば、遠くにポツリポツリとある外灯が、妙に寂しげに夜に浮かんでいた。

振り返るボクは、何故だかここを境界線のように感じている。

ぽんと、見えない境界線を越えるようにボクは跳んだ。

その後に、何かに出会うことは更に稀だ。

住宅街を抜ければ、そこは学校までの道でしかないのだから。

行きかう生き物もない道を、ボクは進んでいた。

最初はちょっと怖いと思った。

毎日といえるくらい通わされる、通い慣れた道も夜一人で歩くにはひどく心細い。

夜から湧き出るように生まれてくるくすんだベージュの校舎も、昼には決して憶える事ない種類の恐怖を与えてくれる。

昼には昼で、違った恐怖感と嫌悪感を存分に覚えてしまうんだけど、ね。

ボクは見え始めた校舎に恐怖を覚えていた頃を思い返している。

だけど、それも繰り返せば慣れるものだと、ボクは思う。

耳障りな言い争いに慣れるよりも、それはひどく簡単だった。

今では空気を吸うように自然と、ボクは滲むように夜から生まれる学校を目にしている。

歩みが遅くなることも、今はない。

のんびりと景色を楽しむように、ボクは進む。

眺める景色の先に小さな、僅かに揺れるように小さなともし火を見つける。

今日は先客がいるようだ。

ボクはアイツだといいなと、少し期待する。

期待することに臆病なボクだと自分を位置づけていただけに、ボクは少しだけ緩んだ頬に驚く。

意味の無い一人相撲で不毛な絵空事は、物語の中だけでいいのに。

緩んでしまった頬に、ボクは見切りをつけて苦笑へと変えた。

諦めているわけじゃないんだけどね。

期待通りにならないことが多いってこと、十年ちょっと生きてきたボクは善く知ってしまったから、期待を裏切られた時の予防線が必要なのだ。

思い通りにはならないこと、それを想定しておけば被害も少ない。

賢い生き方ではないのかもしれない。

だけど、それはボクが生きて行くには必要な事のように思える。

考え方が後ろ向きなんだろうね、きっと。

ボクは心の中で、自分を嘲笑うことにした。

ちっとも楽しくはないけれど、そうすることで自分の考えを終わりにしたかったのだ。

少しばかり自分を嘲って楽しんでいた。

慰めにも励ましにもならないけど、ボクはそんなことでしかバランスをとれないでいる。

ちょっとだけ、疲れているのだと思う。

そう、思うコトにする。

「ふぅ…」

もう、校門の前だった。

心だけじゃなく、体も少し疲れていた。運動不足なんだろうと、思う。

ボクは正面から少し回って、門の切れ目と斜面となる森のような場所に足を踏み入れる。

レールに置かれた滑る門を開いてもいいのだけれど、静かな夜を壊したくないボクは、壁の終わりと斜面が作る隙間を通ることを選んだ。

まぁ、重い鉄の門を動かすのも元に戻すのも面倒なだけ、なんだけどね。

侵入者を防ぐ筈の門をあっさりと越えて、ボクは学校へと侵入を果たしていた。

そして、ボクはか細い蝋燭が照らす場所へと足を運んでいた。

そこは昇降口と自転車置き場を繋ぐ渡り廊下だ。

土足で行き来するから廊下ではないのかもしれない。

あるのは、雨を少しだけ防いでくれるアーケードのような屋根と、腰の辺りまで隠すような壁が両側にあるくらいだ。本当は廊下じゃないのかもしれないけど、渡り廊下で通じるようなので、ボクもそう呼ばせてもらっている。

気に入っているのは、両側にある腰までの壁だった。気に入っているというよりは、必要なのかな。風も雨も半端にしか防いでくれない、なんか凄く中途半端な壁だけど。

座ってしまえば人目も気にならない、そんな場所だ。

そこにシートを敷き、どかりと座る相手をボクは見つける。

周りに等間隔に置かれた蝋燭が、微かに流れる空気の動きに僅かに身じろぐ。

揺れるか細い明かりは、先ほどボクが見ていたもの。

暗く深い夜で目指していた、ただ一つの明るい灯火だった。

ボクは多少の緊張を覚えながら、明かりの中心にいる相手に声をかける。

「やほ…」

野球帽を目深に被り顔は善く見えない。小柄な身体はサイズが合っていないようなビニール質のジャンパーと、ズボンで隠している。

だけど、判る。

緩んでしまった頬は、報われたのでしょう。

シートの上にどかりと座る相手は、ボクが会えればいいなと無力な希望を持ってしまった相手だったのだから。

「……」

声はかけたのだけど答えが返らないので、ボクはどうしようかなと考える。

聞こえなかったのかもしれないし、聞こえたけれど、無視されたのかもしれないからだ。

携帯ゲーム機から、顔を上げても貰えない。

夢中になってて聞こえなかったならいいけど、機嫌が悪くて無視されたのなら、今日は居場所を変えなきゃならなくなる。

気にせず隣に行っても怒るような相手ではないのだけれど、気の弱いボクはつい相手を伺ってしまうのだ。情けない奴だと自分でも思う。

戸惑い立ち尽くしていたのは、どれくらいだったか。

少しして、ボクは答えをもらってしまう。

「…おう」

短い一言だった。

だけど、それでもボクは嬉しさを憶える。

挨拶をして無視されるよりは、答えてくれる方が嬉しいと、ボクは思う。

「ねぇ」

「…ん」

近付いたボクは、もう一声だけ彼に囁く。

座っていた場所をずらし、面倒くさそうに眉を寄せた彼は厚みのある銀のシートを広く覗かせてくれる。

座りたければ、すぐ隣の鍵の壊れた倉庫から椅子を持ってきてもいい。彼が敷いているクッション付きのシートが使いたければ、倉庫の中には丸まったまま幾つも転がっているのだから、ちょっと動いて持ってくればいい。

だけど、ボクは彼の隣へと身を置く。

我侭だと思うけど、そうしたかったから。

「面倒くさがりだな、ホント」

文句を言われたけれど、ボクはコンクリートの上に敷かれたシートの上に腹ばいになって楽な体勢を取らせてもらった。

呆れたような文句だったけど、笑いながら言ってくれたから、少しだけ自由にさせてもらおうと思ったのだ。

一つのシートは一畳分くらいの広さなので、外れる部分が汚れるのを気にしなければ、じゅうぶん横になることもできる。

敷きシートは青い発泡スチロールのようなクッションがあるけど、シートの上にはコンクリートの冷たさが伝わっていた。

お腹が冷えそうだな。

こんなことなら、トレーナーでも着込んでおけば善かったと思ったけど、後の祭りだった。

うつ伏せでいたかったけれど、ボクは体を反転する。

「おい、動くなよ」

「ご、ごめん」

動いた拍子に腕が彼の身体にぶつかり、文句が飛んでくる。

少し慌てている感じだった。

ぶつかった時にゲーム操作を誤らせたのかもしれない。申し訳なさを感じて、ボクは小さくなった。

「……あったかいね」

少しだけ触れた彼の身体に、服を通して温もりを感じたボクは思わず呟いてしまう。

「は? 今日は寒ぃだろ?」

ちらりと視線がゲーム画面から外されていた。

仰向けに寝転んだから、ボクの顔は彼に見られやすくなってしまったようだ。

突然、目を向けられてボクは少し恥ずかしさを憶える。

「そ、そうだね」

ボクは何気なさを装って答える。

頬が少し熱いけど、きっと蝋燭三本で判るような変化じゃない筈だ。

「…お、おい」

「寒いから、暖を取らせてもらう」

困惑の声を無視して、座る彼の背中を体で囲むように丸まる。

ボクらは、人と顔を向き合わせることが苦手なんだと思う。

人だけじゃない。

ボクは家にある言い争いとか学校での生活なんかとも、真正面から向き合うことが苦手だ。

向き合うことさえしたくないんだ。

だから、それに触れることも苦手なのだと思う。

「ふぅ。あったかいね」

だけど今、ボクは苦手なはずの人と触れ合っている。

その温もりに、緊張は捨てきれないけれど暖められている。

身体だけじゃない、何処かが暖まるような不思議な感覚だった。 

「……へ、変な奴」

目を瞑るボクの耳に、少しだけ緊張した声が触れる。

やはり、彼も人と触れ合うことは苦手だったようだ。

「まぁ、いいか。背中、寒かったし」

わざとらしい言い訳を後にして、彼はまたゲームに戻った。

きっと、彼の頬も少し熱くなっているのだと思う。

今のは彼なりに、ボクの行動を許してくれるというコトなのだろう。

寒いから、本当は嫌だけど、そうしてても許してやらぁってコトなんだと、ボクは笑い交じりに納得させてもらおう。

なんだろう。

少しだけ気分が、いい。

気持ちだか、心だかが、触れた温もりに暖められるようだった。

触れること。

触れられること。

苦手で嫌いだった筈なのに、何故だか気持ちがいい。

温もりに触れること、初めてじゃない筈なのに、ボクは触れた温もりに感動さえしそうだった。

温まればいいと思った。

自分の気持ちも、心も。

触れさせてくれた、コイツも。

「今日は…」

「ん?」

目を瞑って温もりを堪能していたボクの耳に、子供のように少し甲高い彼の声が降る。

「ん。いや…」

言い澱んだ声に、ボクは薄目を開けて彼を見る。さっき、派手な音が小さなゲーム機から聞こえていた。たぶん、ゲームが終わったか、終わらせたかしたんだろう。

「沼の奴、来ねぇのかな? ゲーム、借りるつもりだったんだけど」

なんだか取り繕うように出た言葉だなと、ボクは思っていた。何か他のコトを言いたかったのに、言えずに他の話題を急に持ち出したような感じだった。

少し、彼らしくない。

そんなことも思う。

「沼クン…?」

思いながら、ボクは彼の言った言葉を繰り返していた。

沼クンは、頭の良さそうな男の子だ。

ボクらよりも更に若そうだから、中学生なのかな?

小学生ってコトはないと思う。

眼鏡をかけた線の細い男の子で、この街にあるお医者さんの親を持つのだと、いつか聞いた気がする。

だけど、詳しいことは知らない。

聞けば答えてくれると思うけど、あまり互いの事は詮索しないのが、ここでの暗黙のルールなのだとボクは思っているから。

「んー。どうだろうね…」

ボクは答えにならないことを呟いたまま、目を閉じ直す。

なにをしに来た訳でもない。少し暇を潰せるようにメモ帳は持ってきたけれど、今日は、ただこうしているだけでもいいなと、ボクは思っていた。

「先月に出たゲーム、やりたかったんだけどなぁー」

さほど残念でもなさそうに、彼は呟く。

確かに、沼クンなら新しいゲームも色々持ってそうだった。

あんまり、ゲームには興味がないと言っていた割には詳しかったみたいだし、ゲームが大好きな彼ともオモチャやゲームの話で盛り上がっていたことが何度かあった筈だ。

ボクは、彼がいる時には善く隣にいるので、そんな光景を何度か見たことがある。

正直いうと、羨ましかった。

ゲームやオモチャに興味はないけれど、同じ趣味で盛り上がれるというのは、とても羨ましいコトだと思う。

「そんなに楽しいの…かな?」

ボクはそんな呟きを上げていた。

意識したつもりはないんだけど、少し拗ねた口調になってしまってしまいボクは内心で慌てている。

RPGは楽しいとボクも思う。

綺麗なグラフィックと効果が、物語を映画やアニメのように彩ってあるし、戦闘なんかの育成でキャラクター達と一緒に居られる時間も長いから感情移入もしやすくなるし、とても物語を楽しめるシステムだと思うもの。

だけど、ボクは戦う奴とか、アクションだとかの運動神経を使うゲームは全滅なのだ。

元々、自分には運動神経はないと思っているけれど。

それを眼前に突きつけられるような気がして、ダメだった。

結果、ゲーム全般にあまり好印象を持ってなくなっている。

「ちょっと慣れれば、楽しいもんなんだけどね」

それを知っている彼はニヤニヤとした意地の悪い笑みを返してくる。

ふんだ。

どうせ、運動神経ないよーだ。

「それに、やってる間は余計なこと、考えないで済むから…」

ふっと逸らされた視線と共に呟いた言葉に、ボクは寂しさを憶える。

 それが、本心なんだと気付かない訳にはいかないから。

「ふー…ん……」

ボクは身動ぎして、ポケットのメモ帳とペンを確認していた。

やっている間は余計なことを考えないで済むといった彼の言葉に、ボクはやはりポケットの中のそれらを意識させられたのだ。

ボクも同じなのかな。

そう、思った。

「アキラは?」

頬に手を置かれ、ボクは目を開けると彼を見る。

「今日は楽しい事、しないの?」

少し身体を捻ってボクの顔を覗き込む彼は、見たこともない優しい笑顔だった。

「んー…今日は、いいや」

ペンを取り、メモ帳に色々書き留めることよりも、ボクはこのままでいたかったのだと思う。

「アキラの物語、楽しみにしているんだけどな」

ありがたい言葉だった。

内心では手放しで感謝しているし、嬉しがっている。

「どれも終わってないよ。ボクは色々書くけど、飽きっぽいからね、どれも完結なんかできない中途半端で、どうしようもない物語だよ」

だけど、つい棘のある言葉を返してしまう。

彼がゲームを楽しむように……余計なことを考えないようにと、ゲームを楽しむように、ボクにも楽しんでいることがある。

それが、物語を書く事だった。

小説なんて格好いいものじゃないけれど、ボクは自分が考えたキャラクター達を頭の中で動かすコトが好きだった。

惨めな趣味だと、ボク個人とても思っている。

現実で上手くいかないから。

何一つ、思うように、上手くいかないから。

どうしようもなくもどかしくて、上手くいかない現実と自分が、嫌で嫌でしょうがなくて。

だから、現実から逃げるように、思い描いた色んなキャラクター達に自分の思いを乗せて動かしてやることが唯一の慰めだった。

代替行為。

そんな呼ばれ方をする行為なのだと思う。

現実には得られぬことを、何か他の事で間に合わせるような、そんな行為だ。

目の前に転がるさまざまな現実を素直に受け入れる事もできないから、空想を自分の思うように描き、現実の代わりに間に合わせている。

惨めな楽しみだと、ボクは思っていた。

「終わってなくてもアキラの物語、どれも面白いよ」

拗ねて膨らませたボクの頬を彼はつつく。

思いの他、膨らんだ頬をつつく感触は面白かったようで、なんでだか延々と頬をつつかれている。

いや、別に。

君にならつつかれるくらい、幾らでもしてもらっても善いんだけどね。

なんだか、不思議な光景だとは思う。

「書けよ、続き!」

自由にさせていると、頬がつままれていた。

恥ずかしながら肉の多い方なので、どうやら面白がられているらしい。

「…ほれを?」

面倒さを露にして、ボクは尋ねる。

頬をつままれていたので上手く発音できなかったけど、「どれを?」とボクは反抗するように彼に聞き返していた。

これも、照れ隠しだ。

読まれたくて書いていたものじゃ、決してなかった。だけど、読んでもらえた時、ボクはひどく嬉しかった事を憶えている。

誰にも言えなかった自分の醜い胸の裡を知られるような緊張と、微かで僅かな期待があったのだと思う。

初めてボクが書いた物語を彼に読まれている間、寒かった筈なのに変に汗を流していたコトをボクは思い返している。

何度か、ここに集まる連中に読んでもらえる機会があって、今では少し慣れた。

だから、少しだけ気楽に答えられたと思う。

「あのファンタジーの奴がいいんじゃないか?

 沼の奴も気に入ってただろ?」

その答えにボクは少し不満があった。

それがどんなものか、形にも言葉にもならなかったけれど、どうしてだか沈黙を応答に代えていた。

「じゃ、兄貴が妹を好きになったってのは、どうだ?

 ゼロ子が、続き、読みたがってたじゃん」

本名を名乗り合う必要なんか無いから、ここに集まる連中は偽名を名乗る事も多い。

だけど、「ゼロ子」ってのは、いただけないと思う。

どうしたって本名は「レイコ」って名前だとしか思えないもの。

「あー…あれねぇー」

ボクはつい、上の空で答えていたみたいだ。

ボクの答えに彼の形の善い眉が寄っていた。

ボクが上の空になってしまったのは、分不相応な不満をボクが持っていたコトに気付いてしまったから。

つい、それに気を取られて上の空になってしまっただけで、他に他意はなかったんだけど、間の悪いボクは彼の癇に触れてしまったようだ。

だから、ボクは言い出す切っ掛けを失ってしまったことを知る。

ボクはキミが読んでみたいと思ってくれた物語を知りたかったんだけどな…。

そんなの一つもないのかもしれないけど、もし言ってくれたなら頑張って続きを書こうかなと思ってしまった自分が、少し恥ずかしい。

「気乗りしない返事だな、おい」

文句が飛ばされ、彼は背もたれに身体を預けるように、身体を反る。

そうすると、背中に撒きつくように身体を丸めていたボクにダイレクトに圧迫がかかる。

「お、重いよー」

わざとやっているのだろう。

ボクの非難の声に応じて、更に体重がかけられていた。

ちょうどお腹の辺りに上手いこと体重を乗せてくるので、さすがにちょっとキツい。

「重いとは、失礼だぞ」

目深に被った帽子を外して、笑い声と共に彼は長い髪を夜風に流す。

「……」

そうすると、もう彼とは呼べなくなってしまう。

少し釣りあがった意志の強そうな目と眉に、健康そうにすらりとした顔立ち。肩を過ぎる髪を夜風に揺らした姿は、少年などには見えない。

そこには、笑顔も素敵な少女がいるだけだ。

「…うぅ。ごめん」

ボクは非難の声を謝罪に変える。

彼にならともかく、高校生の少女に重いとは言えなかった。

「ふふ。相変わらず、女には弱いんだね」

くるんと振り向き、胡坐をかいた少女は破顔していた。

男の子バージョンの彼とは普通に居られるんだけど、女の子バージョンをボクは苦手としている。

ボクは相手に気付かれないように、少しだけ距離を置いた。

同じなのにと少女は言うけれど、ボクも年頃なので、異性は意識してしまうのだ。

「ふむ。中身は同じなのに外見が男の側にはいられて。女と判ると、その態度か?」

不満げに言われても困る。

男相手にじゃれつくことは気安いけど、その逆は気を使うものだと思う。

クラスの中じゃ、ボクが触れた物さえ嫌う女子もいるのだから。

「確かにリオはリオだって判るけど、外見が女の子だと身構えちゃうんだよ」

ボクは情けない声を上げていた。

初めて知ったときは、随分と戸惑ったことをボクは思い出している。

夜に開かれる子供たちの集会に立ち寄るようになり、なんの気はなしに彼の横を指定席にしていたボクだけど、彼が少女だということに気付いたのは、何度か立ち寄らせてもらった後だったのだ。

すっかりとボクは彼が男だと勘違いしていた時期があり、ちょっと…じゃなく、凄くその事実は衝撃的だった。

言い訳をするなら、ここに集まる連中は喋りたい奴は喋り倒すけど、喋らない奴はとことん自分の事など語ることなどしないのだ。

そして、ボクもリオも典型的に後者のスタンスを取っていた。

隣に善くいたというのもポジショニングの話だけで、ゲームに夢中になっている彼の隣が静かだったからに過ぎない。

会話も殆どなかったし、喋っても男のような喋り方をする人なのだ、リオは…。

それに、だいたい姿を隠すような服装だったり、髪型だって女性とは判りづらい外見を作っていた。

それは、女性が女性と判る格好で一人で夜道を歩くことは危険かなとの判断から、そうしていたと後で聞いたけど、つまりは男だって誤解されてもしかたない言動だったし、格好をしていたってことだ。

決して、ボクが鈍いからって訳じゃないと思うし。

ボクが鈍いからって訳だけじゃないと思いたい。

「そんなもん?」

「…うん」

なにより、ボクが隣にいても無関心で居続けられたことが、リオが女の子だという発見を遅らせた。

悲しいコトだけど、ボクはあまり女子に好まれるような、外見や性格をしていないのだ。

……言葉を、言い繕いすぎたかもしれない。

ボクは女子の人に気持ち悪がられること、多いのだ。

「…しょうがない奴」

苦笑が、愛らしい少女の顔に翻る。

呆れられたのだと、思う。

だけど、リオの苦笑は何故かすごく優しかった。

「ほら、アキラの好きな男バージョンのリオ様だぞ」

帽子を目深に被って、リオはボクの横へとゴロンと転がった。

狭いシートの上だから身体がくっつきそうで、ボクは困る。

折った腕を枕にして無造作に寝転ぶリオは、まるで利かん気な少年のようだ。

でも。

だけど、本当はボクなんかが側にいて許されるような人じゃない。

リオは綺麗な女の子だ。

誰からも好かれるような、綺麗な外見と心を持った女の子だ。

帽子を目深に被っても覗く、薄く流れるような眉に意志の強そうな瞳が印象的だ。

理知的にすらりと通った鼻筋と、ふっくらと柔らかそうな唇を持ったリオは、年頃よりも少し大人びた少女なんだと思う。

なんで、こんなにも綺麗でかわいらしい顔をしたリオを男だと思い込み、女の子だと気付かずにいたのか不思議だった。

リオに気付いてしまったボクは思い知る。

醜いボクなんかが側にいて許されることはないんだと、思い知る。

「…続き、書けよな」

さっきまで気楽に側にいられたことが嘘のように、身体が萎縮している。

そんなボクに構わず、リオは言った。

「…え?」

突然な言葉だったし、女の人…リオが近くに居る事で畏怖に似た緊張を覚えていたボクは鈍い反応を更に鈍らしている。

「アキラの物語の…つ・づ・き、だよっ!」

リオはそんなボクを笑う。

「……これでも読むの、楽しみにしてるんだぞ」

遠くにある外灯に薄く浮かび、蝋燭に照らし出されたリオの顔は優しく楽しそうに笑っていた。

「…う、うん」

ボクは考えるコトなどできずに頷いていた。

変な言い方かもしれないけど、その時のボクにはリオの笑顔が眩し過ぎて、頭も気持ちも動かせるコトなんかできなかったんだ。

ただ、ボクは眩しいリオの笑顔と言葉に、反応してしまっただけ。

「おっ。頷いたな」

嬉しそうにリオは笑って、ボクへと近付く。

ボクは動けない。

身動ぎもできないで、リオの前にいる。

「じゃ、約束だ。アキラの物語の続き、読ませろよな」

リオはボクの戸惑いも困惑も気にした風もなく、話を進める。

「で、でも…」

「でも、じゃないっ! 約束したんだからな」

ボクの戸惑いなど、一蹴される。

いっそ気持ちがいいほどだった。

「終わってなくてもいい。何度、書き直してくれたっていいんだ。アキラが書いた物語の続きが読みたいんだよ」

戸惑いは消えない。

だけど、ボクはリオの言葉の前に、無力だった。

「わ、わかった」

ボクはガクガクする動きで頷く。

その動きは、自分でも可笑しいと思った。

なんで頷くだけなのに、声が震えて操り人形みたいな動きになってしまうのか、判らない。

だから…かな?

リオも笑った。

輝くような笑顔で。

嬉しそうに…。

「じゃ、約束の証だ」

リオが動く。

何の迷いもなく、スムーズな動きでリオの顔が近付いてくる。

「…えっ?」

「目ぐらい閉じろ、馬鹿っ」

苦笑で言われて目を閉じると、衣擦れの音すらもなく、唇が触れる。

やわらかく潤った、何か…に。

「……っ!!」

「……なんだよ、別に初めてって訳じゃないだろ?」 

飛び上がらんばかりに驚いたボクに呆れて、リオは呟く。

少し、リオの表情はバツの悪そうな表情かなとも、驚いたボクは感じていた。気のせいかもしれないけど、リオの頬も少しだけ赤いような気がする。

「あ、あぅ…」

ゴメンなさい、初めてです。

なんて、まともな返事を返すコトなんてできる訳もなく。

ボクは鼓動と体温を高めてしまっている。

「…二人っきりって、珍しいよな」

たった一瞬の出来事を受け入れるコトもできずにパニックになったボクを哀れんだのか、リオは話題を変えてくれる。

「そ、そうだね。入れ替わり立ち替わりあるけど…四、五人は何だかんだでいるもんね、いつも」

問題を先送りにするのは、ボクの反省すべき、欠点。

だけど、ボクは縋るように変わった話題に飛びついていた。

「うん。だからかな…。少し、寂しいや」

リオの手が、そっとボクの体に乗せられる。

「そ、そう…なの?」

寄せられ、抱きつかれた形に驚くと思っていた。

なのに、ボクは漏らされたリオの言葉に吸い寄せられている。

「ちょっと、な…」

リオはボクの胸に頭を埋める。

静かに、強がる口調で寂しさをもう一度だけ漏らして、また沈黙する。

「……」

ボクは何も言えなかった。

何をすることも、できなかった。

ただ、静かにボクの胸で休む小さな少女を凍えぬよう抱き寄せるしか…。

ボクにはできなかったんだ。


つづく

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