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83:〔オモイ〕

「ウソ……だろ……?」

「残念ですが真実です。……ミコトさん、気持ちはわかりますが、現実を……」

「いや、だ。いやだいやだ! 僕は信じない! だっておかしいじゃないか! こんな、こんな真っ黒な世界、二度と見たくなんか……!」

「ミコトさん……」


 藍の声が耳に残る。わなわなと震える身体は、目の前にある真実を認めようとしない。

 固くつぶった目を再度開くも、そこにある風景は変わりはしない。


 ――これも黒。


 ――あれも黒。


 ――それだって、黒。


「少しくらい、白があったっていいじゃないか……。なんだって、こんな……!」


 やがて現実を受け入れはじめた僕は、強張っていた身体から力を抜いた。耳がパタリと倒れ、耳飾りが揺れる。

 そんな僕を見た藍は、その真っ黒な世界をしばらく見つめ――。


「そろそろ諦めてください。これでパーフェクト何回目だと思ってるんです」


 ――カチカチと、一個ずつ重ねて片付けはじめた。

 真っ黒な世界――つまるところ、石が全て黒に置かれているオセロ板が、みるみるうちに片付けられていく。


「……十七回」

「十回減らさないで下さい。二十七回です。パーフェクトを抜かせばミコトさんは三十回以上負けています」


 淡々と語る藍。ぐったりしている僕を尻目に、きっちり片付けられたオセロ板をしまいに奥の部屋へと消えていく。

 あまりにも暇だったからといって藍に勝負を仕掛けたのが失敗だった。負けが負けを呼んで僕のプライドは粉みじん。暇と同時に自信も潰れてしまった。


「……家出してやるーー!!」

「晩御飯には帰ってきて下さいね〜」


 くそ、流された。

 声だけ出して実際には全く動いていなかった僕は、ため息をついてから猫の姿に変化。少し開かれた窓からのろのろと外に出るのだった。










「さ、て。ノリで出てきたはいいけど」


 ぺたぺたと猫の姿のまま人里に繋がる道を歩いていく。別に人里に用があるわけでは無いが、先程呟いた通りノリで出てきただけなので、ただ何となく人里に向かっているだけである。


「それにしても……負けるとは思ってたけど、あそこまで強いとは……」


 藍の頭が良いのは昔から知っていた。が、さすがにパーフェクト二十七回はやられすぎである。こちらの頭が悪いとかではない、ただ単にあちらが化け物なだけだろう。そう信じたい。


「しかし……藍であれなら、紫はどうなるんだ……? 今度やらせてみようかな……」


 少し歩くペースを落とし、真面目な顔でオセロで勝負する二人を想像して苦笑する僕だった。










 途中、妖力を抑えていた僕に襲い掛かってくる小妖怪を蹴散らしながらも人里に到着。人里は今日も賑わっている。

 依然として猫の姿のままの僕は、道行く子供達に耳やら尻尾やら耳飾りやら弄られながら進んでいた。


「で、なんで私の肩に?」

「いいじゃんいいじゃん」


 で、今は偶然出会った阿求の肩にぶら下がっていたりする。なんでも寺子屋に用があるとかで、なら僕も、ということで肩に引っ掛かったのだ。着物に傷が付かないように爪はしまっているけれど。


「それにしても……」

「?」


 阿求が歩きながらチラリとこちらの姿を見る。不思議そうな視線に、なんとなく居心地が悪くなって肩から飛び降りた。

 阿求の前に踊り出た僕に、彼女は屈んで手を伸ばしてくる。


「貴方の身体……灰色でしたよね?」

「あー……。そうか、この姿だと……」


 何故あんなに小妖怪に絡まれたのか、その原因がわかった。

 今の姿は猫。しかし、前のように全身灰色の姿では無い。それどころか――。


「見れば見る程……真っ白ですね」

「…………」


 原因は単純に、色が違って僕だと判断されなかっただけだったのだ。

 迂闊だった、人型の時は着物が灰色だったので目立つのは髪の毛だけで済んでいたが、その実真っ白に染まっていたのは髪の毛だけでは無いのだ。深くは語らないが、そりゃあ猫になれば真っ白にもなる。


「あ、すいません。気に障りましたか……?」

「ああ、いや、そういう訳じゃないよ」


 言いながら人型に戻り、立ち上がった阿求の頭に手を置く。


「ちょっと訳有りでね。しばらくすれば元に戻るさ」


 実は戻ろうと思えば、今すぐにでも元に戻れるのだが。

 僕が真っ白になった原因。つい最近までは、負の感情を封印する時のショックで色が抜けたのだろうと考えていたのだが、どうやらそうでもなかったらしい。

 僕が黒く染まる原因は、負の感情が僕の許容範囲を越えることにある、と紫が言っていた。

 ならば、逆に負の感情が少なすぎればどうなるのか? 答は、今の僕の姿である。

 簡単に言ってしまえば汚れのようなものだ。汚れが溜まった水が黒く染まるような……とは、紫の例えだが。

 今の僕は完全に濾過された綺麗過ぎる水のようなもの。それが灰色に染まるには、余所から汚れを持ってくればいい。つまり、人間やら妖怪から負の感情をもらってしまえば、僕の姿――人型の時は髪――が、灰色に戻る。

 今はそうする必要もないのでそんなことはしないが、戦いになればなにかしら負の感情は受け取ることになる。例えそれが手合わせのようなものであっても、だ。

 そう考えると、焦らずとも近い内に灰色に戻ることはできる。なので、今は白髪を楽しんでいるだけの話だ。

 あと、これはおそらくだが……灰色に戻ることができれば、擬似的に黒く染まることもできるだろう。僕の能力は、どちらかと言えば外(他人)より内(自分)に強力に作用する。それを考えれば、決して不可能では、ない。


「……ミコトさん? いつまでこうしているんですか?」

「……ん? あぁ、ゴメン。あまりにサラサラなもので」

「ミコトさんに言われても……」

「どういう意味だよ」


 阿求の頭から手を離し、少しふくれた彼女と先に進むことにする。


 ――このことは、僕の髪が白いうちは考えるのは止めておこう。いずれ把握しておく必要はあるが、確認のしようがないことを考えても仕方がないのだから。










「こんにちは」

「あぁ、きたか……おや? 隣にいるのは……」

「ただの野良猫です」

「お前みたいな野良猫がそこらにいてたまるか」


 結構辛辣な言葉を浴びながら、阿求と共に慧音宅にお邪魔する。

 見覚えのある靴が目に入ったが……まぁ、その人物は別にここにいてもおかしくはないのでスルーしておく。


「で、お前は何の用で来たんだ?」

「いや、単なる暇潰しなんだけども……」

「なんだ、そうなのか。なら、家にはもう一人お前と同じ理由で来た奴がいるから、そいつの相手をしておいてくれ。私はこれから阿求と用事があるからな」


「ん。了解」


 慧音と阿求がとある部屋に入っていくのを見送った僕は、その僕と同じ暇人がいるであろう居間へと向かうことにする。向かうとは言っても、ほんの二、三歩歩けばたどり着いてしまうのだが。


「や、妹紅」

「!? ……ミ、ミコトさんでしたか。びっくりした」


 何故か胸を撫で下ろしている妹紅の隣に座り、目の前にある机に乗っている紙を手に取る。


「なにをそんなに驚いているんだか……。考え事でもしてたのかい?」

「え、えぇ、まあ」

「ふぅん」


 自分で聞いておいてなんだが、素っ気ない返事を返しておく。

 妹紅から文句が飛んでくるかとも思ったが、黙ったまま何も言ってこないので、先程手に取った紙に意識を向けた。


「『幻想郷縁起』ねぇ」


 サラサラと流し書きされた文字。これから纏める資料か何かだろうか、どちらにしろ、この紙はメモ用紙の様なものだろう。これからなにをどういうふうに纏めるかが、紙一面にびっしりと書かれていた。


「ん? 『要調査。魅王桃鬼、志妖』……なにしたんだ、あいつら」


 そんなことを呟きながら、あらかた紙に目を通した僕は、息を吐いて紙を置いた。

 そして何の気無しに隣にいる妹紅を見る、と、こちらを見ていたらしい妹紅とバッチリ目が合ってしまった。瞬間、沈黙。


「………………」

「………………?」

「………………」

「………………」

「…………あ、あのっ」

「うん?」

「……その、あの……」


 沈黙の末に声をかけてきたはいいが、結局尻窄みに小さくなっていく声と共に俯いていく妹紅。

 気になって感情を読んでみれば、そこにあったのは若干の羞恥だった。

 なにを恥ずかしがっているんだか。


「なに?」

「いえ……なんでも、ないです……」

「なんだそれ」


 結局言わないのか。よほどのことでなければ聞いてあげるんだけど。

 まぁいいか、と思いながら後ろに倒れ、ばたりと寝転がってみる。そしてふと思い付いた。


「妹紅」

「……はい?」

「ほら、おいで」


 伸ばした左腕を指差し、妹紅を手招き。さぁ、どんな反応をするのか。


「い、いや、しかし」

「何言ってんの。昔はよくこうしてたじゃん」

「でも、ここは慧音の家だし」

「慧音ならしばらく来ないって」

「うぅ……」


 僕の言葉に、次第にもじもじし始める妹紅。それを見てニヤニヤする僕。

 再度手招きしてやると、妹紅は目を泳がせながら、しかし遠慮がちに僕の腕に頭を乗せた。しきりに慧音がいる部屋の方を見る辺りがなんともいえない。


「あ……」

「うん?」

「ミコトさんの、匂い……」

「そりゃあ僕だしね」

「いや、そういう意味じゃ……」


 いいながら僕の腕に擦り寄る妹紅。

 昔からこの場所は妹紅の特等席だった。今でも、左腕の腕枕は妹紅にしかしたことがない。橙は懐にすっぽり収まってしまうし、藍は僕が埋もれる側(どこに、とはあえて語るまい)だし、紫は猫の僕を抱き抱えるように眠るし、桃鬼は寝相悪いし、幽香は僕が埋もれる側(あえて語るまい)だし……。


「…………結構寝てるもんだな」

「はい?」

「あぁいや、こっちの話」


 そうごまかしながら、僕は自分のことなのに苦笑してしまった。

 実は僕、独りだとなかなか寝付くことができないのだ。寝れないことは無いのだが、誰かを抱きしめていたり、抱きしめられていたりした方が心地好い眠りに落ちることができる。遥か昔は独りが当たり前の生活をしていたくせに、今となってはこの様である。

 果たしてこれは悲しむべきなのか、喜ぶべきなのか……。


「なんか、眠くなってきたな……」


 言いながら、僕は目を閉じた。

 ゆったりとした時間が過ぎていくのを感じつつ。

 隣にいる妹紅の呼吸を聞きながら、不意に現れた睡魔に身を委ねる。


「……ミコトさん。ミコトさん? あれ、本当に寝ちゃったんですか?」


 腕にあった重みが無くなり、そんな声が聞こえてきた。まだ起きているが、あえて反応はしないでおく。


「ミコトさん、……ミコトさ〜ん……?」


 その声はだんだんと小さくなっていき、本当は起こすつもりがないのではないかと思えてくる。いや、実際起こすつもりは無いのだろう。本当に起こしたいのなら身体を揺するなり腹に一撃入れるなり火で髪を炙るなりしているはずだ。実際に過去にやられたことがある。その日の修行は普段の五倍にしてやったが。

 そんな懐かしい思い出を振り返っていると、不意に顔面に圧迫感を感じた。同時に頬の辺りにサラリとした感触が現れる。これは……?


「寝てるん、だよな」


 そして、明らかに先程よりも近い場所から聴こえる妹紅の声。

 僕が眠っていると確信したのか、言葉遣いも変わっている。


「こ、これは……チャンス、なのか……」


 待て。ちょっと待て。何の話をしている。チャンスって何だ。


「よ、よし……」


 何かしら決意したような声と共に、僕の頬の辺りにおそらくだが、手をそえられる。これは、もしかしなくても。


「っ…………」


 なまじ静かなだけに、妹紅の喉が鳴る音が聞こえてしまった。唾を飲み込んだ生々しい音が耳に残り、思わずこちらまで息を呑んでしまう。

 どうする僕。ここは目を開くべきなのか。それともこのまま身を委ねるべきなのか。というか最近流され過ぎな気がする。ならば逆転の発想でこちらから、いや違う。どちらからとかいう問題ではない。問題はそこではない。いやしかし、このままでは確実に妹紅が僕の――。


「さて、一段落したし休憩を挟もうか。居間でお茶でも飲もう」

「ありがたくいただきます」

「っ!!」


 ――またしても奪われるのかと、変に覚悟したその瞬間に、そんな会話が聞こえてきていた。同時に、近くから聞こえるバタバタとした騒がしい音。


「さぁ、適当に座っていて……どうした妹紅、正座なんかして」

「い、いやぁアハハッ、何でもないぜ!? ほら、お茶くれよお茶!」

「……? 変な奴だな。ミコトは……なんだ、寝てしまったのか。仕方のない奴だ」


 二人の会話を聞きながら、妹紅ごまかすの下手だなぁとか考えていると、不意に僕の身体がふわりと浮いた。誰かに抱き抱えられたらしい。


「相変わらず軽いな。こんな身体でよくもまぁ……」

「あぁ、ミコトさんは猫の時と体重が変わらないらしいからな。私達よりも遥かに軽い」

「……それはそれで腹立たしいな」


 知らないところで理不尽な怒りを買いながら、僕はどこかへ運ばれていく。ちなみに今はお姫様抱っこの体勢である。女性にされると少し傷付くものがあるが、今更なので気にしない。


「さて……。新しい布団を出すのも少し面倒だな。私のでいいか」


 僕を優しく降ろした慧音は、そう言いながら畳んであった布団を広げはじめた。薄目を開いて見ている僕には全く気が付かずに、綺麗に布団を準備してくれている慧音。最早、本当は起きていました、なんて言えなくなってしまった。


「……よし、こんなものか。……しかし、本当に軽い。なんだか本当に腹立たしくなってきたな、コイツめ」


 ピン、と額を軽く弾かれる。僕は何も悪くないはずだが……。

 そうこうしているうちに僕の身体は布団の中へ。なんというか、こう……いい香りがする。


「初めて会った時は、逆の立場だったかな。私が寝ていて、お前が起きていて……。フフッ、案外コイツも、あの時の私の様に起きていたりして」


 ギクッ。


「……こんなに白い髪になって。愽霊の巫女から大体話は聞いていたが……。苦労は買ってでもしろとは言うが、お前は少し買い過ぎだ」


 ふわりと、頬を撫でられる。顔にかかっていた髪が耳に優しくかけられた。


「……やめろと言っても、どうせ意味はないんだろうが……けどな? お前が傷付くところなんて、私はあまり見たくはないんだぞ? ……聞いているのか、この寝ぼすけ」


 またしても額を弾かれる。しかし、不謹慎だが、悪い気はしない。心配してくれていることが、今はこんなにも嬉しいのだから。


「幸せそうな顔して……これくらいにしておくか。夢くらいは、幸せなものを見て欲しいし、な」


 その言葉を最後に、きぬ擦れの音がして。スー、カタン、と襖が閉まる音。

 僕はそこで目を開いて、自分の顔に手を当てる。


「そんな顔してたかなぁ……」


 思わず顔に出ていたのかもなぁ、と、未だにやける顔を手で隠しながら、僕は眠ることにした。たまには、昼寝も悪くない。










「いけないいけない、ちょっと寝過ぎちゃった。もう真っ暗だよ」


 どうせだからもう少し寝てよう、を何回も繰り返し、いざ起きてみれば外は真っ暗になっていた。

 慧音に怒られるかと思ったがそんなことはなく、それでも謝罪してから家を出たのだが……。


「藍、怒ってるかなぁ」


 そう。僕が心配しているのはそこである。

 そもそも家を出てきた理由が『オセロで惨敗したから』なんていうくだらないものである。そのくせこんな真夜中に帰ってくる僕に、藍はさぞご立腹であろう。晩御飯までに帰ってこい、なんてことも言われた気がする。


「いやでも、よくよく考えたら怒られる程のことでもないよなぁ……」


 人間の子供でもあるまいし、真夜中に帰ってきて怒られるような歳は一万と数千年前に通り過ぎてしまった。

 だがどうも、僕が封印から解放されてから、藍は過保護になってきている気がする。最初の頃なんて僕がマヨヒガから出ることすら渋っていたくらいなのだから。


「……けど、それも心配してくれているから、なんだよな。きっと」


 ……だんだん申し訳無くなってきた僕は、少しスピードを上げるのだった。






「ただいま〜」

「兄様、兄様! 大変です! 藍様が!」

「え、何? 藍がどうかしたの?」


 帰るや否や、橙がドタバタしながら僕に詰め寄ってきた。

 どうやら藍に何かが起きたらしいが、一体何が起きたのか。表面上は冷静を保っている僕だが、先程から藍のことを考えていたせいか心臓が跳ね上がるのを感じていた。

 鼓動を抑えつけながら、屈んで橙に視線を合わす。そして、橙の口から放たれた言葉は――。



「藍様が、部屋の隅っこから動こうとしないんです!!」



 ………………ん?










「この部屋の中で?」

「ハイ……。何を話しかけても、どんどん隅っこに寄っていくばかりで……」

「どれどれ……」


 すっかり心臓も落ち着いた僕は、橙が指差す部屋の襖をほんの少しだけ、ゆっくりと開ける。その部屋の隅っこ、確かに藍の姿があった。というか、隅に寄りすぎてこちらからは尻尾しか見えない。むしろ尻尾がいる。


「ちなみに、最初はどこらへんに?」

「真ん中です。ですが、時間が経つ度に隅っこに吸い寄せられるように移動していって……」


 なんだそれは、と頭を掻く。いや、おそらく僕のせいではあるのだろうが。


「で、紫? 藍は何か言ってた?」

「私だって知らないわよ。気が付いたらじっとオセロ板見つめてぶつぶつ言ってたのよ? さすがに近寄り難くて」

「オセロ? ……あぁ、なるほど」


 再度、少しだけ開かれた隙間から藍の姿を見る。そして、後ろにいる二人に目配せをしてから、僕は襖を開いて中に入っていった。

 びくりと震える藍。いや、尻尾。


「藍。何してんの」

「ミコトさん……」


 おそるおそる、といった感じでこちらを向く藍。構わず近付いて上から見下ろしてみると、藍と壁の隙間にはオセロ板があった。まだ見てたのかお前。


「あ、の」

「家出したと思った?」

「!!」


 一瞬驚いたかと思えば、彼女はゆっくりと頷いて、尻尾が力無く揺れはじめた。


「なかなか帰ってこないから、だんだん不安になったんだ。で、僕の言葉を思い出して」

「…………はい」

「バーカ」

「ふぇっ」


 もにっ、と藍の顔を両手で挟む。いきなりのことに驚いたのか、その瞳に貯まっていた涙が零れて僕の手を濡らした。


「家出なんかするわけないでしょ。そりゃあ確かに、あんなこと言った僕も悪いけど……帰りが遅いくらいでそこまで心配しなくとも」

「ですが……」

「ですが?」


 藍の顔から両手を離し、彼女の正面に腰を下ろす。藍の話を聞く為に。


「……怖いんです」

「怖い?」

「はい……。封印から解放されて帰ってこられた時、私は本当に嬉しかった。また貴方と一緒に暮らせるんだと思うと、嬉しくてしょうがなかったんです」

「なら……」

「ですが……いえ、だからこそ、私は、貴方が居ない生活には、もう二度と戻りたくない。貴方を失いたくない。目に見える場所にいてほしい。もし、私の見ていないところで何かあったりしたら。知らないところで消えてしまったりしたら……そんなことばかり、考えてしまう」


 藍の瞳からぽろぽろと零れ、落ちていく涙。

 それを見ると、胸から何かが込み上げてくるのを感じる。

 同時に、少し恥ずかしいと思った。藍の気持ちも知らずに、僕は彼女に心配をかけていたのだから。


「本当ならここから出ていくことも……いえ、私の傍からも離れてほしくはないんです。気が付けばどこかに行ってしまいそうな貴方を、出来ることなら私に縛り付けておきたい……」

「藍……」

「わかってます。そんなことは出来やしない。貴方を束縛する権利なんて、私にはありはしない……。けれど、ミコトさん……? ひとつだけ、私のわがままを聞いてくれませんか……?」

「…………何? 言ってごらん」


 なるべく優しい声色で、僕は言った。

 藍の腕が僕の首に絡み、ぎゅうっと、身体が寄せられる。

 耳元で発せられた藍の声は、か細く、震えていて。


「傍に、居させて下さい。せめて、貴方がここにいる間だけでも……。私は何も求めません。私だけを見てくれなんて、言いません。ただ、貴方の、傍に……」


 ――震える彼女の身体が、更に強く僕の身体を抱きすくめる。


 こんなにも、僕を求めてくれる人がいる。




 ――それは、すごく幸せで。









 ――ほんの少しだけ、悲しかった。


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