72:〔リターン・ザ・永遠亭〕
胃炎から復活。
「ん…………」
「あ、目が覚めましたか」
目を開き、かけられた声にしばらく反応出来ずにいると、頭上からピコッと白い耳が現れた。
なんだこれは、と無意識に手を伸ばす。
耳なのはわかるが、少し長すぎやしないか、これは。
「……兎の耳?」
「ふぁっ……ちょ、いきなり何を!」
「痛っ」
パシンと僕の手が叩かれ、思わず手を縮こめる。
叩かれた痛みで目が見開かれ、そこでようやく僕は今まで寝ていたことに気が付いた。
「おかしいな、僕は確か……、っ!」
「あぁっ、駄目ですよ。貴方の身体は、貴方が思っている以上にボロボロなんです。それに、まだ毒も残っているでしょうし……」
「毒?」
「毒です。神経毒」
「……またなんで」
そんなものが、と言いかけて口を閉じる。心当たりがあったから。
とりあえず身体を寝かし、首だけを動かして周りを見る。どうやら、ここは永遠亭の一室のようだ。
「気分はどうですか?」
「うん? ……あぁ、まぁ最悪かな」
「そうですか、最悪……え?」
「別に身体の具合が悪いわけじゃないよ。こっちの話」
ごろりと寝返りを打ち、枕に顔の半分を埋める。身体が痛むのはもはや気にしない。というか、どうでもいい。
それというのも、僕は、僕が幽香にしたことをハッキリと覚えてしまっているわけで。
あれだけ気にかけていたのに、結局はあんな結果になってしまった、してしまった自分に呆れてしまう。
「あの……なにかあったんですか?」
「…………」
「あ……すいません」
「いや……ただ、しばらく一人にしてくれたらありがたい。身体なら大丈夫だから」
「……ですが」
「お願い」
自分でも嫌になるぐらい小さな声しか出ない。
だが、兎の耳を頭から生やした彼女はスッと立ち上がり、音を立てずに襖を開けて部屋から出ていった。
が、出てすぐの場所で彼女は立ち止まっている。姿は見えないが、命を感じる僕にはわかる。
おそらく永琳に僕を見ているように言われたんだろう。少し悪いことをしたかもしれない。
だが、それでも。
「…………ふぅ」
僕にだって、一人になりたい時がある。
この際だ、三十分程落ち込んで、その後に復活しよう。
いつまでも落ち込んでいるわけにはいかないが、落ち込まずにいられるほど僕は強くないから。
「ミコト? 起きてる?」
「あぁ。起きてるよ」
あれから一時間程経っただろうか。
声の主は、僕の返事から少し遅れて部屋の中へと入ってきていた。
彼女の手には、幾つかの種類の薬が入った籠。もう片方の手には水が持たれている。
「気分はどう? 身体の方はまだしばらくかかると思うけれど」
「大丈夫。確かに身体は痛むけど……ま、慣れたものさ」
砕けた口調で言う僕。
……呆れた顔で見られた。
当然か。重傷に慣れる、なんて言う患者はそう多くあるまい。
永琳は盛大に溜め息をつくと、籠の中から幾つかの薬を取り出す。
僕はそれを水と共に受け取り、特に躊躇いもなく喉へ流し込んだ。粉薬特有の感触が口に残り、それを消すためにもう一度水を口に含む。
「っ……はぁ。何の薬?」
「飲んだ後に聞くかしら、普通」
「毒じゃないのはわかってるから」
「……解毒薬と鎮痛薬よ。少しすれば眠気が来るはずだから、無理しないで寝てなさい」
身体を起こしていた僕は永琳に肩を押され、ポスンと枕に頭を乗せた。
身体に力が入らないのはダメージか、それとも薬がもう効いてきたのか。神経毒がまだ残っているのも有り得る。
まぁ、どれが原因であれ考えても意味はないか。
「どうかした?」
考えながらも永琳の視線を感じていた僕は、何気ない風を装ってそう聞いた。
いつもは冷静な永琳がどことなくそわそわしているのは、多分気のせいではないだろう。
「聞いてもいいかしら。……貴方に、今何が起きているのか」
「…………」
やっぱりか。当然の疑問だ。
僕は首を動かして永琳に視線を向ける。特に動揺している様子も見られないので、ただ単に気になっているだけだろう。
けど、何が起きているかと聞かれても……。
「前にも言ったけど、僕も何がなんだかわからないんだ。ただ……」
「ただ?」
目をつぶり、あの瞬間を思い返す。
あれからどれ程の時間が経ったか知らないが、スムーズにあの瞬間が脳裏に蘇る。
幽香からの一撃をまともに喰らい、それでも彼女の感情を操ろうと能力を使おうとして――。
「うっ……」
「……ミコト? あまり無理は」
「いや、大丈夫」
心配してくれる永琳にそう返し、僕はさらに記憶を探っていく。
――そう、幽香の感情を操ろうと、彼女のそれを深く取り込んだ瞬間からだ。
そこから僕の身体……というか、『僕自身』に異変が起きた。
まずは強烈な不快感。
僕の意志を無視するかのように身体が動かなくなり、世界が回転を始め、
「……あれは、まるで」
無防備な状態で幽香の一撃を喰らう寸前に、世界はちょうど一回転してピタッと止まって。
「……糸」
眼前に迫った幽香の一撃。
それがまるで止まったように見える程の速さで、僕は彼女を殴り飛ばしていた。
「……切れちゃいけない何かの糸が、ぷっつり切れちゃったみたいだった」
目をつぶり、胸に手を当ててみる。
怒りが振り切れてしまったわけではない。
しかし、なにかが『切れて』しまった、という表現は正しいように思う。それ以外にうまい表現が見付からない、というのもあるが。
「糸、ね」
「うん。……というか永琳、なんであの場所に?」
「貴方のことが気になってね。ただそれだけ」
嘘だ。永琳が気になったという理由だけで僕を付けてくるはずが無い。
しかも弓矢という完全な武器まで持ってきていたのだから、僕の心配、というよりは僕が犯す行動の方が心配だったのかもしれない。
でなければ、あそこまで迷いなく弓は引かないだろう。
「あと、幽香は」
「あの花の妖怪ね。私が貴方を回収しようとしたら『私の家で休ませる』って言って聞かなかったわ」
「……記憶が戻ったのか」
「おそらくね。もっとも、あちらさんもボロボロで動けないみたいだったから無視して戻ってきたけれど」
永琳の言葉に、思わず少し笑ってしまう。
いくら記憶が戻ったとはいえ、寸前まで殺されかけていた相手を引き留めようとする幽香にもそうだが、それを平然と無視して帰る永琳も永琳だ。いや、平然としていたかどうかは知らないが、その場面を想像するとそんな永琳の姿が思い浮かぶのだからしょうがない。
「そっか……。でも、謝りに、いかないと……な……」
「そうね。でもその前に身体を治しなさい」
だんだんと眠くなってきた。
永琳が僕に布団をかけてくれる。心地好い重みが全身にかかり、さらに眠気が強くなる。
僕は永琳をちらりと見て、変わらない様子でいることを確認すると目を閉じた。
永琳はミコトが目を閉じた後も、しばらくその姿を見つめ続けていた。
やがて規則正しい呼吸音が静かな部屋に聞こえるようになり、彼女はふぅ、とひとつ息をつく。
そして、息を大きく吸い直し、手を伸ばして彼の髪に指を通した。その色は――灰色。
「あの時は、確かに……」
髪から手を離し、ぽつりと呟く。
永琳は確かに覚えている。
ミコトが風見幽香を、傍目に見れば殺しにかかっていた時は、確かに髪は黒く染まっていた。
着物がもとの髪の色と同じ灰色だっただけに、その変化は顕著だった。光を反射しないその黒は、触れたもの全てを黒く染めてしまいそうな程に……深かった。
不思議なことに、気を失ってしばらく立つと黒は毛先から引いていき、今はいつも通りの地味な灰色。
――一体、彼の身に何が起きているのか。
永琳は、表情を変えずに深く考え込んでいたのだった。
外がとんでもない吹雪。
開けた窓が吹っ飛ぶかと思った。
そんなどうでもいい余談。




