56:〔紫色の感情〕
少し遅れてしまいました……すいません。
「藍、貴方はどうするの?……彼のこと、忘れたいかしら」
「……紫様は」
「私は……忘れることはできないわね。責任の意味でも、理性的な意味でも。それに、いつか彼が帰ってきたとき、私が覚えていなかったら封印が解けないから」
「そうですか。……では、私の記憶も紫様が戻してください」
「……いいのね」
「そうでもしないと、仕事が手に付きそうにありませんから」
私の目の前で、無理矢理な笑顔で藍は言った。
出来上がった結界をしばらく眺め、私に向き直り目をつぶる藍。
私は、彼女の頭に手を翳し、藍の中にある彼の記憶を心の底に閉じ込める。
――もう、何度この作業を繰り返してきただろう。
ふらりと揺れる藍の身体を抱き留め、橙の横に寝かせる。
私は、屈んだ体勢から立ち上がり、彼の雰囲気がありありと感じられる結界を細い視界で見つめた。
「……本当に馬鹿。どうしてそうなのかしらね、貴方って」
もしかしたら何か答えが返ってくるのではないか。
ありえない希望は、当然ながら沈黙で消し飛んだ。
無意識に扇子を開き、見ている者など存在しないのに口元を隠す。
「ここよ」
「神社か……」
結界の基点となる博麗神社。
彼は、自分が死ぬその場所に到着し尚、いつも通りに振る舞っていた。
虚勢や空元気などではない。本当に、いつも通りに。
「すでに式化は済ましたから、後は結界を創り始めるだけよ」
「ねぇ、一つ聞きたいんだけど」
「何?」
「結界に僕を組み込むってことはさ、僕自身が結界になるってことだよね?」
私はその問いに、言葉は返さず頷くことで答えた。
ここで、私はてっきり後悔の言葉が聞けると思った。
『怖い』
その一言でいい。
それが聞ければ、私は彼が逃げ出そうと構わなかった。
彼の表情を見ようと、私の横に立つ彼の顔を横目で見る。
「……!」
私は信じられなかった。
「そっか……。僕が結界ね……」
彼は、笑っていた。
「つまりは、僕が幻想郷を守る礎になるんだろ?なら、僕の『命』も捨てたもんじゃ……っ!?」
「やめてっ!!」
瞬間、私は彼を突き飛ばし、倒れた彼の上には乗った。
彼の両肩を掴み、揺する。
今の今まで溜まっていた感情が、とうとう溢れてしまっていた。
「どうして、どうして貴方はそうなの!!前もそうだった。なんの躊躇いもなく私に力を分け与えて、結果貴方の力が数分の一に落ち込んでも貴方は気にもしない!人のことばかり考えて、そのくせ自分のことは何一つ考えないで!!」
「…………」
「どうしてそんなことができるの?どうして簡単に自分を捨てられるの!!……っ、正直に言いなさい。死にたくないでしょう?生きていたいでしょう?怖いんでしょう!?言いなさいよ!?言ってくれさえすれば、私は……!?」
いつしか流れていた涙。
それが彼の頬に落ちるのと、彼が私の口に指を当てたのは同時だった。
「……なんでよ」
指が口から離れ、呟いたのは私だった。
なんで、笑うの?笑っていられるの?
言葉にならない叫びが、うまく表に出せずに嗚咽となって私を苦しめる。
「怖くないよ。紫」
肩を揺さ振っていた私の腕には、すでに力は篭っていなかった。
彼はすんなりと起き上がり、私の身体を抱き寄せる。
「怖くない。だって、皆を守れるんだ。幻想郷を、幻想郷の皆を守ることができるんだから」
「っ、……死ぬ、のよ?」
「……ああ、死ぬ。けど、意味がある。『死ぬことに意味がある』んだ」
優しく、背中に回された腕が私を包む。
彼の身体は、震えてなんていなかった。
「僕はね、紫。僕が逃げることで、この幻想郷が危なくなることの方がよっぽど怖い。おかしくて、正しくないとしても、死ぬよりそっちの方がもっとずっと怖いんだ」
「……なんで」
「はは、聞いてばっかりだね、今日の紫。……言い方を変えようか。僕は、自分が何も出来ずに生きているのがなにより嫌いなんだ。生きて迷惑かけるくらいなら、死んで周りの負担を無くす。そんな考え方してるから」
「…………?」
腕の力が強くなる。
もしかして、今の言葉は。
「……何か、昔にあったのかしら」
「さあね、忘れたよ」
嘘だ。
証拠に、口調とは裏腹に私を抱く力がどんどん強くなっていく。
先程の、やけに具体的な言葉。
もしかしたら、昔にそんな状況に陥ったことがあるのかもしれない。
――生きていることで周りに負担をかけ。
――結果、彼は生より死を望んだ。
そんな、私には想像がつかない状況に。
彼は不意に私を抱き上げて地面に下ろし、立ち上がった。私も、立ち上がる。
「さて、気が変わらないうちに済ませてしまおうか」
私の中にある、彼を助け出したい感情が薄まっていた。
彼は自分の耳飾りを外し、私に手渡す。
これに彼を封印し、結界に組み込む。数秒前まで考えたくもなかったことが、今はすんなりと頭に浮かんだ。
彼の耳が、ピクピクと動いていた。
「じゃあ……いくわ」
―どうして。
「いつでも」
――どうして。
「……また、会える」
―――どうして。
「当然」
――――どうして。
「さよなら。我が主人よ」
カラァン!と、耳飾りが床に落ちる。
もう、そこに彼はいなかった。
「…………どうして……どうしてっ!!」
膝をつき、流れる涙を拭いもせずに。
「わあぁあああぁぁああああぁ……!!!!」
ただ、泣いた。
「う、ん……。あれ、私……」
「ようやく起きたのかしら?主人を置いて昼寝とは、良いご身分だこと」
「へ……?……はっ!す、すいません紫様っ!!ほら橙、起きろ!」
「うにゃ……」
「早くしなさい。大結界に反抗する妖怪どもをなんとかしに行くわよ」
「はい」
スキマを開き、予想通り沸いてきた小、中妖怪達の目の前に現れる。
私には、立ち止まっている暇などない。
今はただ、押し寄せる感情に負けないように――。
「――そんなに急いでどこに行くのかしら?」
――私は私のできることをしていこう。
上手く描けただろうか……。
そこはかとない不安が私を襲った。




