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私たちはオフライン(改訂版)

作者: ゆめかなえ
掲載日:2026/01/28


昨今、郵便料金が値上がった。SNSなどの活況もあって、手紙を出す人も減りつつある。

けれど、私たちはオフラインでしか繋がれない。


そこには理由があった。私たちは会ってはいけないと思っている。





第一章


岡本は、郵便局で働く職員だ。妻子もあり、仕事も今は順風満帆だ。過去に目を向ける暇もつもりもない。真面目で勤勉な岡本は、親友や同僚からの信頼も厚い。何も不自由はしていない。そう、今は。


年末年始休みは、他の職業人よりは少ない。それでも、担当業務が窓口であるため、郵便局員のなかでは休めるほうだ。

今年の正月休みも、妻と近くのスーパーで買い出しをし、娘の勉強を見ていた。


岡本の楽しみは、ラーメン屋巡り。近頃、職場の健康診断で中性脂肪を減らすよう指摘され、走ることを始めた。


「お父さん、がんばって!」


娘の佐奈が、自転車に乗りながら熱心に応援する。


「がんばれー」


佐奈は年頃の女の子だが、岡本を避けることはない。思春期の子を持つ周囲からすれば、羨ましがられるほどのお父さん子だった。


川沿いのまっすぐ続く土手を、2.5キロほどゆっくり走って、岡本は立ち止まった。息が苦しい。


フルマラソンの道は遠いな。

岡本は、いつからか、なんとなくフルマラソンを目指すようになっていた。


「休憩……!」


息をするのがやっとのなか、勢いが止まらなそうな佐奈を呼び止める。


「もう終わり?」

呆れたような口調で言われ、終わりだとも言えなかった。


「目指せフルマラソンでしょ?」

「いつかは……」


なんとなくではあったが、フルマラソンを目指すきっかけは、琴子からの年賀状だった。


「琴子」

岡本は、琴子との関係を適切な言葉で説明できる自信がない。


友達ではない。仲間と呼べるのかも分からない。

ただ、不思議と琴子とは共通点が多いのだ。


「お父さん、どうしたの?」


回想など滅多にしない岡本が黙り込んだのを、佐奈が訝しんだ。


「今度、大学の頃の友達と鹿児島マラソンを走る。8キロだけどな」


「知ってるよ。お母さん言ってた」


「情報早いな」


「今日応援に来たのも、佐奈、友達とカラオケ行きたいからなの」


今年受験生の佐奈だが、すでに推薦で第一志望校に合格している。止める理由もなかった。


「まだ気を抜くなよ。周りには進路が決まってない子もいるんだから」


「オッケー!」


佐奈は軽々とペダルをこぎ、岡本を先導し始める。


「来た道そのまま帰ると、5キロになるよ!お父さん」

「言いたいことは分かった。がんばれってことだな」

「ピンポーン!」


佐奈は大きく手で丸を作り、スピードを上げた。


岡本は、いまだに佐奈の名前入りの年賀状を出し、写真も選んでいたが、そろそろ辞め時かもしれないと、娘の成長を実感していた。




第二章


琴子は、冬の寒さを忘れるほど、体も心もほんのり温かかった。

小走りでポストに向かい、年賀状を投函したせいかもしれない。


琴子が年賀状を書く相手は、決まって三人だ。


岡本から届く年賀状の写真は、飼い猫から娘へと変わったが、文面はほとんど変わらない。


「お元気ですか」

「仕事もおかげさまで続いております」

「お互いマラソンがんばりましょう」


何気ない言葉だが、琴子は嬉しかった。


琴子もまた、岡本との関係を何と表現すればいいのか分からない。

「同志」か、「共通点の多い仲間」だろうか。


郵便局で短期バイトをしたこと。猫を飼い始めた時期。病気と向き合っていること。

そこに「マラソン」が加わった。


数人でファミレスに行き、カラオケをしたことはあるが、物静かな二人はあまり会話を交わした記憶がない。


それでも岡本には、お茶目な一面があった。

カラオケで『クレヨンしんちゃん』の主題歌を歌ったり、ベイスターズが負けると少し拗ねたり。


そして岡本には門限があった。

保育園へ佐奈を迎えに行くのは、決まって岡本の役割だった。


琴子は、毎年届く佐奈の写真を見て、会ったこともないのに大きくなったものだと感心していた。


元旦。

琴子は何度もポストを開けた。

十時、十一時、正午――。


今年は、岡本からの年賀状は届かなかった。



琴子は、少しだけストーブの前で立ち尽くした。

胸の奥が、ほんのわずかに冷える。

そのとき、ふと、石口さんの声を思い出した。

デイケアの帰り、廊下の窓際で靴ひもを結びながら言われた言葉だった。

「大会がなくても走るのよ」

「続けることが、いつか力になるから」

そのときは、深く考えなかった。

ただ、うなずいただけだった。

けれど今、その言葉が、静かに胸の中に落ちてきた。

走ることは、誰かと比べるためでも、

誰かに見せるためでもない。

「私は、私のペースでいい」

琴子はそう思い、もう一度、ポストを見た。



石口さんと、永井さんからの年賀状は届いていた。


石口さんは、精神科デイケアで働く作業療法士だ。


「琴子さん、マラソンすごいです」

「お便り、いつも励みになります」


琴子が走り続ける理由のひとつは、石口さんの言葉だった。


「大会がなくても走るのよ」

「続けることが、いつか力になるから」


だが年賀状の末尾に、こう書かれていた。

「今年で年始のご挨拶を失礼させていただきます」


ショックだった。

石口さんの連絡先は知らない。

今の職場を離れたら、もう繋がれない。


「便りのないのが、元気の証よ」

母の言葉が、少しだけ救いだった。


永井さんの年賀状には、

「一人暮らし五年目、仕事も六年目。お互いがんばろうね」

とあった。



すごいなぁ。永井さん。仕事六年目かぁ。

きっと、器用に物事をこなすから、仕事もできそうだし、人間関係の方もうまく築きながらも、交わす力もあるしなぁ。



琴子が、関心していると、スマホのLINEが鳴った。




そこへ、親友・七海からLINEが届く。

便利で、温かい。でも、琴子は思う。


――温もりは、オフラインにこそ宿るのかもしれない。




第三章


岡本からの年賀状は、三日に届いた。


「大会に参加して完走するのは、すごいですね」


琴子は、岡本が走っていることをSNSで知っている。

フォローもしないし、閲覧したことも秘密だ。




「私たちはオフライン」


そう、そのほうがお互いの今ある人生ためによいのだ。琴子は、岡本や、石口さん、もちろん永井さんのメアドも、LINEも知らない。



エピローグ


冬が終わり、春の始め頃、琴子のもとに立て続けに葉書が3通届いた。


1通目は、岡本から。「この前、鹿児島マラソン走ってきましたよ。琴子さんのように、いつかフルマラソン走ってみたいです」


岡本からの葉書は、年賀状以外初めてだったので、琴子はいささか驚きを隠せなかった。


2通目は、永井さんから。

「私たち婚約しました」

幸せそうな永井さんの笑顔と、隣に映るのは、なかなか優しそうな男性だった。琴子は、思わず目を細めた。嬉しく思った。


3通目は、石口さんから。

「私たちメンタルヘルスデイケアは、7階から、2階へ移動しました。みんな外の景色が見えなくなって残念!と言っています」



琴子は、葉書を選びに書店へと向かう。それは、オフラインならではの楽しみであった。


終章 


琴子は、まだ朝の冷えが残る時間に家を出た。


冬用の手袋はもう必要ない。代わりに、薄手のウインドブレーカーを羽織る。

ポストへ向かう足取りではない。

今日は、走る日だ。


川沿いの道は、ところどころに菜の花が咲き始めていた。

冬のあいだ、ただ灰色だった景色が、少しずつ色を取り戻している。

「大会がなくても走るのよ」

石口さんの声が、風に混じって思い出される。

琴子は時計を見ず、距離も気にせず、一定の呼吸だけを意識して走った。

走ることは、前へ進むこととは限らない。

ただ、止まらないこと。

それだけでいい日もある。


その頃、岡本は食卓で一枚の葉書を前にしていた。日曜日の朝は、時間がゆっくり流れる。

書きかけのまま、ペンが止まっている。

佐奈はすでに部活で家を出て、妻は洗濯物を干している。

いつもの朝だ。

 

「近況を書くだけでいい」

そう思うのに、いざ書こうとすると、言葉は慎重になる。

岡本は、琴子の生活に踏み込みすぎないよう、何度も文面を考え直した。

「こちらは変わりありません」 それだけで、十分だろうか。

鹿児島マラソンの写真を入れるのはやめた。

代わりに、コース沿いで見た菜の花の写真を小さく印刷して添えた。

「走りながら、春を感じました」

それ以上は書かない。

近況報告は、必要最小限でいい。

岡本はペンを置き、深く息を吐いた。


琴子が走り終え、ストレッチをしていると、スマホが震えた。

七海からのメッセージだ。

「今度ごはん行こうよ」


すぐに返事はしなかった。

悪いわけではない。ただ、今はこの余韻を保っていたかった。

家に戻る途中、琴子は書店に立ち寄った。

葉書売り場は、春らしい色合いに変わっている。

一枚、淡い緑の葉書を手に取る。

そこに描かれた小さなランナーのイラストが、少し不格好で、可愛らしかった。

「これにしよう」

宛名を書くのは、夜にしよう。

走ったあとの、この静かな疲れを、そのまま文字に移したかった。

数日後、琴子のポストに、新しい葉書が届く。


岡本からだった。

菜の花の写真と、短い一文。

余白が多く、慎ましい葉書。

琴子は、しばらくそれを手に持ったまま、立ち尽くしていた。

「春を感じました」

その言葉が、胸の奥で静かに広がる。

琴子は机に向かい、選んだ葉書を取り出す。

ペンを持ち、ゆっくりと書き始めた。

「こちらも、変わりありません」 「今日も、走りました」

それだけで、十分だった。

私たちは、オフライン。


けれど確かに、同じ季節を走っている。

琴子は葉書を書き終えると、そっと息を整えた。

走り終えた後と、よく似た感覚だった。


また、この春から、琴子は大きな一歩を踏み出そうとも決意していた。

「働きたい」


兼ねてから思っていたが、コロナ禍ともあって、琴子の願いが叶うのが少し遅くなってしまったが、琴子は作業所に通所する決意をした。


琴子は、「居場所も仲間もホッとできる空間を目指して」と、ホームページに書かれている「えがおになりたくて」という作業所を偶然みつけた。




「琴子さん、大きな一歩を踏み出しましたね!コロナ禍でも歩むすごいことです。地道にコツコツとマラソンに挑戦してきた姿は琴子さんそのものです。そして次のステップへその場所に琴子さんがいると姿勢が場に生きます。明るさとも生きます。場で生き生きすると自分もさらに生きます。応援しています」


石口さんから、力強い葉書が琴子のもとへ届いた。


手紙の下部には、初めて、石口さんの自宅の住所が記されていた。

 

「私は、今幸せです」琴子はそうペンを走らせた。新天地でも走りだせる気がしていた。


番外編

 

琴子が、「えがおになりたくて」に通所し始めて、半年が経とうとしていた。


環境にも慣れた。仲間もできた。ここでも暗黙の了解で、オフラインだ。互いに連絡先を知らなくても、「えがおになりたくて」に行けば、仲間に会える。


石口さんと過ごしたデイケアが7階にあったせいか、デイケアに通っていた頃は、7階から見える景色を窓からみていた。手を伸ばせば、何かを掴める感じがした。「えがおになりたくて」は、こぢんまりとした住宅街の一角にある。地に足をつけて、琴子は歩き出せる気がしていた。パン工房から、香ばしいパンの香りがする。琴子の仕事というか、主な作業は、パンの成形、洗い物、その他洗い物だ。


「琴子さん、食パン成形してみる?」パン担当で、職人の相田さんが、琴子に声をかけた。相田さんは、一言でいえば、あんぱんマンに出てくるジャムおじさんのような風格で、おおらかだ。

「はい!」

琴子は、内心では、戸惑っていたが、新しく任されることの嬉しさが大きかった。

隣のベテランのボランティアさんが見てくれた。


「めん棒の先の部分だけを使うと角が出るから」


琴子は言われた通りにするのだか、なかなか同じようにならない。

生地がにめん棒にはりついて、なかなか伸ばせない。

粉をつけて、もう1回やってみる。

それでも、琴子からすれば、少しずつできることが増えてきた。悠長なことは言っていられないけれど、工房は、いつもバタバタだけれど、とても温かい。

もうひとつ琴子の役割は、コーヒーを淹れることだった。

「週末に琴子さんの淹れたコーヒーを飲めないのは…入れ歯を忘れた相田さんのようだ」相田さんが、いつものようにふざけると、仲間である、しっかりものの真奈美が、「あっ!ふざけるともう相田さんにはコーヒー淹れてあげなーい」

と、お決まりの文句が飛び交う。


「琴子さんは、優しいから、コーヒー淹れてくれるよね?」

「私ですか?」

琴子は、苦笑しながら、小さく首を横にかしげる。


「こらーっ琴子さんを困らしちゃダメでしょ」

ベテランボランティアさんが、助け舟を出す。


お決まりのパターンだが、琴子は安心できた。


ずっと探していたパズルのひとピースがはまった感覚が琴子にはあった。


「ところで琴子さん、今度はマラソンどこ走るの?」

「かすみがうらです」

「泊まり?」

「はい!」

「せっかくだから、温泉に入ってくるといいよ」

相田さんは、誰よりも手を動かしながら、口も動かす。

ここでも、琴子の「マラソン」は、人との繋がりを橋渡ししてくれているんだなと琴子は改めて実感していた。


家に帰ると必ずポストをのぞくのが、琴子のお決まりの日課だ。


「あっ!来てる」


葉書は岡本からだった。



琴子さん。

少しお久しぶりです。


三連休もあっという間ですね。

三連休で一度は20kmを走りたいと思っておりましたが、中日に予定を入れてしまい、今日も用事があり、大した距離を走れませんでした。来週は20kmを走れると良いのですが。。

琴子さんは忙しそうですが、26kmとは、素晴らしいですね。私もがんばりたいと思います。

完走目標で、この大会を楽しみたいと思います。

お互いに無理のない範囲でがんばりましょう。


岡本は、鹿児島マラソンの8.9キロを完走してから、今度はハーフマラソンを目指していた。


琴子は、いつの日か、同じ大会で走っている岡本の姿を思い浮かべていた。


伝えるべきか?いつか同じ大会で走りたい!と。


琴子は、もし、連絡が途絶えたときはそれまでだったのだと思い、意を決して、短く返信を書いた。


岡本さん。

この前は、葉書をありがとうございます。

いつか、同じ大会で走れるといいなと思っております。

お互い、練習がんばりましょう!

そして、何より大会楽しみましょう!


返事はすぐに書いたものの、琴子は葉書をひきだしにしまった。


引きだしにしまった葉書は、三日間、そのままだった。

出さなかった理由は、はっきりしているようで、はっきりしない。 書いた言葉を後悔したわけではない。 けれど、ポストに入れるには、少しだけ勇気が足りなかった。

「同じ大会で走れたら」

その一文が、琴子の中で何度も反芻された。 期待しすぎてはいけない。 でも、なかったことにもしたくない。

四日目の朝。 琴子は、いつもより少し早く目が覚めた。 カーテンの隙間から、やわらかい光が差し込んでいる。 走るには、ちょうどいい気温だ。

琴子は、軽くストレッチをして、家を出た。 今日は距離を決めない。 タイムも見ない。 ただ、呼吸だけを数えながら、川沿いを走った。

途中、同じ道を走る年配の男性と、すれ違いざまに軽く会釈を交わす。 それだけで、少し気持ちが整う。

「走るって、こういうことだったな」

大会でも、記録でもなく。 誰かと比べることでもない。 今日の自分が、今日の自分の足で進むこと。

走り終える頃には、胸の奥にあった迷いは、汗と一緒に少し流れていた。

家に戻り、シャワーを浴び、髪を乾かす。 机の引きだしを開ける。

葉書は、そこにあった。

琴子は、深く考えるのをやめた。 ペンで書いた言葉は、書いた時点で、もう嘘ではない。 今の自分が、そう思った。 それで十分だ。

上着を羽織り、ポストへ向かう。 カタン、と軽い音がして、葉書は投函された。

「行ってきます」

誰に言うでもなく、そう呟いた。


数日後。 岡本は、帰宅後、ポストを開けて、少し驚いた。

琴子からの葉書だった。

短い文面だった。 控えめで、丁寧で、けれど、確かに一歩踏み出している。

「いつか、同じ大会で走れるといいですね」

岡本は、しばらくその一文を眺めていた。 胸の奥が、じんわりと温かくなる。

すぐに返事は書かなかった。 急ぐ必要はない。 オフラインには、待つ時間も含まれている。

その夜、ランニングシューズを玄関にそろえながら、岡本は思った。

――無理をしなくていい。 ――でも、やめなくていい。

いつか同じスタートラインに立つかもしれない。 立たないかもしれない。 それでも、それぞれが、それぞれの場所で走っている。

それでいい。

岡本は、翌朝用のウェアを準備し、静かに明かりを消した。


翌週。 琴子は、「えがおになりたくて」で、相田さんに声をかけられた。

「琴子さん、最近なんか、変わったね」

「え?」

「前より、地面をしっかり踏んでる感じがする」

琴子は、少し考えてから、微笑んだ。

「たぶん……続けてるから、だと思います」

相田さんは、満足そうにうなずいた。

「それがいちばんだよ」

琴子は、パンの生地を両手で包みながら思った。 走ることも。 働くことも。 手紙を書くことも。

全部、同じなのかもしれない。

一歩ずつ。 オフラインで。 確かに、生きている感触を確かめながら。


大会当日。

琴子は、いつもより早く目が覚めた。

窓を開けると、空は薄く曇っている。

走るには、悪くない天気だった。

今日は大会だが、気持ちは不思議と静かだった。

ゼッケンを留めながら、琴子は思う。

「誰かと比べる日じゃない」

スタート地点には、たくさんの人がいた。

緊張した顔。楽しそうな顔。

その中に、見覚えのある後ろ姿があるかもしれない、と思ったが、探さなかった。

探さない、という選択をした。

号砲が鳴り、しばらく人が滞留しているため、琴子はのんびり走り出す。

いつも通りの呼吸。

いつもより少しだけ、背筋が伸びている。

――同じ大会で走れたら。

あの言葉は、約束ではない。

願いでも、期待でもない。

ただの、方向だった。

コース脇に、菜の花が揺れていた。

それを見た瞬間、琴子は少し笑った。

「走ってるな」

誰に向けた言葉でもない。

その頃、岡本は、少し離れた町の川沿いを走っていた。

大会には出なかった。

仕事の都合もあったし、家のこともあった。

無理をしない、と決めたからだ。

川沿いの道は、いつもの道。

特別な応援も、給水所もない。

けれど、今日はなぜか足取りが軽い。

ポケットの中には、一枚の葉書が入っていた。

大会前日に届いた、琴子からのものだ。

「今日は走ります。

同じ空の下ですね」

それだけだった。

岡本は立ち止まり、川面を見た。

風が吹き、光が揺れる。

「同じ空、か」

それで十分だと思った。



琴子の記録は、自己ベストではなかった。

けれど、不満はなかった。


夜、家に戻ると、すぐに引き出しを開けた。

そこには、まだ使っていない葉書が一枚あった。

走った距離も、順位も、詳しくは書かない。

いつも通りでいい。

「今日は、走りました」

「変わりありません」

それだけを書いて、ペンを置く。

数日後。

岡本は、ポストに届いた葉書を手に取った。

短い文面。

余白の多い葉書。

岡本は、すぐには返事を書かなかった。

急ぐ必要はない。

同じペースである必要もない。

ランニングシューズを手に取り、玄関に置く。

今日は、少しだけ走ろうと思った。

同じ道ではない。

同じ時間でもない。

同じ大会でもない。

それでも、それぞれが、それぞれの場所で走っている。

私たちは、オフライン。

けれど確かに、

同じ季節の中にいる。














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