【番外編】命名セオドア
産声が響いた瞬間、胸の奥が震えた。
――生まれた。
頭では理解していても、腕に抱くまでは実感など湧かないと思っていた。だがその声を耳にしたとたん、全身が熱に包まれる。こんなにも小さな命が、確かにここに在るのだ。
やがて産婆がそっと僕の方へその子を差し出した。
息を呑み、恐る恐る腕を差し伸べる。
産着に包まれた身体が、胸の中へと預けられる。
軽い。驚くほどに軽い。こんなに頼りなく、壊れそうで、どうやって守ればいいのかわからなくなるほど小さいのに――掌に伝わる温もりは、確かに僕を揺さぶった。
「……小さいな」
ようやく絞り出した言葉は、情けないほど震えていた。
僕の声に応えるように、赤子は一度だけ小さく泣いた。だがすぐに静まり、碧の瞳を開いて僕を見上げてくる。
その色に、思わず息を呑んだ。
「……エレノアにそっくりだ」
つぶやかずにはいられなかった。まっすぐで澄んだ色――彼女と同じ碧が、そこに確かに宿っている。
さらに、額にかかる柔らかな髪は淡い金色に輝いていた。
光を受けるたびに揺れるその色は、紛れもなく僕と同じ金だった。
「髪は……僕か」
その事実が、胸の奥に熱を灯す。
僕とエレノア、二人の面影が重なって、この子はここに生まれた。
――未来そのものが、いま腕の中にある。
思わず強く抱きしめそうになり、慌てて力を抜いた。
壊してしまいそうで怖い。
守りたいのに、抱き方ひとつさえ覚束ない。そんな自分が滑稽で、けれどどうしようもなく胸がいっぱいになる。
「ふふ……わたくしも最初は驚きましたわ」
ベッドに横たわるエレノアが、汗に濡れた顔で微笑んだ。
「こんなに小さいのに、もう生きようと必死なのですもの」
僕は胸が詰まり、彼女を見つめた。
「……ありがとう、エレノア。君が頑張ってくれたおかげで、この子がここにいる」
その言葉に、エレノアはわずかに目を潤ませ、けれど誇らしげに笑った。
――生きようとしている。
この小さな身体で、必死に息をしている。
僕は赤子の胸の上下を見つめた。かすかな呼吸。それだけで十分すぎるほどに尊く思えた。
「……すごいな。こんな小さな身体で……必死に……」
声が震え、言葉にならない。
額が触れるほど近くでその顔を見つめる。
小さな鼻、小さな唇。ひとつひとつが奇跡の結晶のように見えて、胸が痛む。
「君は……僕とエレノアの子なんだな」
囁くように口にすると、視界が滲んだ。
僕はずっと、強くなければならないと信じてきた。誰にも弱さを見せず、隙を見せず、常に冷静であろうと努めてきた。
だが、今。
腕の中の命を前にすると、そんなものはすべて意味を失う。
ただ、この子を守りたい。それだけが心の奥底から溢れ出して止まらなかった。
赤子は小さくあくびをして、再び瞼を閉じる。
その仕草があまりに無防備で、思わず微笑んでしまう。
「安心して眠れ。僕がいる」
誰に聞かせるでもなく、自然に口からこぼれた。
エレノアがそっと僕を見上げる。
「リチャード……」
彼女の瞳には安堵の色が浮かんでいた。
それを見ただけで胸が熱くなる。彼女を守ると誓ったはずなのに、今は彼女から支えられている気がした。
「エレノア……僕は、この子を絶対に守る。どんなことがあっても」
言葉にした瞬間、胸に宿った決意はより鮮明になる。
この子は僕の血と、エレノアの血を受け継いでいる。
だからこそ、僕が命をかけてでも守らなければならない。
小さな手がぴくりと動いた。僕の指にかすかに触れる。
まだ握る力さえないその仕草に、心が大きく揺さぶられた。
「……君は、本当に小さいな」
繰り返しながら、胸の奥に熱いものが込み上げる。
今はただ、目の前の命を守りたい――その想いだけで、心は満たされていた。
赤子を抱いていると、不思議なことに時の流れを忘れる。
規則正しい呼吸に合わせて胸が上下する。その姿を見るだけで心が安らぐ――
だが同時に、その安らぎの奥では別の感情が静かにざわめいていた。
守りたい――その想いは尽きることがない。
けれど胸の奥では、未来から来た“あの少年”の姿が、どうしても重なってしまうのだ。
「名前は……セオドアにしよう」
気づけば、声になっていた。
その名を口にした瞬間、胸の奥に重みが宿る。
逃げられない責任、そして未来への誓い。それらすべてを一緒に抱え込んだような感覚だった。
エレノアが驚いたように目を瞬かせる。
「まあ……どうして、そのお名前に?」
僕は小さく息を吐き、視線を伏せた。
腕の中の子を見下ろすと、かすかに指が動いた。
頼りない仕草の中に確かな生命の力が宿っていて、思わず胸が熱くなる。
――未来から来たセオドア。
彼もまた、必死に僕へと言葉を投げかけていた。
『父上』と呼び、真っ直ぐな瞳で訴えてくる。
その声は震えていながらも、誠実さと決意に満ちていた。
あのとき僕は、嫉妬と戸惑いに揺れていた。
だが最後には、認めざるを得なかった。
――あれは確かに、僕の息子だったのだ。
腕の中の赤子と、未来で出会った少年が重なっていく。
弱々しい呼吸。小さな手。
いまは守られるしかない存在。
けれどいつの日か、この子は自分の足で立ち、未来を担う者になる。
「……誠実な人間になる。そんな願いを込めてだ」
エレノアの問いにそう答える。
本当の理由――未来から来た少年のことは、口にしない。
けれど僕だけは知っている。この子は未来で確かに“セオドア”として生きていたことを。
エレノアはしばらく考えたようだったが、やがてやわらかな笑みを浮かべた。
「ええ……素敵なお名前ですわね」
その笑みを見た瞬間、胸の奥がじんわりと温かくなる。
未来への不安も、過去の嫉妬も、すべて溶かしてしまうほどに。
「セオドア……僕とエレノアの子だ。これから先、どんなことがあっても――」
そのとき、小さな指が僕の指をぎゅっと握り返した。
あまりに頼りない力なのに、胸の奥を強く打つ。
「……っ」
声にならない声が漏れた。涙が滲み、視界がぼやける。
未来から来たセオドアの姿が鮮やかによみがえる。
彼は父を求め、母を守り、自らの役目を果たそうと懸命だった。
その手は、確かに未来で大きく育ち、誰かを支える力を持っていた。
今握り返した小さな手は、その未来への始まりなのだ。
エレノアが僕を見上げ、そっと囁いた。
「わたくしたちの未来は、もうここにありますのね」
「ああ」
僕は強くうなずいた。
「だからこそ、絶対に守る。エレノアも、セオドアも……僕のすべてだ」
言葉にすることで、胸の奥にあった決意は揺るぎないものとなった。
守るだけではない。
やがてこの子は、未来を背負い、自らの役目を果たす存在になるだろう。
その日まで――僕が全力で守り抜く。
視線を落とすと、セオドアはすやすやと眠っていた。
無防備な寝顔を見つめながら、僕は未来を思い描く。
いつかこの子は、未来のセオドアのように成長し、誠実で真っ直ぐに生きていくだろう。
その姿をすでに見てしまったからこそ、僕は信じられる。
――この子こそが、僕たちの未来だ。




