表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/4

【番外編】命名セオドア



 産声が響いた瞬間、胸の奥が震えた。


 ――生まれた。


 頭では理解していても、腕に抱くまでは実感など湧かないと思っていた。だがその声を耳にしたとたん、全身が熱に包まれる。こんなにも小さな命が、確かにここに在るのだ。


 やがて産婆がそっと僕の方へその子を差し出した。

 息を呑み、恐る恐る腕を差し伸べる。

 産着に包まれた身体が、胸の中へと預けられる。


 軽い。驚くほどに軽い。こんなに頼りなく、壊れそうで、どうやって守ればいいのかわからなくなるほど小さいのに――掌に伝わる温もりは、確かに僕を揺さぶった。


「……小さいな」


 ようやく絞り出した言葉は、情けないほど震えていた。

 僕の声に応えるように、赤子は一度だけ小さく泣いた。だがすぐに静まり、碧の瞳を開いて僕を見上げてくる。

 その色に、思わず息を呑んだ。


「……エレノアにそっくりだ」


 つぶやかずにはいられなかった。まっすぐで澄んだ色――彼女と同じ碧が、そこに確かに宿っている。

 さらに、額にかかる柔らかな髪は淡い金色に輝いていた。

 光を受けるたびに揺れるその色は、紛れもなく僕と同じ金だった。


「髪は……僕か」


 その事実が、胸の奥に熱を灯す。

 僕とエレノア、二人の面影が重なって、この子はここに生まれた。


 ――未来そのものが、いま腕の中にある。


 思わず強く抱きしめそうになり、慌てて力を抜いた。

 壊してしまいそうで怖い。

 守りたいのに、抱き方ひとつさえ覚束ない。そんな自分が滑稽で、けれどどうしようもなく胸がいっぱいになる。


「ふふ……わたくしも最初は驚きましたわ」


 ベッドに横たわるエレノアが、汗に濡れた顔で微笑んだ。


「こんなに小さいのに、もう生きようと必死なのですもの」


 僕は胸が詰まり、彼女を見つめた。


「……ありがとう、エレノア。君が頑張ってくれたおかげで、この子がここにいる」


 その言葉に、エレノアはわずかに目を潤ませ、けれど誇らしげに笑った。


 ――生きようとしている。


 この小さな身体で、必死に息をしている。

 僕は赤子の胸の上下を見つめた。かすかな呼吸。それだけで十分すぎるほどに尊く思えた。


「……すごいな。こんな小さな身体で……必死に……」


 声が震え、言葉にならない。

 額が触れるほど近くでその顔を見つめる。

 小さな鼻、小さな唇。ひとつひとつが奇跡の結晶のように見えて、胸が痛む。


「君は……僕とエレノアの子なんだな」


 囁くように口にすると、視界が滲んだ。

 僕はずっと、強くなければならないと信じてきた。誰にも弱さを見せず、隙を見せず、常に冷静であろうと努めてきた。


 だが、今。

 腕の中の命を前にすると、そんなものはすべて意味を失う。

 ただ、この子を守りたい。それだけが心の奥底から溢れ出して止まらなかった。

 赤子は小さくあくびをして、再び瞼を閉じる。

 その仕草があまりに無防備で、思わず微笑んでしまう。


「安心して眠れ。僕がいる」


 誰に聞かせるでもなく、自然に口からこぼれた。

 エレノアがそっと僕を見上げる。


「リチャード……」


 彼女の瞳には安堵の色が浮かんでいた。

 それを見ただけで胸が熱くなる。彼女を守ると誓ったはずなのに、今は彼女から支えられている気がした。


「エレノア……僕は、この子を絶対に守る。どんなことがあっても」


 言葉にした瞬間、胸に宿った決意はより鮮明になる。

 この子は僕の血と、エレノアの血を受け継いでいる。

 だからこそ、僕が命をかけてでも守らなければならない。


 小さな手がぴくりと動いた。僕の指にかすかに触れる。

 まだ握る力さえないその仕草に、心が大きく揺さぶられた。


「……君は、本当に小さいな」


 繰り返しながら、胸の奥に熱いものが込み上げる。

 今はただ、目の前の命を守りたい――その想いだけで、心は満たされていた。


 赤子を抱いていると、不思議なことに時の流れを忘れる。

 規則正しい呼吸に合わせて胸が上下する。その姿を見るだけで心が安らぐ――

 だが同時に、その安らぎの奥では別の感情が静かにざわめいていた。


 守りたい――その想いは尽きることがない。

 けれど胸の奥では、未来から来た“あの少年”の姿が、どうしても重なってしまうのだ。


「名前は……セオドアにしよう」


 気づけば、声になっていた。

 その名を口にした瞬間、胸の奥に重みが宿る。

 逃げられない責任、そして未来への誓い。それらすべてを一緒に抱え込んだような感覚だった。

 エレノアが驚いたように目を瞬かせる。


「まあ……どうして、そのお名前に?」


 僕は小さく息を吐き、視線を伏せた。

 腕の中の子を見下ろすと、かすかに指が動いた。

 頼りない仕草の中に確かな生命の力が宿っていて、思わず胸が熱くなる。


 ――未来から来たセオドア。

 彼もまた、必死に僕へと言葉を投げかけていた。

『父上』と呼び、真っ直ぐな瞳で訴えてくる。

 その声は震えていながらも、誠実さと決意に満ちていた。

 あのとき僕は、嫉妬と戸惑いに揺れていた。

 だが最後には、認めざるを得なかった。

 ――あれは確かに、僕の息子だったのだ。


 腕の中の赤子と、未来で出会った少年が重なっていく。

 弱々しい呼吸。小さな手。

 いまは守られるしかない存在。

 けれどいつの日か、この子は自分の足で立ち、未来を担う者になる。


「……誠実な人間になる。そんな願いを込めてだ」


 エレノアの問いにそう答える。

 本当の理由――未来から来た少年のことは、口にしない。

 けれど僕だけは知っている。この子は未来で確かに“セオドア”として生きていたことを。

 エレノアはしばらく考えたようだったが、やがてやわらかな笑みを浮かべた。


「ええ……素敵なお名前ですわね」


 その笑みを見た瞬間、胸の奥がじんわりと温かくなる。

 未来への不安も、過去の嫉妬も、すべて溶かしてしまうほどに。


「セオドア……僕とエレノアの子だ。これから先、どんなことがあっても――」


 そのとき、小さな指が僕の指をぎゅっと握り返した。

 あまりに頼りない力なのに、胸の奥を強く打つ。


「……っ」


 声にならない声が漏れた。涙が滲み、視界がぼやける。

 未来から来たセオドアの姿が鮮やかによみがえる。


 彼は父を求め、母を守り、自らの役目を果たそうと懸命だった。

 その手は、確かに未来で大きく育ち、誰かを支える力を持っていた。

 今握り返した小さな手は、その未来への始まりなのだ。

 エレノアが僕を見上げ、そっと囁いた。


「わたくしたちの未来は、もうここにありますのね」

「ああ」


 僕は強くうなずいた。


「だからこそ、絶対に守る。エレノアも、セオドアも……僕のすべてだ」


 言葉にすることで、胸の奥にあった決意は揺るぎないものとなった。

 守るだけではない。

 やがてこの子は、未来を背負い、自らの役目を果たす存在になるだろう。


 その日まで――僕が全力で守り抜く。


 視線を落とすと、セオドアはすやすやと眠っていた。

 無防備な寝顔を見つめながら、僕は未来を思い描く。

 いつかこの子は、未来のセオドアのように成長し、誠実で真っ直ぐに生きていくだろう。

 その姿をすでに見てしまったからこそ、僕は信じられる。

 ――この子こそが、僕たちの未来だ。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ