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【番外編】婚約者の腕の中で

本編では描ききれなかった、エレノアとリチャードの小さなエピソードです。

本編後のおまけとして、気軽にお楽しみください。

 無造作に抱き寄せられた瞬間、エレノアは息をのんだ。

 熱を帯びた体温と鼓動が、服越しに容赦なく伝わってくる。

 雨音に包まれながら、訳も分からず胸がざわめいた。


 ――どうして、こんなことになってしまったの……?




 ほんの少し前、リチャードとエレノアは王宮の庭園を歩いていた。

 色とりどりの花が咲き誇り、そよ風が枝葉を揺らすなか、彼の横顔をふと見やる。


 初めて出会ったときのリチャードは、泣き虫で心細げな少年だった。小さな手を握れば頼りなく、守ってあげたいと思うだけの存在にすぎない。


 ――彼女の淡い初恋は、そのリチャードのもとへ導いてくれた“別の少年”に捧げられたものだ。

 優しくて眩しい、ほんのひとときの幻のような出会い。触れれば消えてしまいそうな儚さを帯びて、今も胸の奥にしまわれている。


 それに比べて、リチャードは「気心の知れた相手」だった。

 本来なら年下らしく甘えてきてもおかしくないのに、彼はいつもエレノアを気づかって行動してくれる。


 重たい本を抱えていれば無言で受け取り、体調を崩せば黙って薬や水を運んでくる。年齢差を感じさせない落ち着きで、何かあれば真っ先に彼女を庇おうとする――そんな誠実で健気な姿に、幾度となく助けられてきた。


 年下でありながら、自分を支えようとしてくれる――そのことに、感謝と同時に不思議な戸惑いも覚えていた。

 けれど、そうした思いはあくまで「頼もしい弟への情」にすぎず、異性として意識したことは一度もなかった。


 花々の香りが漂う小径を進んでいたそのとき、空が急に曇り、ざあっと雨が降り出す。

 二人は慌てて庭園の東屋へと駆け込んだ――。


 柱と屋根に守られているとはいえ、四方が開けた東屋は、横殴りの雨に容易く侵されてしまう。

 風に流された雨粒が、内側にまで吹き込み、エレノアの頬や肩を濡らした。


「急に降ってきたな」


 リチャードがそう呟き、ためらいもなくエレノアの肩を引き寄せる。


「エレノア。もっとこちらに。濡れてしまう」


 無造作に抱き寄せられたその腕の力強さに、エレノアは思わず息をのんだ。

 間近にある横顔は、もう幼さを残してはいない。

 雨に濡れた金の髪が頬へと張りつき、雫が首筋を伝って落ちていく。

 濡れた髪越しにのぞく青い瞳は、雨空よりも深い色を湛えていて、その視線を意識するだけで胸の奥がざわめいた。


 ――いつの間に、あの可愛らしかった少年は、こんなにも大人の男性へと成長していたのだろう。


 服越しに伝わる心臓の鼓動がはっきりと耳に届く。

 それが自分のものなのか、リチャードのものなのか――もはや判別できないほどに。


 これは、かつて抱いた淡い初恋とは違う。

 甘く儚い夢ではなく、体温も鼓動も逃れられない現実。

 胸は苦しく熱に満たされ、息は浅く乱れていく。


「……エレノア?」


 不思議そうな声が頭上から降ってくる。

 顔を上げれば、至近距離で青い瞳が自分を覗き込んでいた。

 その瞳は、まるで雨粒さえ映し込むように澄んでいて、逃げ場を与えてくれない。


 リチャードの胸中にも小さな衝撃が走っていた。

 彼女の頬に浮かんだ赤み、潤んだ瞳の揺らぎ、わずかに乱れた呼吸――。

 それはずっと隣にいながら、一度も見たことのない表情だった。


 エレノアが、自分を「男性」として意識している。

 その事実に気づいた瞬間、リチャードの胸は高鳴りを抑えられなくなる。

 思わず、引き寄せたままの距離をさらに縮めてしまった。

 ほんの指先で触れられるほど近づいたとき――。


「っ……!」


 エレノアの顔が、瞬く間に真っ赤に染まる。

 至近距離に迫る青い瞳、濡れた前髪から滴る雫、微かに香る衣の匂い――。

 どれもが胸を締めつけ、息苦しいほどに鼓動を速める。


 駄目。これ以上、近づかれたら――

 その思いに突き動かされるように、エレノアは慌てて視線を逸らし、顔を背けた。


「や、やめて……っ。からかわないで!」


 声は思ったよりも高く、震えていた。

 自分でも制御できない動揺が、言葉となって溢れ出してしまったのだ。

 リチャードは目を瞬かせた。

 その必死の拒絶は、拒まれているというより――むしろ触れられることを強く意識した証拠に思えた。

 胸の奥に広がる衝撃と喜びが、堪えきれず笑みへと変わっていく。


「……エレノア。僕は君をからかってなんかいない」


 囁きは雨音よりも近く、低く響いて耳を震わせる。

 そしてリチャードは、迷うことなくさらに顔を寄せた。


 肩に触れる彼の息づかい。

 目を逸らしても、強い視線が頬を射抜くようで、エレノアは逃げ場を失った。


 ――怖い。けれど、嫌じゃない。

 心臓の鼓動はますます速く、もう自分のものか彼のものかさえ区別できない。

 混乱とときめきがないまぜになり、身体が熱に包まれていく。


「……君が、やっと僕を見てくれた」


 青い瞳に映るのは、自分だけ。

 その確信が胸を突き、エレノアは思わず息を呑んだ。


 彼の顔が、さらに近づく。

 触れそうで、触れられない――その距離に、全身が震える。


 ――近い。息が触れる。

 彼がさらに身を傾けると、呼吸が交わり、胸の奥が苦しくなるほど熱を帯びた。

 怖い。けれど、それ以上に――期待してしまっている自分がいる。


 どうして……どうして、嫌だと思えないの?


 次の瞬間。

 リチャードの唇が、ほんの一瞬、エレノアの唇に触れた。

 それは羽のように軽く、すぐに離れてしまうほどの短い接触だった。

 けれど、その一瞬で世界が反転したかのように、胸の奥が強く震える。

 雨の冷たさも、空気の湿り気も、すべてが遠ざかり――残ったのは彼の体温だけ。


「……っ!」


 エレノアは思わず瞳を閉じ、頬が熱に灼ける。

 リチャードは短い口づけを終え、名残惜しげに彼女を見つめる。


「……ごめん。でも、抑えられなかった」


 低く震える声は、彼自身も同じくらい動揺していることを示している。

 エレノアは言葉を失い、胸の奥に溢れる感情を抱えきれずにいた。

 初恋の頃の淡く甘いときめきとは違う。

 もっと強く、現実的で、抗えない――確かな恋が、今ここに芽吹いたのだと悟りながら。


 ――この日を境に、少年だと思い込んでいた彼が、確かに大人へと成長していたのだと悟った。

 雨脚は次第に弱まり、やがて静けさが戻ってくる。

 けれどエレノアの胸の鼓動は嵐のように収まらず、止めようとしても止まってはくれなかった。

 こうして、ひとつの雨宿りが――二人の関係を変えてしまったのだ。


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