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未来の息子は、母上を初恋に導く(前編 ―現れた少年―)

未来の息子シリーズ第3弾!

今回は「母上の初恋」をめぐる物語です。

※パラレル構成なので、過去作を読んでいなくても大丈夫です。

このお話からでも安心して楽しめます。

 午後の陽射しが差し込む部屋で、侯爵令嬢エレノア・グレイス・アッシュベリーは窓の外をぼんやりと眺めていた。

 亜麻色の髪が光を受けて揺れ、碧の瞳はどこか遠くを映している。


「……あの男の子、誰だったのかしら」


 小さな呟き。

 それは幼い日の出来事――見知らぬ少年に手を引かれ、泣いている子のもとへ導かれた記憶。

 黄金の髪が陽光を受けてきらめき、深い碧の瞳が優しげに光っていた。

 姿も声も今は霞んでいるのに、その印象だけは鮮やかに胸に焼きついている。


 隣に座る王国の第三王子リチャード・フォン・グリューネヴァルトは、眉間に深い皺を刻んだ。

 彼は彼女の婚約者。エレノアの心が自分にあることは分かっている。

 それでも――。


(……まだ、その“少年”を気にしているのか)


 胸の奥が灼けるように痛む。

 エレノアが自分を選んでいる事実に疑いはない。だが、彼女の記憶に刻まれた少年は、消えることなく生き続けている。


(……もし、そいつが今現れたら?)


 想像してしまう。

 幼い記憶の中の少年は、今では立派な青年に成長しているはずだ。

 その姿でエレノアの前に立てば――彼女はどんな顔をする?

 懐かしそうに目を細め、その名を呼ぶのか?

 微笑みながら、かつて抱いたときめきを思い出すのか?

 その光景を思い浮かべただけで、リチャードの理性は音を立てて崩れそうになった。


(……許さない。たとえ過去の思い出でも、今ここに現れたら……僕は、嫉妬でどうなるか分からない)


 胸をかきむしりたくなるほどの苦しさ。

 脳裏で“あの少年”が、青年の姿でエレノアに微笑みかける幻がちらつく。

 それだけで血が逆流し、心臓を爪でえぐられるような衝動に襲われる。

 拳を固く握りしめ、リチャードはゆっくりと息を吐いた。


(必ず確かめてやる。その“少年”が誰であろうと……二度とエレノアの心を乱させはしない)


 嫉妬と執着は、もはや狂気にも似た熱となり、彼の胸を焦がし続けていた。




 春の陽射しがあふれる王宮の庭園。

 白い花々が風に揺れ、鮮やかな緑が輝いていた。

 その日、八歳のエレノアは、両親に連れられて王宮を訪れていた。

 広大な庭園に心を奪われたエレノアは、つい好奇心のまま小道を歩き、人影のない奥へと迷い込んでしまう。

 ふと、背後から澄んだ声がした。


「君がエレノア嬢だね?」


 驚いて振り返ると、そこに立っていたのは見知らぬ少年だった。

 陽を受けて輝く黄金の髪、澄んだ深い碧の瞳。年の頃は十歳ほどだろう。

 落ち着いた物腰に大人びた雰囲気を漂わせているが、その微笑みはどこか優しげで、不思議と惹きつけられるものがあった。

 呼びかけられた彼女は一瞬きょとんとし、碧の瞳を大きく見開いた。


(どうして……わたくしの名前を知っているの?)


 胸の奥に疑問とわずかな不安がよぎる。

 けれど、真剣に見つめてくるその眼差しに射すくめられ、言葉をのみ込んでしまった。

 そして小さく瞬きをしてから、かすかに微笑みを浮かべ、うなずいた。


「……ええ、そうですわ。」 


 まるで昔から自分のことを知っているかのような言葉。

 戸惑いは残ったものの、その碧い瞳に見つめられていると、不思議と拒む気持ちにはなれなかった。


「泣いている子がいるんだ」 


 少年はそれ以上、何も言わなかった。

 ただ静かに手を差し伸べ、その仕草はまるで――最初からそうするのが当然であるかのようだった。

 エレノアは一瞬ためらいかけた。


(どうして、こんなにも自然に……?)


 けれど気づけば、小さな手はその手を握り返していた。

 指先から伝わる温かさは、現実の感触でありながら、どこか夢の中にいるようでもあった。

 強さも弱さもない。ただ静かに、それでいて確かに人を引き寄せる力を持つ掌。

 その温もりに包まれて歩くうち、胸の奥で不思議な高鳴りが生まれていた。

 言葉は交わされない。

 ただ互いに手を繋ぎ、庭園の奥へと進んでいく。

 けれどその沈黙は気まずさではなく、心地よい静けさとなって二人を包んでいた。


(……この時間が、もっと続けばいいのに)


 そう思った瞬間、エレノアは自分の胸に芽生えた感情に戸惑った。

 初めて会ったばかりの相手なのに、不思議と惹かれてしまう。

 名前も知らないはずの少年が、なぜか大切な存在に思えてならなかった。


 そのとき――茂みの向こうからしゃくり声が聞こえてきた。

 はっとして顔を上げると、少年は黙ったままエレノアを連れていく。

 ためらいも迷いもなく、ただ当然のように歩を進め、彼女の小さな手を引き続けた。

 エレノアの心臓は、鼓動を早めていた。

 言葉はなくとも、繋いだ手の温もりが確かに胸の奥を揺らしている。

 この不思議な時間が終わってしまうことが惜しいと、そう思ってしまうほどに。


 やがて、茂みの影から小さな姿が見えた。

 ――三歳ほどの男の子。

 黄金色の巻き毛を涙で濡らし、頬を赤く染め、子犬のように震えていた。

 しゃくりあげる声がかすかに響き、泣き腫らした青い瞳は今にも零れ落ちそうに潤んでいる。


「……まあ」


 エレノアは思わず声を漏らした。

 だがそのとき、ふと気づいた。

 手を引いていたはずの少年の温もりが消えている。

 振り返った先には、もう誰の姿もなかった。


「……いなくなってしまったの?」


 呟きが庭園に溶けて消える。

 残されたのは手の温もりと胸に芽生えたときめきだけ。

 エレノアは小さな泣き虫の少年に視線を戻し、ゆっくりと歩み寄っていった。


「どうしたの?」


 エレノアはそっと膝をつき、目線を合わせた。

 スカートが土に触れることも忘れ、ただこの子を安心させたい一心だった。

 おっとりとした声音が柔らかく響いた瞬間、男の子はびくりと肩を震わせ、袖をぎゅっと握りしめる。


「……ひとりは、やだ……」


 幼い声が震えてこぼれ、エレノアの胸が締めつけられる。


(こんなところにひとりで……さびしかったのね)


 彼女はそっと腕を伸ばし、震える小さな体を抱きしめた。


「大丈夫よ。わたくしがそばにいるわ」


 耳元で優しく囁くと、少年の呼吸が少しずつ落ち着いていく。

 小さな手がぎゅっと袖を掴み、離すまいとする。

 その必死さに胸が熱くなり、エレノアは背を撫でながら、ただ願った。


(安心して……どうか泣き止んで)


 やわらかな風が庭園を吹き抜け、二人の静かな時間を包み込んでいった。




 茂みの奥で泣いていたのは、まだ三歳のリチャードだった。

 彼は王国の第三王子という立場にあり、周囲の者たちは幼子であっても「王子殿下」と距離を置いて接した。

 優しく世話をする乳母でさえ、どこか言葉を選び、甘えを素直に受け止めてはくれない。

 誰もが大切に扱ってはくれるが、同時に一歩引いた視線を向けてくる。

 その小さな胸に積もっていったのは、理解されない寂しさだった。

 だからこそ、この庭園の片隅でひとり取り残されたとき、リチャードはたまらなく心細くなった。

 泣いてはいけないと分かっていても、堪えきれず声をあげてしまったのだ。

 そこに現れたのが――亜麻色の髪を揺らす、年上の少女だった。


「どうしたの?」


 エレノアは土に膝をつき、碧の瞳を彼の高さに合わせて見つめた。

 王子であることを意識した態度など、そこにはひとつもなかった。

 ただ目の前の幼い子を心配する、澄んだ声音。


「……ひとりは、やだ……」


 震える声をこぼしたとき、エレノアはためらうことなく彼を抱き寄せた。


「大丈夫よ。わたくしがそばにいるわ」


 華奢な腕が小さな体を包み込み、やさしく背を撫でる。

 その瞬間、リチャードの胸の奥に強烈な衝撃が走った。

 母以外に抱かれるのは初めてだった。

 母の腕が与えてくれる安心感とは違う。

 そこにあったのは、立場や身分を超えた「無条件の優しさ」だった。

 胸が締めつけられ、心臓が苦しいほど高鳴る。

 安らぎとともに、今まで知らなかった甘く切ない感情が芽生えていく。

 リチャードは袖をぎゅっと掴み、涙に濡れた声で必死に言葉を絞り出した。


「……僕、大きくなったら……きみを、お嫁さんにするんだ」


 あまりに真剣なその言葉に、エレノアは目を瞬かせた。

 まだ三歳の幼子が口にするには重すぎる誓い――けれど、真っ直ぐに向けられる瞳に嘘はなかった。

 困ったように、それでもどこか嬉しそうに、エレノアは小さく苦笑を浮かべる。


「……まあ」


 その一言と優しい微笑みが、幼いリチャードの胸をさらに強く締めつけた。

 小さな彼は恋という言葉を知らない。けれど、この胸を焼くような衝動は、確かにただの憧れではなかった。


 ――彼女を絶対に手放さない。

 必ず自分が迎えに行く。


 たとえその想いを言葉にしきれなくても、幼い胸に刻まれた決意は情熱的で、狂おしいほどの輝きを帯びていた。

 その日、リチャードの初恋は確かに芽生え、未来を縛る誓いとなった。


 もちろん、まだ三歳の彼にできることは限られていた。

 けれど「お嫁さんにする」と宣言したその気持ちは年を経ても薄れることなく、むしろ強さを増していった。

 成長するにつれ、幼い決意はただの夢や子どもの言葉ではなく、現実へとつなげるための行動へと変わっていく。


(必ず、僕がエレノアを手に入れるんだ。誰にも渡してなるものか)


 エレノアは自分より五歳年上。

 侯爵家の令嬢である彼女は、王子の婚約者候補として名前が挙がっても、選ばれるのは主に年上の第一王子や第二王子ばかり。

 第三王子であるリチャードは当然のように候補から外れがちだった。


(兄上たちに取られるくらいなら……僕はすべてを投げ出してでも抗う)


 リチャードは必死に考えた。

 勉学に励み、武芸でも誰よりも早く頭角を現し、書庫に籠って家の政治や各家の思惑まで学んだ。

 侯爵家にとってどの縁組が利益となるかを調べ、兄たちの候補を外すための理由を整え、少しずつ周囲に示していった。


(エレノアを僕の婚約者にするためなら、どんな小さな糸口でも逃さない……!)


 幼いながらも冷静に、しかし必死に、外堀を固めていったのである。


 そして――彼が十歳を迎えた年、ついに婚約は成立した。

 兄たちを差し置いてでも侯爵が承諾するほどに、リチャードは立場と努力で自分の価値を示したのだった。

 婚約の儀が終わった夜。

 庭園を歩いていたリチャードは、エレノアにそっと声をかけられた。


「殿下……いえ、リチャード様。お尋ねしてもよろしいかしら?」


 その声音はやわらかく、けれどどこか探るようでもあった。

 振り向いた彼女の瞳は、月明かりに照らされてひどく澄んでいた。


「わたくし、昔のことを思い出してしまうのです。初めて殿下にお会いしたあの日……実は、泣いているあなたのもとへ、ひとりの少年に手を引かれて行ったのです」

「……少年?」


 思わず問い返す。

 エレノアはゆっくりとうなずいた。


「ええ。年の頃は十歳くらいでしょうか。黄金色の髪に、碧い瞳……今のあなたに、よく似ていて。あまりに似ていたものですから、最初は空想でも見たのかと思いましたわ」


 その唇に浮かんだ笑みはやわらかく、けれどどこか遠いものを見ているようだった。

 胸の奥で、リチャードは嫌なざわめきを覚える。


(僕に似た少年……? そんな人間、知り合いにいるはずがない。じゃあ、誰だ……?)


「その方が誰なのか、ずっと気になっておりますの。殿下は、どなたか心当たりはありませんか?」


 問いかけるエレノアの瞳は、ほんのわずかに熱を帯びていた。

 まるで懐かしい人を恋うように――。

 その一瞬、リチャードの心臓は鋭く締めつけられた。


(……恋心だ。彼女は、その少年に……)


 喉が詰まり、言葉が出ない。

 あの日、庭園で自分を抱きしめてくれた優しさが、彼女の中では“別の誰か”との思い出として語られている。

 自分がその相手であるはずはない――そんなことは最初から分かっていた。

 けれど、その確信を彼女の口から示されるようで、胸の奥が灼けつくように痛んだ。


「……僕は知らない。そんな少年のことなんて」 


 ようやく絞り出した言葉は、思った以上に冷たく響いた。

 エレノアは小首を傾げ、どこか名残惜しそうに微笑む。


「そう……やはり夢のような出来事だったのかもしれませんわね」


 ――その瞬間、リチャードの胸はかき乱された。

 彼女の横顔が、自分ではなく“遠い誰か”を想っているように見えてしまったからだ。


(僕じゃない誰かに、想いを向けている……?)


 幼い頃から誓ってきた。

 必ずエレノアを自分のものにすると。

 そのために兄たちを押しのけ、婚約を勝ち取るために全力を尽くしてきた。

 なのに今、彼女の記憶の奥に息づくのは――自分ではない“誰か”。

 姿かたちも分からぬ少年が、彼女の心の一角を占めている。


(許せない……。僕は彼女の婚約者だ。未来を共に歩むと誓った唯一の存在なのに――)


 胸が焼けるように熱い。

 怒りとも、悔しさともつかぬ感情が渦を巻き、眠りを妨げる。


(探し出してやる。エレノアの記憶に入り込んだその少年を。名も、顔も、正体を確かめて――二度と彼女に近づけさせはしない。もし今ここに現れて、エレノアがあの微笑みを向けたら……僕は、どうなってしまうか分からない)


 その夜、幼い嫉妬は形を変え、確かな執念へと変わった。




 胸の奥を灼くような焦燥が、彼を突き動かした。

 リチャードは王子の立場を使い、密かに命じた。王都の記録、貴族子弟の出仕名簿、地方に暮らす者の家系図まで――あらゆる資料を洗わせた。

 探し出すべきは十七歳前後、王宮の庭園に出入りできる身分を持ち、黄金の髪と碧い瞳を持つ青年。


(必ずいるはずだ……エレノアの記憶に刻まれた“少年”。そいつを見つけ出さなければ――)


 焦りと苛立ちに胸を焼かれ、眠る間も惜しんで報告を待ち続けた。

 条件を重ねれば、それらに該当する者は確かにいた。

 侯爵家の嫡男、伯爵家の三男、国外から来た留学生――容姿の特徴だけなら幾人も見つかった。

 だが、一人ひとり呼び出して話を聞くと、全員が違った。

 庭園にいた記憶もなければ、泣いていた自分を救ったこともない。

 誰も、エレノアが語った“少年”には重ならなかった。


(どうしてだ……条件は揃っているのに。数え切れないほど探したのに。なぜ一人として“あの少年”ではない?)


 胸の奥に苛立ちが渦を巻く。

 探せば探すほど、影だけが濃くなり、実体は遠のいていく。


(存在しない? 幻だというのか……? だが、エレノアは確かに“特別な誰か”として覚えている。僕ではない誰かを――)


 見つからないという事実が、かえってリチャードを追い詰めた。

 その夜、寝台に身を横たえても、まぶたを閉じれば月明かりの下で微笑むエレノアの横顔と、彼女が語った“少年”の姿が脳裏に浮かぶ。


(僕が隣にいるのに……彼女の心には、まだ“誰か”の記憶が息づいている。

 ならば……どうすればいい? このまま、得体の知れない相手に怯え続けろというのか。僕以外の“誰か”に、エレノアを奪われるかもしれない恐怖に)


 胸の奥で燃える苛立ちは、やがてひとつの答えに行き着く。


(――直接、確かめればいい。過去に遡り、あの庭園で“少年”の正体をこの目で見るんだ。そうすれば、もう惑わされることはない。エレノアを縛る存在を、はっきり知ることができる)


 リチャードの脳裏に浮かんだのは、王家に代々伝わる秘宝のひとつ。

 古代から伝承されてきた魔道具――“時環の羅針盤”。

 王宮の奥深く、厳重に封じられたその秘宝は、王家の血を継ぐ者しか触れることも許されない。

 長年にわたり研究が続けられてきたが、完全に解明されたことはない。

 ただひとつ分かっているのは――それが「過去へ赴く術」を秘めているということだった。

 常識ではあり得ない。だが、もはや常識などどうでもよかった。


(エレノアを縛る“少年”を断ち切れるのなら、僕は何だってする。未来を守るために……過去に行くしかない)


 その決意が、リチャードをさらなる禁忌へと踏み込ませていくのだった。



 羅針盤の解析に成功したのは、リチャードが十八歳になったときだった。

 王国の第三王子という立場は、王位継承権の重圧から最も遠い。

 第一王子と第二王子が政務や軍務の重責を担うなか、彼は比較的自由に動くことが許されていた。

 その立場を逆手に取り、リチャードは王宮の奥深くに眠る秘宝――“時環の羅針盤”の研究に没頭したのである。


 古文書を読み漁り、書庫に籠っては魔法陣を写し取り、試行錯誤を重ねた。

 幼い頃から募らせてきた執念と、第三王子という立場ゆえの余白があったからこそ、誰も成し得なかった解析に彼はたどり着いたのだ。


 その一方で――現代の彼自身もまた、大きな変化を迎えていた。

 猛勉強と鍛錬を重ね、舞踏会では堂々と彼女の手を取り、時に身を挺して彼女を守り続けた。

 幼い頃は「かわいい年下の婚約者」にすぎなかった彼を、エレノアは次第に「頼れる男性」として見つめるようになっていた。

 無邪気な甘えではなく、真剣な眼差しで向けられる言葉や態度が、確かに彼女の心を揺らしていた。


(やっと……僕は彼女の隣に立てるようになった。けれど――)


 それでもなお、胸の奥に燻り続けるものがあった。

 エレノアの初恋の記憶。彼女が今もふとした瞬間に思い返す、“誰か”の存在。


(僕が隣にいる。僕を見てくれている。それでも、あの日の庭園で出会ったという少年の正体を確かめない限り……この胸のざわめきは消えない)


 幾年にもわたり研究し続けた“時環の羅針盤”。

 王家の血を継ぐ自分だけが起動できるその秘宝を、ついに解き明かすときが来た。

 机上に置かれた羅針盤は、古びた懐中時計のように見える。

 盤面の魔法陣が淡く光を脈打ち、中央に埋め込まれた水晶は月光のような輝きを放った。


 リチャードは息を整え、震える指先をそっと盤面に置く。

 瞬間、光が魔法陣を走り抜け、部屋いっぱいに広がった。

 壁も天井も静かに溶け消え、代わりに渦を巻く光の扉が姿を現した。


(――これで過去へ行ける)


 彼の目的はただひとつ。

 エレノアを導いた“少年”の正体を、自分の目で確かめること。

 会話をする程度なら、時の因果を壊すことはない。

 真実を知ったあとで現代に戻り、その人物を二度とエレノアの前に現れさせない――それが彼の決意だった。


(エレノア。君が笑うのは僕の前でだけでいい。未来を共に歩むのは、僕なんだ)


 そう心に刻み、リチャードは光の渦へと歩み出した。

 羅針盤の針が静かに震え、時を裂く響きが耳を打つ。

 次の瞬間、青年の姿は光に包まれ、過ぎ去った時の庭園へと吸い込まれていった。



 光が収まったとき、リチャードの目の前に広がっていたのは、懐かしい王宮の庭園だった。

 風に揺れる木々の匂いも、花壇を彩る花々も、記憶にある光景と寸分違わない。

 その中に――いた。

 少し離れた場所で、陽を受けて亜麻色の髪を揺らす少女。

 まだ十歳にも満たぬ幼いエレノアが、そこに立っていた。

 無垢な碧の瞳で周囲を見渡す姿は、記憶の中とまるで同じで、リチャードの胸が強く締めつけられる。


(……エレノア。やっぱり、あの時のままだ)


 胸の奥から、甘く切ない感情が込み上げる。

 今ここにいるのは過去の彼女だと分かっていても、その微笑み一つで心臓が早鐘を打った。

 だが――。


「……どこだ」


 低く絞り出した声に、胸の奥で焦燥が渦を巻く。

 視線は庭園の隅々まで走り、木立の影も、大理石の柱の陰も見逃さない。


(必ずいるはずだ……! エレノアを惑わせた“少年”が。ならば――絶対に見つけ出してやる)


 その決意は、嫉妬と執念の入り混じった熱となって、リチャードの心臓を激しく打たせていた。



 木立の奥へ歩いていくと、かすかな気配があった。

 リチャードは息を潜め、慎重に目を凝らした。

 ――そこに立っていたのは、一人の少年だった。

 年の頃は十歳ほど。背丈も表情も、あどけなさを残した子供。

 だが、その顔を見た瞬間、リチャードの胸に衝撃が走った。


(金の髪……碧の瞳……! こんな……馬鹿な……)


 髪は、かつて自分が鏡の中で見た色と同じ。

 輪郭も、鼻筋も、幼い自分をそのまま写したかのように似通っている。


「……嘘だろ」


 思わず声が漏れる。

 だが、その瞳だけは違っていた。

 自分の「青」は鋭さと焦りを宿すのに対し、少年の「碧」は柔らかく、優しさを湛えていた。

 同じ色の系統でありながら、まるで別の存在を示すように。


(僕にこれほど似ているのに……違う。これは……誰なんだ)


 胸の奥で嫉妬と動揺がないまぜになり、荒々しく心臓を打ち続ける。

 理解が追いつかない。それでも確かにそこに“自分によく似た誰か”がいるという現実だけが、否応なく迫ってきた。


「……お前は、誰だ」


 低く押し殺した声が喉からこぼれる。

 気づけば、足は勝手に前へと進んでいた。

 その気配に気づいたのか、少年が弾かれたように振り向く。

 そしてリチャードを認めた瞬間――その碧の瞳が大きく揺らぎ、今にも泣き出しそうに潤んでいった。


「……父上……!」


 その呼びかけを耳にした瞬間、リチャードの思考は真っ白になった。

 心臓が荒々しく鳴り、胸の奥に熱と痛みが入り混じって暴れる。


(父上? 僕を……父親と呼んだ? ありえない……僕にはまだ子どもなど――)


 混乱と苛立ち、そして形の見えない嫉妬がないまぜになり、頭がぐらぐらと揺れるようだった。

 彼女の初恋の“少年”だと疑っていた存在が、自分に向かって「父上」と呼んでくる――そんな矛盾、到底受け入れられるはずがない。

 一方で、目の前の少年は涙を滲ませながらも安堵の色を浮かべていた。


「……よかった……父上がいてくださって……」


 まるで孤独に震えていた子どもが、ようやく拠り所を見つけたかのように。

 その声音に、リチャードの胸はさらに掻き乱される。


「ふざけるな!」


 思わず声を荒げていた。


「僕に子どもなんているはずがない! 僕はまだ……!」


 否定の言葉を吐き出しながらも、胸の奥では嫉妬が燃え盛る。

 エレノアの記憶に残る存在が、こんな風に“自分に似た少年”であることが、どうしても許せなかった。

 リチャードの怒声に、少年は顔を強ばらせ、慌てて一歩踏み出す。


「ち、違うんです! ふざけてなんかいません……!ぼ、ぼくはセオドア!未来で、父上と母上の間に生まれた……息子なんです!」


 その言葉に、リチャードの胸が凍りついた。

 未来の息子――そんな荒唐無稽な話、信じられるはずがない。


(馬鹿げている……! こんな子どもが、僕とエレノアの……?)


 だが、確かに目の前の少年は真剣だった。


 リチャードは思わず言葉を失い、ただ少年の瞳を見返すことしかできなかった。


 ――続く。



お読みいただきありがとうございます!

今回の物語は前後編となっており、後編は9月13日(土)21時ごろ公開予定です。

感想やブクマをいただけると、未来息子がさらに元気に登場します!

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