5.やさしい走馬灯
石のように固い革靴が、私の頭を踏みつけにする。鈍痛が、ミシミシ、ミシミシ……と頭蓋に響く。視界がかすむ。
完全に、退路を断たれた。かろうじて残された握力をなんとか振り絞って、男のすねを外側からたたいてみるも、苦し紛れの一撃など、男からしてみれば赤子がじゃれつくのに等しい。私に勝ち目がないのは誰から見ても一目瞭然だった。このまま骨が顔を出すまで殴り続けるか、それとも、一等鋭利なガラスの破片を探し当てるか――私は小さく、目をつむった。そんな流暢なことをしていてはきっと、骨になるより先に、男の炎が私を焼き尽くしてしまうだろう。
さあ、はやく優先順位を決めなければ。
『いかないで、カナン……』
ふいに脳裏に浮かんだ、幼き日の坊ちゃんの、とても不安そうな顔を、私は必死にかき消した。なに、目の前の男ひとり始末するのに、私の生死はさほど重要ではない。単純明快なことだろうに。
こうなったらいっそ、賭けにでも出てみようか。きゅっとこぶしに力を込める。
私は大きく目を見開いた。チャンスは一度きり。必ず、ものにしてみせる。
大げさに、首を垂れるふりをした。
「いままで、の、無礼……を、おゆるしください…………坊、ちゃんの……仕事場に、あんない、します」
薄汚い大人たち……あなた方は、手弱女を好むのでしょう。
目に涙をためながら、か細い声で言うと、頭から、ゆっくりと革靴が離れていった。
「ほーん、どうしちまったんだよいきなり。ずいぶんしおらしいじゃねえか……どうだ、オプションで俺の妾にしてやろうか」
「はい……なんでも、いたしましょう……」
だから、どうか命だけは――続く「はず」の言葉を、私は思いっきり飲み込んだ。
気づいたらもう、走り出していた。
アドレナリンでも出ているのだろうか、体は羽のように軽やかだった。皮肉にも、昔から逃げ足だけは速いのだ。
でもあの日、エリヤ様に出会うことができたから。私は、こんなにも強くなれた。
エリヤ様は、愛を知らぬ孤児に、居場所を与えてくれた。
がらくた同然だった私に、生きる意味を――与えてくれた。
私がカナン・オラトリオに成ったのは、間違いなく、あの夜から。
今日まで私を普通の人間として扱ってくれたのは、他ならぬエリヤ様だった。
私にとってエリヤ様は、地獄に差した一筋の光そのものだった。
あの御方のためなら、私はなんだってできる。命を張れる。
あたたかいまどろみの中、視界がかすかに震えだした。
「チィッ、ざけんなこのアマッ……!」
キッと前を見据える。背中にびりびり伝わる轟音に気づかないふりをして、私はただ、がむしゃらに駆け続ける。
ああ、と思う。私は――、カナン・オラトリオは――役目を果たすことができただろうか。従者として、坊ちゃんの成長をお側で見守ることができて、本当に良かった。どうしようもないくらい寂しい夜だって、ふたり一緒にいれば必ず朝が来た。坊ちゃんの全てが、泣きたくなるほど好きだった。
あれはたしか、お祈りから帰ってきてすぐのこと。名門校への入学が決まった時、坊ちゃんが今まで積み重ねてきた努力が報われたのが、自分のことのように嬉しかった。
一生分の、それこそ私にはもったいないくらいの、幸せをいただいた。
もう、心の臓が止まったって構わない。
「光、あれ……!」
これが最期のお願いです、かみさま。坊ちゃんのゆく先を、あの、世界一やさしくて不器用な子どもの人生を、どうかお導きください。
叶うことなら、この先も私が照らしてあげたかったけれど。
ここで負けては、‘‘殺戮嬢‘‘の名が廃る。コンマ2秒の差で男から逃げ切り、調理場へ。あとはもう、面白いくらいに上手くいった。
「女ぁ、終わりだ……!」
自分よりずっと格下の作戦にまんまと引っかかってなお、馬鹿の一つ覚えみたいに炎魔法を繰り出さんとする男。その姿をしっかり目に焼き付けて、ほくそ笑む。そうして私は、男めがけて思いっきり――油をぶちまけた。
するとどうだろう、情けなくも男は、たちまち鳩が豆鉄砲を食ったような顔になった。お可哀想に……今の自分が置かれた状況をなんにも理解できていないようだった。
ーー今からあなたは、私と心中するのですよ
これが私の主人を騙した罰だ、願わくば耳元でそう言ってやりたかった。「ざまあみろ」って。まあ、どんなに足掻いたってもう、思惑が声になることはないのだけれど。
バリンッーーと、ガラスというガラスが割れる衝撃。血と肉と油が爆ぜるにおいが、鼻腔に侵入する。
こんなに熱いと思うことはきっと、後にも先にもないだろう。
ーーさようなら、坊ちゃん。
私はただ、己の命をも消し飛ばす爆風に身を委ねた。