4.悪夢みたい
この家の当主である以上、そう遠くない未来、エリヤ・マルガレーテ様は、必ず誰かと結婚する。
私は芝生の上でまた、寝返りを打った。
『カナンのくすりゆびは、ぼくがよやくする!』
日に日に大人っぽくなってゆく坊ちゃんをそばで見守れたのだ、何も悲しいことはないはずだった。身長だってまだ、私のほうが少しばかり勝っているし。
だから。私を大好きだと慕ってくれたいつかの坊ちゃんは、胡蝶の夢の中にいらっしゃった、ということにしておけばいい。そう思ったら、胸が心なしか、チクリと痛んだような……いいや、気のせいだろう。
ちょっとだけぶっきらぼうな坊ちゃんだけれど、それでいて人一倍甘えん坊なところもあるから、彼の全部をまるごと包み込んでくれるような、寂しさを埋めてくれるような、そんな、素敵なお相手が見つかるといいなあ。
ここまで想像しておいて、思わずくすりと笑ってしまった。まあ、メイドの私が坊ちゃんの奥方様候補を考えるというのも、なんだか変な話だ。従順な使用人であり続けるためにも、庭仕事くらい完璧にこなさなくては。
ーードン、ドン
私を跳ね起こしたのは、唐突に叩かれた門の音だった。
*
私と来訪者との間に漂う、古く乾いた木の香りはいっそう濃くなる。
「オイオイ。お客様の御成だぜ? そんなに警戒しなさんな、可愛くねえなぁ」
胸元まで開いたシャツ、ひと目で高級品と分かる、ぴかぴかに磨かれた革靴。極めつけは、右腕全体をびっしり覆った火山のような入れ墨。目の前にいる男は、少なくとも一般人ではないのだろうと分かる。
加えて。いきなり来て何の用だと聞いても、エリヤ・マルガレーテを出せ、の一点張りだ。
男の首元に、私はゆっくり視線を向ける。そこには大ぶりの、青い宝石のついたネックレスがあった。
この間の、坊ちゃんとのやり取りがフラッシュバックする。
『奴ら、金払いはいいんだ』
まさか、こいつがーー
「……それ以上こちらに近づくのなら、我が主に敵意があるものとみなします」
「わかりやすく歓迎されてねえーなぁ、ま、いいか」
私たちの視線がたちまち交錯したのと時を同じくして、
「…………ッ!」
自己紹介なしに迫りくる攻撃に、すぐさま道化師のごとく翻る。男の顔面にお見舞いしたのはブーツのかかと。男はおもむろに体勢を崩した。パンパン、と私は手を払う。一発で沈められたかと安心……している、場合ではなかった。おぼつかない足取りながらも起き上がった男の口元には、ねっとりとした不気味な微笑が浮かんでいた。
みっともないくらいに汗のにじんだ手。滑らないよう、草刈り鎌を握りなおす。
大丈夫だ。落ち着け、私。不幸中の幸いというべきか、坊ちゃんはまだ帰宅していない。坊ちゃんが帰ってくる前に、カタをつけられれば。
「――カナン・オラトリオだったか。おお、こわいこわい。噂には聞いていたが、さっすが‘‘殺戮嬢‘‘の名は伊達じゃねえなぁぁ」
小さく声が洩れるなり、まるで、細い針で脳みそをえぐられたみたいに頭が激しく痛みだした。
*
殺戮、嬢……別に、今さら言い訳なんてするつもりはなかった。だって私があの夜、大勢の人の命を奪ったことに変わりはないのだから。
今でも、鮮明に思い出すことができる。逃げ惑う人々の断末魔。手に残る、ゴムと化した人皮の感触。むわっと立ち込める鉄のにおい――。
私のもといた世界、それは、たとえば昨日まで明るくおしゃべりだった子が、たった数時間で無機物になるような、そんな残酷な世界だった。
あのストリップ劇場にとって、私たちはただの商品、もっと言えば肉人形に過ぎなかった。毎日毎日ムチをぶたれて、挙句の果てに、複数人から…………無理強い、されて。何人もの少女たちが非業の死を遂げた。
ほうぼうから飛び交うブラボーの声。観客は、しきりに手を叩いてけたけた笑っている。
本能が、このままじゃ殺される、と泣き叫んでいた。早く、早く逃げなきゃ。私もあの子たちみたいに、殺されるって。
ストリップ劇場を脱走し、ほとんど無我夢中で、邪魔な大人たちをみんな殺めた後、死に物狂いで坊ちゃんのお屋敷まで辿り着いた。無論、私の経歴なぞ坊ちゃんの知ったところではない。あんな塵みたいな過去は、まだ年端もゆかぬような少年が知るべきではないのだと、今に至るまで必死に隠してきたつもりだった。
私は、大きく目を見開く。今目の前にいるこの男はどうだろう。坊ちゃんに、子どもに危害を加えようとする、あの時の醜い大人たちと、同じ生き物なんじゃないのか。
「……坊ちゃんには、ううん、エリヤ様には……日の光の当たるところで、一生懸命……勉学に励んでほしいのです」
陰に生きてきた私とは違って、坊ちゃんには、これから先、いくらでもチャンスがあるから。
「こんな危険な橋、坊ちゃんに渡らせるわけには、いかない……!」
男は私を、獲物に絡みつく爬虫類のような目で睨み付けたかと思いきや、次の瞬間には視界から消え去っていた。宙高く舞い上がった男は、魔法もろくに扱えない私のことを、たしかにせせら笑っていた。
体中をほとばしっていた熱が、一気に引いてゆくのを感じた。なるほど、彼に降参の意思はないようだ……ならば、問答無用で坊ちゃんの人生からご退場いただくまで。
「あははっ、マセガキに不相応な力を俺らが有効活用してやるって言ってんだ! なあんにも悪い話じゃねえだろ?」
そう言われた途端、反射的に、私の体はピクピク痙攣し始めた。
「……い、うな」
しかし男は、なおもおどけたポーズで聞き返している……
一刹那。男の手に揺らめく赤い光。
は、と身を退こうとした時にはもう遅かった。無遠慮に放たれたのは、巨大な火の玉だった。
しまった。
私が挑発になんか乗るから……致命傷になりかねない一撃に急いで踵を返そうとするも、備え付けのシャンデリアが、私めがけて真っ逆さまに落ちてきた。
とっさに受け身を取ったから、すんでのところで全身下敷きは免れたけれど、ガラスの破片が、皮膚という皮膚をザクザク突き破ってゆく。私は、目の前の男を見くびっていたのかもしれない。男の扱う魔法は、炎だけではなかったようだ。まさか、風も自在に操れるなんて、微塵も思わなかった。味わったことのない斬撃に歯を食いしばると、苦い鉄の味が、口いっぱいに広がるのが分かった。赤いしずくが流れ、片腕の骨はおもしろいくらいに軋んでいた。
「うっ……ぐ、ふうぅ――」
頭が回らなかった。というより、酸素をうまく取り込めなかった。それでも私は、今にも絶叫しそうな体を無理やり起こすことだけに、全神経を集中させる。
「ハッ……! 化け物め……! 俺のとっておきを食らってなお生きてるヤツがあるか!」
大丈夫。まだ、やれる。幸いにも、足の感覚はまだ残っていた。坊ちゃんの心を殺されることに比べたら、自分なんか、いくら傷つけられたって構わなかった。
「なんだあその目ぇ。死にたくなけりゃ、お宅の弱虫坊ちゃまを呼んで来いよ」
……でも。
ダン、と今までで一番力強く大理石を踏み抜いたのと同時に、男と鼻先が触れ合うまで肉薄する。
「坊ちゃんの悪口を……言うな!!!」
草刈り鎌が、男の太い首に吸い付いた。そう。頸動脈さえ、搔き切れれば――!
すると首筋から、糸のように鮮血が噴き出す。安堵して着地する私を、男は興味なさそうに一瞥する。男は患部を押さえた――
ふりをして、私のみぞおちに一発入れた。
「か、はっ」
小さな私の体は、いともたやすく遠くまで吹っ飛ばされてしまった。そのあまりの衝撃に、手首から鎌がすっぽ抜けたのを見計らって、容赦なく繰り出される一閃。
「そ、んな…………」
唯一の頼みの綱だった鎌は瞬く間に黒焦げにされ、すでに原形をとどめていなかった。
「あ~あ、300万のネックレスが切れちまった……どう落とし前付けてくれんだぁぁ、子猫チャン♡」