2.無茶しすぎです。
お勉強の邪魔をしないよう、お盆片手にそうっと扉を開ける。
「坊ちゃん、そろそろ休憩なさいませんか――っと」
「はっ、はあ……っ用が、ある、なら。せめてノックくらい、して、くれない、か……」
私は部屋中を見渡す。魔力を持たない私でも、中心にびっしり描かれているのはきっと魔法陣だろうと推測できた。坊ちゃんの汗が一面に滴り落ちる。
お言葉ですが、と私は口を開いた。
「ちょっと……その。根を詰めすぎではないでしょうか?」
私の主人は苦労を苦労と思わない、稀代の努力家だ。だからこそ、というべきか。一度やると決めたことには、坊ちゃんは一瞬たりとも手を抜かないのだ。悲しいことに、それは坊ちゃんの美点であると同時に、どうしようもないくらいの欠点でもあった。
坊ちゃんが得意とされる魔法――それは、世にも美しい「宝石」を生み出すことだ。
恋愛成就、家内安全、無病息災……ただ美しいだけではない、魔力の宿った宝石たち。坊ちゃんはそれらを、どんな形にだって、自由自在にカッティングできてしまう。若き天才エリヤ・マルガレーテの持つ極めて稀な能力に、世界中の誰もが夢中になった。
けれど。
青い煌めきを、私はどこか――憎らしいとさえ思ってしまっている。
坊ちゃんは、肩を忙しなく上下させており、激しく魔力を消耗したように見えた。無理もない、机いっぱいに並べられたマーレ・ダイアモンドが、それを物語っていた。
「まあいい、ほんの数分だけだ」
おぼつかない足取りで、坊ちゃんはソファに腰かけた。
「冷めてしまわないうちに、どうぞお召し上がりください」
「ずいぶん珍しい茶葉じゃないか。一体どこで仕入れてきたんだ」
興味ありげに、坊ちゃんがカップへ口を運んだのを見計らって、
「自家製朝摘みドクダミの、スペシャルフレッシュティーにございます」と爽やかに告げてみせた。実は少しだけ、高級料理店のシェフを意識していたりする。以前からひそかに憧れていた、この『シェフの気まぐれでございます』……ばっちり決まったのでは、という私の淡い期待は、激しく咳込んだ坊ちゃんによって無残にも打ち砕かれることとなる。そ、そんな。当然ながら、これには少しばかりショックを受けてしまった。
「……おい、こんなもの絶対客に出すんじゃないぞ…………」
小刻みに震えて息も絶え絶え、ご立腹の様子の坊ちゃんにお水を差し出そうとするが、私ははたと動きを止めた。
「もしかして、本日もご商談が?」
坊ちゃんの顔を覗き込む。その、猫を彷彿とさせる大きなつり目が動揺の色を見せたのを、私はけっして見逃さなかった。
「買い出しに行った時に、街で妙な噂を耳にしたんです。ヴォルケイノファミリーが、良い取引相手を見つけたって」
噂によると、例の取引相手というのが、やんごとなきご身分の少年なのだと言う。
噓であってほしいと、私は心底願っていたけれど、
「……奴ら、金払いはいいんだ」
坊ちゃんは、いっこうに首を横には振ってくれなかった。なぜ、だろう。……学校に通い続けるための奨学金だって、十分とはいかないまでも足りているし、万が一足りなくなったとしても、私が副業で稼いだ分のお金を上乗せすれば、なんてことないはずだった。
「坊ちゃんはおそらく、薄汚い大人たちに騙されているのでしょう……? ヴォルケイノファミリー……人の弱さに付け込むなんて、許せない…………!」
それでも坊ちゃんは、ひたすら、ただひたすら息苦しそうに、
「僕を軽視してくれるな」――そう、言い終わらないうちにふらふら倒れてしまった。
「大変……!」
私は急いで背中を支える。
「たいしたこと、ない……どうせ、軽い貧血だろ」
「しかし」
「ふわ、あ…………少し、膝を借りるぞ。最近よく眠れていないんだ」
どうしてそこまで、倒れるまで、頑張るんですか――問いただしたくなるのをぐっと堪えて、そのまま、私はおとなしく坊ちゃんに応える。
「……では坊ちゃん、耳かきをいたしましょう」
「ああ、そうしてくれ――」
坊ちゃんはすぐに、まるで幼き日の記憶を思い出したかのようにぐっすりと眠ってしまった。安心しきった寝顔を見たら、なんだか、全身から力が抜けていくようだった。
……まったく。無茶しすぎなんですよ、坊ちゃんは。
メイドの独り言は、主人の耳には届かない。
残念なのか安堵したのか、自分でもわからぬまま、ほうっとため息をついた。
それにしても、坊ちゃんの膝枕になるのなんていつぶりだろうか。ふいに窓を眺めてみれば、すでに、穏やかな西日が私たちを包み始めていた。