第四章 地祈の罪
夜も更け、囲炉裏の火が静かに揺れていた。真紅は先ほどから冷蔵庫へ氷菓を取りに行ったまま姿を見せない。
久保田柑那と井関藍羽は湯呑を片手に、囲炉裏を挟んでディアナ・グリーンフィールドと向き合っていた。
「……それにしても」
ディアナがぽつりと口を開いた。
「やっぱり、あの時の地力は強すぎたのよ。三人で分けたとはいえ、真紅にはまだ重すぎたのかもしれない」
二人は黙って頷いた。訓練の場面が、鮮明に脳裏に浮かぶ。
「あなたたちも知っているとは思うけれど……私たちが田剣ノ儀で得る地力は、そもそもこの世界のすべての生命に微かに宿っているものなの」
「うん。だから、祈祷隊が全国を回って、民とともに祈祷して……少しずつ地力を集めるわけだよね」
久保田が言葉を繋ぐ。
「そしてその地力を、訓練用として私たちに譲渡する……」
「ええ。祈祷隊の力はとても大切。でも、効率が悪いの。エリートの祈祷隊員が各地を巡って長い時間をかけて、やっと一部の地力を集めるだけ」
「だから田剣ノ儀が、国家として重視される」
藍羽が頷いた。
「儀式の勝者には、豊穣神から莫大な地力がギフトとして与えられる。……祈祷で集めたものとは、桁が違う」
ディアナの視線が囲炉裏の炎に落ちる。
「本来、地力というのは……生命の証そのものなの。人も、動物も、植物も、すべてが微かに持っている。それを強引に奪えば……命ごと、失うことになる」
久保田の表情がわずかに強張る。
「農業大戦……だよね」
「ええ。今の田剣ノ儀になる以前、私たち機巫女——当時は“忌実呼”と呼ばれていた存在たちは、地力を得るために他国の民を殺し、収奪していたの」
「……そんな時代が、本当に……」
「惨かった。忌実呼たちは、自国の農業を維持するために殺し合った。命を捧げてでも地力を確保しなければ、国が飢える時代だったから」
囲炉裏の火が、ぱちぱちと小さく弾ける音だけを響かせた。
「その時代の終焉は……世界各国の忌実呼が同時に“神託”を受けたことで始まったの。世界に共通する存在——豊穣神の存在が、突然顕現したのよ」
「それで、田剣ノ儀に?」
「ええ。血の殺戮ではなく、祈りと儀式による力の獲得へと。豊穣神に奉納し、認められた者がギフトを得る。その形式が広まって、今の儀が形になった」
ディアナは、ふと湯呑を置いて、炎を見つめたまま静かに言葉を紡いだ。
「……その地力を、制御し損ねたのが、あの子だったの」
久保田と井関が、わずかに目を見開く。彼女たちも何かあったことはうすうす勘づいていた。ただ、それが真紅自身の過去に直結していたとは思っていなかった。
「祈祷隊が集めた貴重な地力。あの年の国家農業計画の中でも、特に重要なリソースだったの。訓練のためとはいえ、それを保持・制御する任務を任されたのが——まだ修行中だった、矢那真紅」
囲炉裏の火が、静かにゆらめいた。誰も言葉を挟まなかった。
「保持とはね、コップに水を並々と注いで、それを揺らさずに運びきるようなもの。しかもその水は、ほんの少しでもこぼせば大地が干からびるような——“命”そのものなのよ」
「その時の保持時間は……確か、三十六時間だったか」
ディアナの口調が少し硬くなる。
「国土の1割に相当する地力。それを、彼女一人で抱えていたの」
「えっ、一人で……!?」
久保田が思わず声を漏らす。
「本来は三人で分担するはずだった。でも、その時はどうしても条件が揃わず、最終的に真紅が一手に引き受ける形になったの。まだ十二の時よ」
藍羽が思わず息をのむ。
「祈祷隊が長期間かけて集めてきた地力……それを、彼女は保持しきれず、暴発させてしまった」
「爆散事故……」
「全国に還元されるはずだった地力は、空中に霧散した。取り戻すことはできなかった。あの年、土は痩せ、作付け計画は崩れ、多くの農地が回復不能なダメージを負った。地力を借りて育っていた作物も、次々と枯れていった」
囲炉裏の火が、重く落ち着いた影を部屋に投げかける。
「そのすべての責任を、誰も彼女には問わなかった。でも、あの子自身が……誰よりも、自分を許さなかった」
ディアナはそこで言葉を切った。湯呑の中の残りの湯を見つめながら、どこか遠い記憶を探るように。
「……あれ以来、彼女は保持訓練に強い苦手意識を持つようになった。地力を抱えるたびに、あの瞬間を思い出す。——自分が、世界を壊してしまうのではないかと」
しん、とした時間が流れた。
久保田が、小さく呟く。
「そりゃあ……あんな顔になるよね、訓練のとき……」
藍羽が、ぽつりと口を開く。
「でも、真紅、一言も弱音吐かなかったよ。地力が流れかけても、土に還元し終えるまで……ずっと」
「むしろ、気づかれないように我慢してたよね。あたしたちに迷惑かけたくないって、そういう顔してた」
久保田が、ひとつ息を吐いた。
「それがさ……ちょっと、悔しいよね」
「え?」
「だって、三彩機奏って……三人でやるための名前なのにさ。一人で背負っちゃったら、それ、意味ないじゃん」
藍羽は目を伏せて、小さく頷いた。
囲炉裏の火がぱちりと鳴る。
ディアナは静かに二人を見つめていたが、やがてふっと、やわらかく微笑んだ。
「あなたたち……本当に、いい仲間ね」
久保田が少し照れくさそうに肩をすくめた。
「仲間っていうか……もう、家族みたいなもんですよ。時にはムカつくし、言い合いもするけど……なんだかんだ、放っておけないんです。」
「それでいいのよ、シンクには、そうやって笑ってくれる人が必要なの。——あの子は、自分ひとりで罰を受け続けようとするところがあるから」
藍羽が静かに湯呑を握りしめた。
「だったら、あたしたちがそばにいてやらなきゃね。……この“道”を三人で歩くって決めたんだから」
「ただいまー」
真紅が土間から顔を覗かせた瞬間、囲炉裏の三人はビクッと反応した。
「……あれ? なにその微妙な間?」
真紅が首を傾げて笑いながら近づくと、久保田が慌てて湯呑を両手で覆う。
「いや〜、別に何でもないよ? ね、藍羽?」
「え? えっ、う、うん……その……地力の理論的持続性について話してて……」
「なにそれ絶対ウソでしょ!?」
真紅がじと目でふたりを見つめる横で、ディアナがふっと目をそらす。
「そ、そういえば藍羽、さっき“好きな煮物の具はごぼう”って熱弁してたよね〜!」
「ちょっ……柑那さん、それ関係ないですっ!」
湯気の上がる囲炉裏を囲み、笑い声が弾ける。
でもその笑いの奥には、言葉にしない優しさがひっそりとあった。
誰も責めない。過去も急かさない。ただ、今を共有することに意味がある——。
夜の静けさの中、囲炉裏の火がぱちりと音を立てて弾けた。