第一章 土の香、祈祷の重
朝の光が湿り気を帯びた田の水面に射し込んでいた。まだ肌寒さの残る春先、三彩機奏の三人は今日も田に出ていた。
「じゃ、やろっか!」
真紅の声が響くと、久保田と藍羽が無言で頷く。
畦道に立っていた小橋家の作業機娘が、胸元に手を当て軽く目を閉じる。呼吸とともに、彼女の背後に淡い光が収束し、小さな鍬のような形状をとって空中に具現した。形は、昔“ロータリー”と呼ばれた農機を模したものと聞くが、今の人々にとってはごく普通の農具だ。
「お待たせ」
「ありがと、助かる」
作業機娘が地力を調整して生成した農具は、あくまで“農作業用”に地力を抑えたもの。戦闘用とは比べものにならないが、だからこそ日常に馴染んでいる。 三人は生成された鍬を手にし、間隔を空けて整列した。
「昔はさ、機械で耕してたんだってよ」
久保田がぽつりと呟く。鍬を肩に担ぎながら、笑うように。
「へえ……」
真紅は曖昧に返し、空を見上げる。太陽はまだ低く、田の水面に反射してきらきらと揺れていた。
今の時代、農を支えるのは人の力だ。大戦で失われた技術と引き換えに、人は土と、そして地力と向き合うようになった。
「行くよ」
井関藍羽の合図とともに、三人は鍬を構えた。
斜めに構えた刃が微かにうなりを上げ、次の瞬間、真紅の鍬が鋭く振り抜かれる。
ザクッという音とともに、土が縦に割けた。斬撃のように走った地力の波が、幅およそ二メートル四十、長さは五十メートルに渡って田面を耕していく。
久保田、藍羽も続けて振り抜く。三本の筋がぴたりと平行に、まるで定規で引いたような正確さで田を刻んでいく。
これが、機巫女の農作業だ。
昔なら五十人がかりで丸一日かかった仕事が、彼女たちならわずか数十分で終わる。
それでも、これが“普通”であり、特別ではない。
のどかな田園に、鳥の声と鍬の音だけが響いていた。
耕し終えた田面を背に、三人は畦道に腰を下ろした。
春の陽が穏やかに照らし、少し汗ばんだ頬に風が心地よい。
足を伸ばし、深呼吸。しばしの休憩が始まる。
「はい、お待たせ~。今日のおにぎりは塩と梅と……あとちょっと崩れてるやつ」
久保田柑那が包みを開き、竹の皮を広げる。すでに井関藍羽の手が伸びていた。
「……これ、三個とも藍羽用じゃないからね!」
「うん。とりあえず一個」
「“とりあえず”の時点で信じられないんだけど……」
真紅が笑いながら、残りのおにぎりを手に取る。
ひと口かじると、ぎゅっと塩味が効いていて、朝からの疲れが少しほどけた。
「はー、やっぱこれだね」
「うん……米は、正義」
藍羽がもぐもぐと無表情で二個目を手を伸ばした。
その手をピシャリ!と柑那が叩く。
何事もなかったかのように。
「今日、土深かったから……エネルギー消費、多め」
「いや理屈が通ってるようでおかしい!」
三人の笑いが風に溶ける。
アグリガルドから戻ってきてから、どこか空気が柔らかくなった。
戦いは激しかったけれど、言葉の掛け合いにも少しずつ余裕が出てきた気がする。
「ねえ、そういえば藍羽って兄弟いたっけ?」
「……姉が一人。祈祷隊、正規枠」
「おー、エリートだ」
「真面目すぎて、融通効かない」
ぽつぽつと続く会話のなか、真紅も自分の家のことを思い出す。
「うちは相変わらずだよ。朝から母さんに“腕が甘い”って怒られて、鍬振って出直し」
「それ日常なんじゃ……」
「まぁ……あの人、地力に一番厳しいからね。訓練中でも“祈祷で借りた力を無駄にするな”って怒鳴られるし」
そこまで言って、真紅はふっと黙った。 久保田が、そっと笑っておにぎりを差し出す。
「じゃあ、これ食べて元気出して。っていうか、藍羽が二つ目行く前に早く」
「……あ、ほんとだ」
「バレてた」
にこにこしながら、差し出した手をスッと戻す藍羽。その手の動きだけは、妙に素早い。
騒がしくも、どこか安らぎに満ちた昼前の一幕。 作業が終わり、腹が満たされ、言葉を交わせる相手がいて。 そのことが、どれだけ貴重で幸せなことか。今の彼女たちは、まだ気づいていない。
* * *
時は流れ、三人は祈祷隊の訓練場にて、神棚の前に正座し、瞑想を続けている。現在は訓練開始から二十一時間が経過していた。
彼女たちが今行っているのは「地力保持訓練」──戦いに勝利した際に得る膨大な地力を、国土への還元が可能となるまで保持し続けるための技術修練である。
田剣ノ儀において得られる地力は極めて高密度なエネルギーである。それを無傷で持ち帰り、自国の田畑に“賜与”することこそが、機巫女たちに課された最大の責務だ。
訓練に用いられている地力は、祈祷隊が全国の住民と共に祈祷を行い、微細ながらも確かに集めてきたもの。
それは国民からの祈りと期待そのものであり、本番と同様の緊張感が彼女たちにのしかかっていた。
その表情に余裕はない。
額の汗は止まらず、衣の下の肌からも微かな震えが伝わってくる。だが、なかでも最も辛そうなのは、矢那・真紅だった。
井関藍羽はふと隣の真紅に目を向ける。
目を閉じた彼女の顔は、苦悶に歪んでいた。
(……もし、あの時フリーデに勝利していたら。これほど強大な地力を保持したまま、国に帰らなければいけなかったなんて……)
そんな思いが、藍羽の胸を過った。
静けさに包まれた空間で、地力の粒子だけが僅かに揺れている。
そして——
突如、真紅の身体が激しく震えた。周囲の空気が一瞬ざわつく。
「っ……!」
真紅は突然、立ち上がると、何かに追われるように訓練場の外へと飛び出した。
「矢那!」
慌てて小橋の作業機娘が神器を持って走り出す。事態の異常を察し、地力の暴発に備えていたのだ。
訓練場の外、まだ湿り気の残る畦道に駆け出た真紅は、胸を押さえて膝をついた。
肩が上下し、制御できないほどの地力が彼女の体内で暴れ出す。
「神器、受け取って!」
小橋が叫ぶようにして、神器を手渡す。
真紅はそれを受け取ると、必死に地面に刃を突き立てた。
瞬間、刃が突き立った大地から、淡い光が湧きあがる。 それは祈りの余熱のように震えながら、静かに、静かに土壌へと吸い込まれていった。 混濁と焦燥の気配を帯びたまま、それでも最後には美しく、命の根へと還る——。
深く、長い呼吸。 しばしの沈黙の後、ようやく光は収まり、真紅はその場に倒れ込んだ。
訓練は、失敗に終わった。