第五章 祈りの後に
空は澄み渡り、冷たい大気にわずかに土の香が混じっていた。畑の中央、簡易の石舞台の上で、フリーデ・ヴァイスが静かに膝をつく。
その手には、いましがたの激闘を制した証——青く鈍く輝く剣が握られていた。
作業機娘レムケンブルク・イーデは一歩も動かず、剣とともに大地に向けて両の掌を差し伸べる。剣を通して大地へと地力を還す“媒介”の儀式が、今まさに始まろうとしていた。
神官が祭文を詠み始める。アグリガルドの古語が低く響き、詠唱隊のコーラスが重なる。声は風に乗って圃場全体に広がり、草葉の先すらもそれに反応するかのように震えた。
フリーデは目を閉じ、剣をそっと地に突き立てた。刹那、大地が微かに震える。
剣の根元から広がる金青色の光が、土中に吸い込まれるようにして消えていく。
静寂が満ちる。
それは凱旋でも誇示でもなく、ただ大地と向き合い、己が務めを果たす者としての所作だった。フリーデは何も語らず、何も求めず、ただ剣に手を添え続けた。
その様子を、三彩機奏の三人は静かに見つめていた。
「……ほんと、化け物ね。あの人」
柑那が、どこか苦笑い混じりに呟く。
「でも、届きかけた」
藍羽が静かに言った。視線は一点を見つめて揺るがない。
真紅は言葉を発しないまま、拳を握っていた。だがその表情に、涙や絶望はなかった。息を吸い、ゆっくりと吐く。
「悔しい、けど……」
「——またやろう。次こそは」
三人の視線が自然と交差する。声は小さくとも、そこに迷いはなかった。
式が終わると、フリーデは静かに立ち上がった。剣はその役目を終え静かに消えていった。
彼女の背中には、勝者としての誇りではなく、使命を全うした者の静かな敬意が宿っていた。
やがて、日輪国側の神官たちが仮説の祭壇へと向かう。
日輪国の神事——《地鎮奉納之儀》は、アグリガルドの厳かさとは違う、静謐な美しさをたたえていた。
白装束の神職が榊を掲げ、巫女が鈴を鳴らす。祝詞が詠まれ、玉串が奉られる。
三彩機奏の三人はそれぞれ、静かに祈りを捧げた。
それは敗北の報告ではなかった。道の途上であることを、神に証する儀式だった。
——私たちはまだ、終わっていない。
そう告げるように、三人の影が夕陽に長く伸びていた。
その夜、戦いが無事に終わったことを祝う祝宴が、迎賓館にてささやかに開かれた。儀式に携わった各国の関係者が集い、杯を交わし、戦いの終結を静かに祝福した。
バルコニーに出た三彩機奏の三人は、夜風に吹かれながら並んで腰かけていた。空には星が浮かび、遠くから祝宴の音楽と笑い声がかすかに届く。
藍羽は無言で料理の大皿を抱え、黙々と次々に口へ運んでいる。彼女の背後には、すでに空になった皿が三枚積まれていた。
「相変わらずすごい食欲……」
柑那が呆れたように笑いながら呟き、真紅も小さく笑った。
会話はそれきり続かない。だが、不思議と気まずさはなかった。
隣に座る二人の存在を、確かに感じていた。
——あの戦いを、三人で乗り越えたこと。
それが、言葉を交わさずとも、心を通わせていた。
「……しかし、まさかここまでやれるとはな」
ふと背後から聞こえてきたのは、結城宗一郎の声だった。
グラスを手に、バルコニーの柱にもたれかかるように立つその表情には、心底楽しげな笑みが浮かんでいる。
「いやー、帰国したら上層部に詰められるのは確実だけどね。はは、まぁいいか」
彼は肩をすくめると、グラスを傾けて一口飲んだ。
「三人とも、よくやったよ。おかげで、久々にニヤニヤが止まらん」
真紅たちは顔を見合わせ、小さく息をついた。
「……私は、まだまだだと思った。途中、何度も意識が飛びそうだった」
「私は……全然冷静じゃなかった。足を引っ張ってばかりで」
「ううん……私は……楽しかった」
藍羽が口をもぐもぐさせながら呟いた。
「楽しかった、か。……でも、わかる」
真紅が苦笑し、柑那も頷いた。
それぞれに敗北を振り返りながらも、その顔には、確かな光が宿っていた。
その様子を、離れたテーブル席から結城宗一郎が眺めていた。口元には満足げな笑み。
(やれやれ……帰国したらどう怒られるか見当もつかないな)
そう思いながらも、彼は杯を傾けた。
「でもまぁ……いい成長だ」
ふいに、バルコニーの扉が開く。
「やっほー、みんなここにいたのね」
明るい声とともに現れたのは、フリーデ・ヴァイスだった。
戦場で見せた冷徹な顔とはまるで別人のように、にこやかで朗らかな笑顔。
頬は紅潮し、明らかに上機嫌。彼女の両手には特大の空のジョッキが握られていた。
真紅は目を丸くして、それから小さく笑った。
(……昨夜は控えめだったんだな、あれでも)
祝宴場では「フリーデがジョッキ三十杯空けたぞ!」と賓客たちがざわめいていた。
「真紅、それに……久保田、井関だっけ?」
彼女は一人ひとりに目を合わせながら、にこやかに頷く。
「いやー、すごかったね、あんたたち。あの連携、ゾクゾクしたよ」
そして井関の前に立ち止まる。
「……え、これ全部あんたが食べたの?何皿目?」
「たぶん十五くらい。でもまだ足りない」
「たくましい……!」
フリーデは笑いながら、自分の胸元を軽く叩いた。
「私ね、小さい頃に少しだけ他国にいたことがあるの。畑も田んぼもない場所でね、最初は土の匂いすらわからなかった」
語る声は淡々としていたが、どこか温かい。
「だからさ、今こうして大地と向き合ってるのが不思議なんだ。——でも、好きだよ、この仕事」
「……私たちも、もっと頑張る」
真紅の言葉に、フリーデは眩しそうに目を細めた。
「期待してる。次は本気で潰しに行くから、覚悟しててよ」
そう言い残し、フリーデはふらりと踵を返す。その背に、三人の視線が自然と引き寄せられた。
少し離れた場所に立っていたイーデが、静かに三人へと会釈する。
その仕草は、どこか誇らしげで、温かかった。
翌朝、列車の発着所には日輪国関係者たちが集まっていた。涼やかな朝の風が吹き抜け、昨夜の喧騒が嘘のように静かな時間が流れている。
結城宗一郎はというと、ひどくげっそりとした表情でベンチにもたれかかっていた。目の下にはしっかりとした隈ができている。
「昨晩……外交だからな、外交……」
誰にともなく言い訳のように呟くその姿に、柑那が肩をすくめて笑った。
「外交でワインとビール合わせて十何杯って、外交官も大変だね」
乗車の準備が整い、三彩機奏の三人が列車に向かおうとしたその時だった。
「矢那真紅!」
元気な声とともに現れたのは、フリーデ・ヴァイス。そしてその隣には、常と変わらぬ無表情のイーデの姿もあった。
昨夜とは打って変わって、フリーデの表情はきりりと引き締まり、軍人のような冷静さを取り戻している。
(酒が入るとあれだけニコニコになるのか……得な体質だよな、あれは)
真紅がそんなことを思っていると、フリーデが三人の前に立つ。
「昨日は楽しかった。ほんと、いい勝負だったわ。あれだけ食らいついてきた相手は久しぶりよ」
「……次は、勝ちます!」
真紅の目をまっすぐに見返し、フリーデは口角をわずかに上げた。
「それを聞けて安心した。あの火は、まだ燃えてるってわけね」
そのやりとりの横で、イーデが高北家の三姉妹と何やら話している。
「……いつの間にあんなに仲良くなったの?」
「やっぱ女の子同士って早いんだね」
柑那と藍羽が呆れ半分、微笑ましさ半分でその光景を見ていると、フリーデが少しだけ声を落として言った。
「——あんたたちがもっと強くなれば、この舞台ももっと面白くなる。期待してるよ」
そして短く手を挙げて、フリーデは踵を返した。
イーデも三姉妹へ静かに会釈をし、主のあとに続く。
汽笛が鳴った。
三人娘は車内へと乗り込み、それぞれの席に腰を下ろした。
揺れる列車の窓からは、アグリガルドの広大な地が遠ざかっていく。
誰からともなく、言葉がこぼれた。
「次は……勝ちたい」
「うん、あたしも」
「私は……もっと冷静に、皆を見ないと」
各々が、昨日までの自分と少しだけ違う言葉を口にする。
列車はそのまま、揺れる音と共に日輪国へと向かって走っていく。
——もうすぐ、田植えの時期。代掻き作業が始まる。