第二章 はじまりの畦
あの激戦から、まだ数日しか経っていないというのに——。
柔らかな風が初夏の稲の匂いを運んでくる。日輪国中部、標高の高い棚田地帯。三人の少女たちは、整然と植えられた苗のそば、畦に腰を下ろしていた。
「……おにぎり、うまっ。」
誰よりも先に声を上げたのは、橙色の制服を着こなした久保田柑那。頬をふくらませたまま、唇を尖らせるようにして言う。
「なーんかさあ。勝つと思ってたんだけどなあ、地力争奪戦。あたし、結構いけてたよね?」
井関藍羽は無言で小さく笑った。クールな視線のまま、手元の弁当箱からもう一つ、大ぶりの鮭おにぎりを手に取る。
「……私が勝っちゃって、ごめん。」
「いやいや、別に藍羽ちゃんが悪いわけじゃ……って、あれ? もうそれ何個目?」
「……四つ目だけど?」
矢那真紅が吹き出した。カーゴパンツのポケットから手ぬぐいを取り出し、口元をぬぐう。
「隠してたね、井関って、意外と食べる方なんだ」
「べ、別に隠してないし……!」
動揺して赤面する井関をよそに、久保田は頬を膨らませてから笑い崩れた。
「やだ〜、可愛いとこあるじゃん! 冷静キャラ崩壊〜〜〜」
「うるさい……! 戦闘のときと、今は違うだけ……」
真紅は、そんな二人の様子に目を細めながら、畦の向こうに広がる田の光景へと視線をやった。山肌に沿って重なる水田は、まるで鏡のように空を映し、さわさわと風に揺れていた。
「でも……悔しかったな。あのとき、最後の一閃、反応が一歩だけ遅れたの、自分でわかってた」
「うん、真紅ちゃんのあの攻撃、正直ちょっと怖かった。軌道、すごく読みにくかったもん」
井関が真剣な表情でうなずく。
「私も正直、勝てると思ってなかった。あれ、ほんと、ギリギリの判定だったらしいし」
「そっか……」
真紅はおにぎりを見下ろしながら、小さく息をついた。
「悔しかったけど、でもちょっとだけ、納得してる部分もある。あたし、まだ“独り”の戦い方に慣れすぎてたのかも。昔から、誰かと組んで戦うって、苦手でさ」
「……それ、あたしも思ってた」
久保田が口を開いた。
「なんだろ。仲間がいるって、心強い反面、どこか頼れないって思ってた。自分がなんとかしなきゃって、背負いすぎてたのかな」
「……でもさ」
真紅が視線を二人に戻す。
「こうして肩並べて、おにぎり食ってるとさ、なんか……ちょっと、変われそうな気がする」
その一言に、沈黙が落ちる。やがて、井関がふっと微笑んだ。
「変わるって、きっと悪いことじゃないよ。少なくとも……この景色を、守るためなら」
「うん。あたしたち、三人なら、もっと強くなれる」
久保田が空に掲げたおにぎりをかじる。
「だから藍羽ちゃん、ちょっとその…分けて?」
「だ、だめ。これ最後の一個……!」
風が稲を揺らし、少女たちの笑い声が広がった。
その刹那——背後から、軽く草を踏む音がした。
「——やあ、楽しそうだね、三人とも」
畦道に草を踏む軽やかな音が響いた。振り返ると、黒地の神服に身を包んだ男が立っていた。胸には、日輪国の象徴である「稲の双葉」紋章と、農禦神政庁の官印が刻まれた腕章。
「結城さん……!」
矢那真紅が思わず立ち上がる。久保田と井関も、おにぎりを慌てて仕舞った。
「驚かせたなら悪かった。田んぼの畦で食べる飯は美味いだろう? 俺も昔はよくやったよ」
どこか懐かしむように言いながら、彼——地鎮監・結城宗一郎は、三人を見渡した。
「地力争奪戦、よく戦い抜いてくれた。あれは“儀式”であると同時に、“選定”でもあった」
彼の声は、風に溶けるように静かだったが、はっきりと重みがあった。
「正式に通達がある。日輪国は君たち三人を正式にスリーマンセル体制として認可。以後、君たちは一つの部隊として行動してもらう」
久保田がきょとんとした表情を浮かべる。
「え、つまり……仲間ってこと?」
「そう。“三彩機奏”——これが、君たちの部隊名だ」
風が再び稲を揺らし、三人の間に新たな絆が芽吹いていく。
―訓練と衝突、そして旅立ち―
その翌朝。三人は訓練場に集まっていた。
場所は日輪国・中部演習地の一角。棚田地帯を利用した地形に、地力感応式の仮想戦闘フィールドが展開されている。自然の地形を活かしたステージは、まさに田畑の戦場であった。
結城宗一郎が、三人の前に立つ。その背後には、黒髪をツインテールにまとめた少女がいた。制服は作業着風で、袖に高北家の家紋。牧草を象った意匠が織り込まれている。
「紹介しよう。彼女が、君たち“三彩機奏”に協力する作業機娘——高北繋葉だ」
繋葉はぺこりと一礼し、にっこりと笑った。
「はじめまして! 高北繋葉っていいます。テッターの担当ですっ。武器のこと、何でも相談してくださいね!」
「……テッター?」
久保田柑那が首をかしげる。繋葉は誇らしげに胸を張った。
「はい! 草を、こう、ばさーって拡げる武器です!」
「ばさー……」
井関藍羽がわずかに目を細めた。真紅は微笑しながら、繋葉に手を差し出した。
「よろしく。私たち、まだチームになったばかりだけど……君の助けが、きっと鍵になると思う」
「は、はいっ! 任せてください!」
こうして、スリーマンセルの訓練が始まった。
最初はぎこちなかった。繋葉が生成した武器——《テッター・ブレード》は、広範囲をなぎ払う回転系武器。制御が難しく、三人の動きとまったく噛み合わない。久保田のパワー重視の突撃が空を切り、井関の精密な攻撃が味方の動線を塞ぎ、真紅の連携呼びかけも空回りした。
「違う! あたしが先に動いたら、合わせてくれないと!」
「久保田さんが急に突っ込むから、フォローできないの」
「なによ、その言い方!」
四日目の訓練。フィールドの端で、二人は激しく言い合った。
「……やめようよ」
矢那真紅が、間に入ろうと声を上げる。しかし、その声は二人の怒声にかき消された。
「自分勝手なのはそっちでしょ!」
「だったら一人で戦えば?」
繋葉が不安そうな目で見つめてくる。
真紅は、拳をぎゅっと握った。
——まただ。私は、こういう時、うまく言葉が出ない。
久保田は苛立ちを露わに、足早に訓練場を出ていく。井関も背を向け、無言でその場を去った。
真紅はその場に立ち尽くした。
繋葉が、そっと声をかける。
「……真紅さん。大丈夫ですか?」
「……ううん。私、まだ“隊長”なんて名乗れる器じゃないね」
稲が揺れる音だけが、耳に残った。
⸻
二日後——。
田剣ノ儀の前々日。
スリーマンセルとしての訓練がうまくいかないまま、出発の時が来た。場所は、日輪国首都・神州駅前の列車プラットホーム。外交儀礼団に同行するかたちで、三人と繋葉は専用列車に乗り込もうとしていた。
久保田は黙ったまま乗車口に立ち、井関も無言でその横を通る。真紅だけが、二人に小さく声をかけた。
「……行こう。田剣ノ儀は、待ってくれない」
車内には、どこか重苦しい沈黙があった。繋葉だけが、何かを言いかけて、飲み込んでいた。
やがて——車窓の向こうに、異国の大地が広がる。
目的地は「大地の盾」アグリガルド国。ドイツを思わせるこの農業国家にて、日輪国代表として、三彩機奏は初の対外戦闘神事に臨むのだった。
⸻
列車の窓の向こうに、石造りの街並みが広がっていた。
日輪国の代表部を乗せた外交列車は、アグリガルドの首都へとゆっくり進入していく。赤茶けた屋根瓦が斜面に連なり、教会の尖塔と風車が点在する風景は、どこか昔話の挿絵のようでもあった。
「……着いたんだね」
矢那真紅は、車窓越しにその街並みを見つめながら、ぽつりと呟いた。
車内は静かだった。久保田柑那と井関藍羽は互いに視線を交わすこともなく、黙ったまま席に座っている。高北繋葉だけが、少し緊張した面持ちで立ち上がり、制服の裾を正した。
やがて列車が停車し、乗客たちが次々に下車する。
駅では、アグリガルドの迎賓団が整列していた。大柄な護衛兵と、伝統衣装に身を包んだ案内係が並び立つ。日輪国代表団一行はその列に迎えられ、儀仗隊の演奏に送られながら駅前広場を後にした。
そのまま、専用車列によって郊外の迎賓館へと移動する。窓外には、ぶどう畑とジャガイモ畑が交互に現れる田園風景。丘陵地の農地はどこも整備が行き届いており、その底力がひしひしと伝わってきた。
⸻
晩餐会は、石造りの荘厳な迎賓館で開かれた。
長いテーブルの上には、蒸した芋、黒パン、ハーブの効いたスープ、そしてこの国では珍重されるソーセージが皿に並んでいる。会場には日輪国側とアグリガルド側の代表が着席し、穏やかな音楽が流れていた。
「……うわっ、この芋、めちゃくちゃホクホク……!」
井関藍羽が、頬を赤らめながらフォークでじゃがいもを頬張る。皿の隅には、すでにパンが二切れ、スープのカップが空になっている。
「ちょっと井関、早くない……?」
久保田柑那が呆れ顔で見つめるが、井関は気にする様子もなく、今度は黒パンをかじった。
「……このライ麦の香り、たまらない……っ。ソーセージもすごく肉が濃い……!」
「ま、まあ、慣れない土地で緊張してるのかもね……」
矢那真紅が苦笑しながら言う。
その横では、結城宗一郎がビールジョッキを傾け、顔を赤くして笑っていた。
「いや〜、異国の酒はいいねぇ! こういうときに気取らず呑めるのが、外交の醍醐味ってもんさ……はははっ」
「結城さん……その、ご無礼にならないよう、お気をつけてください」
矢那はやんわりと、しかし丁寧な敬語で諫めた。
「おっと、すまんすまん。これでも、酔ってるようで締めるとこは締めるタイプだからな」
口調はふざけていたが、目元にはしっかりと警戒の色が残っていた。
久保田と井関は、相変わらず互いにあまり目を合わせようとしない。皿の上の料理が減っていくのとは裏腹に、距離感は少しも縮まっていなかった。
矢那は、その空気を感じ取りながらも、どう言葉をかけるべきか迷っていた。
「(どうすれば、二人の間を繋げられる……?)」
考えあぐねる彼女の前で、次の瞬間——
高らかなファンファーレが鳴り響いた。
ホールの扉が開かれ、一人の女性が堂々と姿を現す。