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地鎮ノ機巫女 JICHIN NO KIMIKO  作者: 農機具男
第二部 地祈の道
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第十章 この地に、実りあれ

【第十章 日常への帰還】


 還元の儀から、二日。


 風は柔らかく、空は果てしなく高かった。田んぼの水面は完璧な鏡のように空を映し、新緑の草の匂いが地を這うように漂っていた。


 久保田柑那は、国家食糧管理開発局が運営する地元の甘味処で、トレーの上に宝石のように並んだスイーツを嬉しそうに見つめていた。ソフトクリーム、牛乳寒天、チーズタルト、そして……季節限定の苺ミルクパフェ。これだけで一般市民の1週間分の食費が吹き飛ぶ贅沢な品揃えだった。


「ふっふっふ……戦い抜いた女に甘味は不可欠なんよ」


 スプーンを手に、何から食べようかと真剣に悩む柑那。


 その顔は戦場での緊張とは打って変わって、年相応の無邪気さに満ちていた。


 あの激闘が嘘のように思える。今こうして好きなスイーツを前にしている自分が、ほんの数日前まで国の命運を背負って戦っていたなんて。


 店内のラジオから流れる農業天気予報の声も、なんだか今日は特別心地よく響いている。日常の音が、こんなにも愛おしく感じられるなんて。


 一方、井関藍羽は、自宅裏の整備小屋に籠もっていた。


 農機具の点検や微調整は、彼女にとって日課であり、同時に心を整える瞑想でもある。


 戦いの記憶を手の中に感じながら、丁寧に刃の調整を終えたあと、藍羽はふと、天井を仰いだ。


 窓際に置いた鍬に木漏れ日が落ち、風に揺れる葉影が静かに踊っている。


「……やっぱり、この空気が落ち着く」


 戦場では決して見せなかった、柔らかな微笑がその口元に浮かぶ。


 勝利は確かに手にした。地力の奔流も乗り越えた。


 けれど、それ以上に嬉しいのは、今、こうして"日常"を取り戻せているという実感だった。


 この小屋の匂い、工具の重み、すべてが自分の居場所を確認させてくれる。


 そして——。


 矢那真紅は、母・澄乃の祈祷所の裏手に広がる畑の畔に、一人静かに腰を下ろしていた。


 土の温度、風の重さ、命の気配。それらすべてが、今の彼女にとって確かな"帰る場所"だった。


 あの激闘を乗り越えてなお、変わらずここにある大地。


 かつては恐れていたこの感触に、今なら心から触れられると思えた。


 目を閉じる。


 脳裏に、あの瞬間が鮮やかに浮かぶ。


 ——体を焼くような地力の奔流。


 ——砕け散る寸前だった《風駆》。


 ——柑那の、ぶっきらぼうだけれど温かい気合。


 ——藍羽の、黙って握ってくれた震える手。


 そして。


 ——あの人の、揺るぎない声。


「……シンク。あなたならできる」


 口に出した瞬間、胸が温かくなった。


 空を仰ぐ。日輪の空は、どこまでも高く、柔らかく、優しい。


 かつての自分なら、この風に心がざわついていた。


 恐怖で、罪悪感で、自分への不信で。


 けれど今は、違う。この空と地と風が、自分のすべてを受け止めてくれる気がする。


(私は、もう独りじゃない)


 十二歳の冬に見た悪夢。作物を枯らしてしまった罪責感。


 自分だけが足りないと思っていた日々。


 でも、柑那も、藍羽も、共に支えてくれた。そして——ディアナも。


 あの人が本気を出していれば、私たちは勝てなかった。


 それでも、勝たせてくれた。——その意味が、今ははっきりとわかる。


 真紅は静かに立ち上がり、掌を畑にそっと添える。


 土の温もりが、手のひらを通じて心に伝わってくる。


「……この地に、実りあれ」


 それは、祈りでもあり、約束でもあった。


 もう二度と、この大地を傷つけはしない。


 この力を、愛する人たちのために使う。


 


    ◆


 


 ユナイテリア連邦本部、アグリルーム——。


 巨大なガラス壁の向こうには、穏やかな大草原が広がっていた。


 乾いた空気を切り裂いて回る風力発電機の音だけが、遠くにかすかに聞こえる。


 ディアナ・グリーンフィールドは、窓際の椅子に腰を下ろしていた。


 キャップは外され、膝の上に丁寧に畳まれている。


 肩にかかる三つ編みが、微かな風にほんの少しだけ揺れた。


 戦いの疲労は既に癒えている。しかし心に残るのは、疲れではなく、静かな満足感だった。


「You、やっぱり"わざと"負けたんだろう?」


 向かい側。日焼けした肌のスーツ姿の男が、脚を組みながら率直に問うた。


 ユナイテリア戦略局・農業外交担当官。高官というより、酪農家上がりの現場主義者という方が似合う風貌だった。


 ディアナは少しだけ視線を上げ、口角をほんのわずかに緩めた。


「……ふふっ。どうかしらね?」


 曖昧に微笑む。そこには肯定も否定もなかった。


 ただ、一つの成長を見届けた者の静かな誇りだけがあった。


 あの子たちの戦いを思い出す。特に、真紅の目に宿っていた光を。


 恐怖を乗り越え、仲間と共に立ち上がったあの瞬間を。


「まったく……。ま、悪くない判断だと思うけどな。おかげで日輪の子たちは確かに一皮むけた。あの子、矢那って子……ずっと背負ってたんだろ? あの事故のこと」


「ええ。——でももう、大丈夫よ」


 短くそう返し、ディアナは立ち上がった。


 窓の向こうの空が、どこか遠い日輪の空と重なって見える。


「彼女の中に、仲間がいる。それだけで、世界は変わるの」


 それは、自分自身の過去にも重なる真理だった。


 かつて独りで戦っていた自分が、エリーとレイナに出会って変わったように。


 部屋を出て廊下を歩くと、奥の待機室からふと気配が漏れ出た。


 ——エリー・モアとレイナ・モア。ディアナの専属作業機娘たちだ。


 「おかえりなさい、ディアナ!」


 先に駆け寄ったのは、エリー。


 髪を弾ませながら、少女のような無邪気な笑顔を見せる。


 その明るさが、戦いの重圧を忘れさせてくれる。


 「ふふ、お疲れ様です」


 後ろから歩いてきたレイナは、銀の瞳に静かな光を湛えていた。


 いつも通りの落ち着いた様子だが、その目には安堵の色が宿っている。


 「お二人とも……ありがとう。あなたたちの支えがあって、私も最後まで立っていられたわ」


 心からの感謝を込めて言うと、二人は嬉しそうに微笑んだ。


 「でもでも、最後、ちょっと手加減してたよね?」


 エリーがいたずらっぽく小声でささやくと、ディアナは少しだけ苦笑した。


 やはり、気づかれていたか。


 「……そんなふうに見えた?」


 「うん、だって……"あの斬り"なら本気出せば、全部貫けたもの」


 エリーの指摘は的確だった。確かに、最後の一撃には余力を残していた。


 「……どうかしらね?」


 再び、そう答えてみせる。


 エリーもレイナも、それ以上は何も言わなかった。


 ただ、主のその選択を尊重するように、静かに並んで歩いた。


 窓の外、風に揺れる牧草の波。その向こうに、遠く日輪の空が重なって見えた。


 あの子たちは今頃、故郷の大地で何をしているだろうか。


 


    ◆


 


 午後の陽が、淡く傾きはじめた頃。


 祈祷所の縁側に座り込んだ矢那真紅の隣で、結城宗一郎が湯飲みを片手に大きな欠伸をひとつついた。


「なんだか、ずいぶん穏やかな顔になったな、おまえさん」


「そう……ですか?」


 真紅はゆっくりと肩をすくめる。


 昨日までの痛みが嘘のように、胸の奥が軽やかだった。


 重い鎧を脱ぎ捨てたような、自由な感覚。


 そういえばと真紅が口をひらく。


「他国での田剣ノ儀って、終わったら即帰国ってのが普通なのですか? 外交儀礼とか晩餐会とか、ああいうのは…?ディアナさんにも、きちんとお礼したかったし……」


 真紅の呟きに、結城はくいっと湯飲みを傾けてから肩をすくめた。


「はからいだよ。遠征先で勝利した場合、地力保持しながらの帰国ってのはどの国でも一大事ってのが共通認識でな。ああいう莫大な地力を制御しながら異国の地に留まるのは危険すぎるからな」


「……あ」


 真紅の目が見開かれる。


 言われてみれば、なるほどと思える話だった。


 あの時の苦しさを思い出す。確かに、一刻も早く帰国する必要があった。


「だから外交儀礼は"勝者が後日、相手国を招いて接待する"ってルールでね。儀礼の順番を入れ替えるだけ。まあ、融通の利いた神様のおかげってやつだ」


「ってことは……!」


 真紅が弾かれたように振り向く。


 胸の奥に、希望の火がともった。


 結城はニヤリと口角を上げて頷いた。


「また、あの"姉気分"に会えるな」


 その一言に、真紅の胸がほんのり熱くなる。


 ディアナの顔が脳裏に浮かぶ。あの優しい眼差し、確信に満ちた声。


 どこか遠くの空が、今も自分たちを見てくれているような気がして。


 


    ◆


 


 虫の音が、風に溶けていた。


 まるで祈りの残響のように、畝と畝のあいだに優しく降り積もっていく。


 夜の畑は、昼の喧騒とはまるで別の場所のように静かだった。


 満天の星空の下、月がたゆたうように水田の水面に揺れている。


 少し湿った夜風に、土と緑の香りが溶け合っていた。


 矢那真紅は、その風を胸いっぱいに吸い込むと、ゆっくりと吐き出した。


 戦いを終え、還元を終え、それでもまだ心のどこかに残っていた"なにか"が、ようやく静かに、深く、自分の奥へと沈んでいくのを感じた。


 この場所に立つのは、いつぶりだろう。


 あの事故を起こした畑だ。


 事故のあと、一人ではとても来られなかった。


 罪悪感と恐怖が、足を向けることを許さなかった。


 けれど今は——。


 心が軽い。足取りも自然だった。


「……ふたりとも、来てる?」


 後ろを振り返ると、藍羽と柑那が、少し離れた場所で畝に腰を下ろしていた。


 藍羽は黙って頷き、柑那はにっと屈託のない笑みを浮かべた。


「いい風ね。日輪の夜って、こうだったんだって思い出しちゃった」


 柑那の声には、故郷への愛おしさが込められていた。


「日輪の夜は、畑が一番よく喋る時間です。……私、好きです」


 藍羽の静かな声が、夜の空気に溶けていく。


 真紅は笑った。心から、自然に笑えた。


 こんなふうに笑えるようになるなんて、つい数日前までは想像もできなかった。


「ありがとう。……ふたりが一緒にいてくれたから、私はちゃんと帰ってこれた」


 風が三人の間を渡り、稲穂の先をそっと揺らす。


 月明かりが、三人の顔を優しく照らしていた。


 真紅は再び前を向き、畑の中央、柔らかな土の上に膝をついた。


 そっと掌を地面に添える。


 かつて溢れ、誰かを傷つけた地力。


 それを自分の意志で制御し、還せた今、やっと向き合える。


 この土は、もう恐怖の対象ではない。


 愛すべき故郷の、大切な一部だ。


 これは、感謝のための祈り。


 これは、再び歩き出すための儀式。


 これは、過去の自分との決別。


 真紅は、目を閉じ、そっと祈った。


「——この地に、……実りあれ」


 その言葉は、夜の静寂に溶け、遠く空へと昇っていった。


 風が優しく吹いた。


 頬を撫でる風は、もう恐ろしくない。


 もう、怖くなかった。


 真紅の心に、静かな確信が宿った。


 これからも困難はあるだろう。


 でも、もう独りじゃない。


 仲間がいる。支えてくれる人たちがいる。


 そして何より、自分を信じることができるようになった。


 星空の下、三人の少女たちは静かに寄り添っていた。


 それぞれの心に、新たな物語の始まりを感じながら。


 風は優しく、夜は深く、大地は温かかった。


 故郷の夜に包まれて、彼女たちは確かに帰ってきたのだった。

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