第九章 還るべき地へ
──勝った。
確かに勝利を納めた。
田剣ノ儀。ユナイテリア代表・ディアナ・グリーンフィールドとの一戦。
苛烈で、美しく、そして限界を超えた闘い。
自分たちは、確かに勝利を掴んだのだ。
だが──なぜだろう。
勝利の余韻は、ほんの一瞬で消え去った。
代わりに訪れたのは、誰も覚えていなかった試練。
それは勝利そのものが呼び寄せた、残酷な代償だった。
「ッ……く、ぅぅ……!」
矢那真紅の全身が震える。
地面に手をつき、膝を折り、喉奥から漏れるような呻きを必死に殺そうとする。
勝利の喜びなど、もはやどこにもない。あるのは、この身を内側から引き裂こうとする激流への恐怖だけだった。
その指先が微かに光っていた。
まるで熱を持った溶岩が、血管という血管を駆け巡り、皮膚の下で蠢いているかのように。
体の内側から押し出されそうになっている何かに、真紅は歯を食いしばって耐え続けた。
「……ぁ、は……っ、ぐ、う……!」
久保田柑那もまた、隣で必死に下唇を噛み締めていた。
普段の人懐っこい笑顔は影を潜め、苦痛に歪んだ表情が痛々しい。
地力──それは、田剣ノ儀の勝者に与えられる豊穣神の祝福。
祝福という名の、慈愛という名の、しかし容赦なき試練。
だがその"量"は、想像をはるかに超えた尋常ではないものだった。
神が与えるものは、慈愛ではあるが同時に無慈悲でもある。
溢れんばかりの"力"が、津波のように一気に三人の身体へと流し込まれてきたのだ。
器の許容量を無視して、問答無用で注がれる神の意思。
たとえるなら──
(……ゴールの、見えない、長距離走……)
藍羽は、目を伏せたまま、胸の奥で必死に耐えていた。
呼吸を整えようとしても、肺が震えて思うようにいかない。
息を抜けば、その瞬間に内なる激流が溢れてしまう。
肩の力を抜けば、器が傾いて中身が零れ落ちてしまう。
脚の震えすら、敏感に反応する地力に感知されてしまう。
だから常に意識を研ぎ澄ませ、鋼のような緊張を保ち続けなければならない。
「(遠征先での勝利はここからが大変なんだよな…この状態で帰国し還元ノ儀を遂行しなければいけない)」
冷静な顔で結城は3人を見つめる。
しかし人の集中力には限界がある。いつまで、この綱渡りのような状態を維持できるのか。
──そんな状態で。
果たして故郷への帰国など、本当に可能なのか。
真紅が絶望の淵で意識を手放しかけたそのとき──
「……シンク」
ディアナ・グリーンフィールドの声がした。
振り返ると、すでに儀式の場を離れかけた彼女が、足を止めて背後を振り返っていた。
敗者となった彼女の表情には、悔しさではなく、むしろ深い理解と、そして静かな確信が宿っていた。
彼女は、肩の重荷を下ろすように静かに、だが揺るぎない信念を込めて、こう言った。
「**あなたなら、できる。**」
短い言葉だった。
だが、その声音には敗北の屈辱ではなく、一人の戦士が認めた相手への敬意が込められていた。
それだけを告げ、再び歩き出す。
振り返ることなく、誇り高く堂々とした背中。
その後ろ姿には、負けを受け入れた者の潔さと、同時に相手を信じる強さがあった。
その一言だけが、真紅の胸に深く、深く刻まれた。
まるで氷水に投げ込まれた焼けた鉄のように、じゅうと音を立てて心の奥に焼き付いた。
──この地力を、何としても保持しきらなければ。
あの人の想いも背負って──故郷へ帰らなければ。
ディアナの信頼を裏切るわけにはいかない。
◆
日輪国使節団は、ユナイテリアの空港より専用機で帰国の途についた。
灰色の雲が低く垂れ込める空港で、彼らは最後の準備を整えた。
機内には最低限の人員のみが乗り込んでいる。
機巫女三人、祈祷隊精鋭十名、引率役の結城宗一郎、そして操縦・整備の航空技術士たち。
誰もが緊張の面持ちで、この危険な帰路を見守っていた。
機内後方部には急遽設けられた簡易的な"祝詞室"があり、祈祷隊が交代で絶え間なく祝詞を唱えていた。
田剣ノ儀での勝利の後すぐに飛行機に乗り込み、離陸して5時間が経過しようとしている
彼らの額には汗が浮かび、普段以上に真剣な表情で古の言葉を紡いでいる。
「──みちひらきたまえ、ちよりたもてるこのみこらに、まもりとささえを──」
柔らかな詠唱が、機内の空気を満たしている。
風の振動、鉄の揺れ、高度による空気の薄さ。
そのすべてが、地力保持には不安要素だった。
だが、祈祷の響きがわずかでも三人の意識を安定させ、内なる嵐を鎮めてくれていた。
「ッ……ぅ……」
真紅は座席の背に身を預け、必死に呼吸を整えていた。
酸素が足りない。空気が薄く感じる。
それでも、ここで崩れるわけにはいかない。
横では、柑那が膝に顔をうずめて肩で息をしている。
小さな身体が小刻みに震えているのが分かった。
対面に座る藍羽は、目を閉じたまま瞑想のようにして静かに耐えていた。
しかし、その額に浮かぶ汗が、彼女もまた限界に近いことを物語っていた。
──三人とも、限界は目前に迫っている。
この状態で、帰国後すぐに還元の儀へ向かわねばならない。
そのことは、全員が痛いほど理解していた。
だが理解していることと、実際にそれができることは別だった。
◆
——そのとき、ふと、意識が遠のきそうになった。
胸の奥からせり上がるような熱。まるで溶岩が血管を駆け上がってくるような灼熱感。
内臓のひとつひとつが軋み、骨の芯まで異物が浸透していくような感覚。
それはまさしく、"あの日"と同じだった。
忘れようとしても忘れられない、あの悪夢のような記憶。
(……いや、だめだ。これは……)
真紅は歯を噛みしめた。
唇から血が滲むほど強く。
——十二歳のあの日。
鮮明に蘇る記憶の断片。訓練用の地力を保持できず、制御を失って吹き飛ばしてしまったこと。
一瞬で枯れ果てた畑。茶色に変わり果てた作物たち。
泣き崩れる大人たち。絶望に歪んだ顔、顔、顔。
そして——何もできず、ただ呆然と立ち尽くしていた無力な自分。
「……あれが……また、来る……」
喉の奥から、声にならない声が漏れる。
祈祷官の祝詞も、耳に届いているはずなのに、どこか遠い音のように聞こえる。
機内の空気は薄く、眼前にかすむ景色が二重にも三重にも揺れて見えた。
(このままじゃ……また……!)
地力がこぼれる。
溢れる。
制御しきれず、また周囲を巻き込んでしまう。
自分は、そんな器じゃない——
そんな恐怖に支配されそうになったそのときだった。
「……はあ? なに、泣きそうなツラしてんのよ」
背中に、ぐしゃりと乾いた衝撃。
柑那だった。
半ば意識を失いかけていた真紅の背を、彼女は強く、乱暴なほどに叩いた。
その手は震えていたが、込められた力は確かで温かかった。
「ここまで来て、真紅がダメとか無しだからね。——最後まで踏ん張るの、アンタの役目っしょ?」
ぶっきらぼうな言葉だった。
普段の柔らかな口調とは正反対の、荒っぽい激励。
けれど——そこには、言いようのない優しさがあった。
彼女自身も限界なのに、それでも真紅を支えようとする意志が。
泣きそうになったのは、背中が痛かったからじゃない。
この優しさが、胸を締め付けるほど嬉しかったから。
「……柑那ちゃん……」
「なにヘラヘラしてんのよ。もっとシャンとしなさいっての」
まるで、あの日の続きのように。
地力を保持しきれなかった自分を、誰も責めなかった——でも、その優しさが逆に苦しかった。
だから今、こうして叱咤されることが、こんなにも救いになるなんて思っていなかった。
責められることで、逆に許されているような気がした。
「……っ!」
思わず横を向くと、藍羽が、静かに手を差し出していた。
その手は微かに震えていた。
彼女自身も限界ぎりぎりなのだろう。額には大粒の汗が滲み、歯を食いしばって必死に耐えている。
だが、その手には、確かに意志が宿っていた。
「一緒に……」
藍羽の唇が、かすかにそう動いた。
声にはならなかったが、その想いは確かに真紅に届いた。
真紅は、躊躇いなくその手を握った。
冷たく、震えているが、それでも力強い手。
「……ありがとう。藍羽ちゃん……」
藍羽は小さくうなずく。
その手の温もりは、確かに真紅を現実に引き戻してくれた。
恐怖の記憶から、今この瞬間へと。
——そうだ。
今の自分には、背中を預けられる仲間がいる。
失敗しても、誰かが支えてくれる。
限界でも、誰かがそばにいる。
あの日とは違う。もう独りじゃない。
三人で、乗り切るんだ。
「……乗り越えたい…この3人で……!」
小さくつぶやいて、真紅は背筋を伸ばした。
視界の端で、柑那も、藍羽も、それぞれの方法で自分の限界と向き合っていた。
柑那は相変わらず強がっているが、その表情には諦めない強さがある。
藍羽は静かだが、握った手に込められた意志は揺るがない。
祈祷隊の祝詞が、再び機内に満ちる。
機体は、日輪国の上空へと差しかかっていた。
窓の外、雲の合間から、どこまでも青く広がる空。
その美しさが、今度は希望の色に見えた。
その下、遥か遠くに日輪国の稜線が見え始めていた。
山々の連なりが、微かに霞んで見える。
太陽は高く、燦然と光を注いでいた。
まるで帰りを待つ母のように、優しく、暖かく。
(この力を、あの大地へ還すまで——絶対に、耐える)
まっすぐに前を向いて、真紅は祈るように、ただ息を整えた。
胸の奥に渦巻くこの"力"を、きっと還す場所がある。
大地が、すべてを受け止めてくれる。
ディアナの言葉が、再び心に響く。
**あなたなら、できる。**
そうだ。できるはずだ。
この仲間たちと一緒なら。
ここまで来たのだから。
◆
黄昏の空を切り裂くように、日輪国政府専用の飛行機が滑走路に降り立った。
エンジンの唸りが徐々に静まり、長い長い帰路がついに終わりを告げる。
三彩機奏の三人娘は、ようやく祖国の大地に戻ってきた。
機体が完全に停止し、ハッチがゆっくりと開かれる。
外気が機内に流れ込んできた瞬間、三人の身体に微かな変化が起こった。
濃密な地力を抱えた三人を包んでいた緊張が、わずかに揺らぐ。
張り詰めていた糸が、ほんの一瞬、緩んだだけ。
だが、そのわずかな隙をもってしても、制御していた地力が爆ぜ出しかねない危うさがあった。
故郷の大地が持つ引力が、彼女たちの内なる力を呼び覚まそうとする。
真紅が、深く息を吸い込んで一歩踏み出した。
足元に重さがのしかかる。
まるで大地が生きているかのように、彼女の内に眠る力を引きずり下ろそうと蠢いているようだった。
故郷の土の匂い、懐かしい風の感触、すべてが地力を刺激する。
飛行場の片隅には、政府が急遽設けた仮設の祭壇が見えた。
正式な地鎮殿へ赴く余裕はない。三人の限界は、もう手に取るように近くまで迫っていた。
飛行機から祭壇までは、わずか数十メートル。
普段なら何でもない距離。
だがその道のりが、これまで歩んできたどの道よりも長く、過酷に感じられた。
一歩一歩が、まるで重い鎖を引きずっているような感覚。
真紅は、また一歩を踏み出す。だが、その足取りはわずかに揺れ、地に膝をつきそうになる。
内なる地力が暴れ、制御の糸が切れそうになる。
その瞬間——脳裏に、あの忌まわしい記憶が蘇った。
(ダメだ、抑えきれない……また、あの時みたいに)
かつての光景が鮮明に脳裏をよぎる。
真紅は奥歯を噛み締めた。
指先が痺れ、視界が滲む。
膝が震え、立っているのもやっとの状態。
だが——
「気合い入れろ、真紅!」
背中を、力強く叩かれた。
柑那だった。
汗まみれの顔で、息も絶え絶えなのに、それでも彼女は笑っていた。
その笑みは、ふざけたようでいて、限界の中にある優しさと強さに満ちていた。
苦しいのは自分だけじゃない。みんな同じなんだ。
「ひとりじゃないでしょ」
その声が、熱をもって心に染み込んでいく。
そうだ。独りじゃない。あの日とは違う。
次の瞬間、無言でそっと真紅の手を取ったのは、藍羽だった。
いつも冷静な彼女も、今は唇を真一文字に結び、顔を上げていた。
苦しさを押し殺すような表情。額に浮かぶ汗。震える手。
それでも、その手は確かに真紅を支えていた。
温かく、力強く、決して離さないという意志を込めて。
三人は、支え合うようにして歩を進める。
歩幅を揃え、呼吸を合わせ、地力をこぼさぬよう、慎重に。
まるで一つの生き物のように、息を殺して進んでいく。
祈祷隊が道の両脇に控えていた。
彼女たちの姿を見た瞬間、誰もが無言で頭を垂れる。
地力に耐える三人の姿は、苦痛に歪みながらも、神々しさすら帯びていた。
まさに神の使い、大地への贈り物を運ぶ者たちの姿そのもの。
ようやく、祭壇の前に辿り着いた。
神職が静かに祝詞を唱え始める。
仮設とはいえ、そこには確かに"神の座"があった。
古い木の香り、線香の煙、神聖な空気が三人を包む。
三人娘は、息を揃えて膝をついた。
大地へ、己の地力を還す——それは、自らを削ぐような行為。
生命力の一部を手放すような、魂を分け与えるような感覚。
それでも、これが使命だった。これが、自分たちの役割だった。
祈祷隊が輪を成し、声を合わせる。
古語の節回しが風に乗り、地面を撫でるように広がっていく。
その響きが、三人の心を静めていく。
真紅は、震える指先を地に伸ばした。
冷たい土の感触。故郷の大地の温もり。
その掌から、目には見えぬエネルギーが、静かに、大地へと還っていく。
蒸気のような、それでいて光の粒のような、不思議な感覚。
体が軽くなる。だが、それは苦しみからの解放ではなく、責務の終わりの証だった。
長い長い旅路の、ついに迎えた終着点。
地力が大地に染み込んでいく感覚は、まるで母親の胸に抱かれるような安らぎがあった。
最後に、真紅は目を閉じ、手を合わせて小さく呟いた。
「……この地に、実りあれ」
心からの願いを込めて。
この力が、誰かの笑顔につながりますようにと。
その言葉とともに、柔らかな風が吹き抜けた。
夕日が三人の疲れた顔を優しく照らす。
誰かが、涙を拭った気配がした。
感動か、安堵か、それとも両方か。
——田剣ノ儀、完遂。