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地鎮ノ機巫女 JICHIN NO KIMIKO  作者: 農機具男
第二部 地祈の道
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第九章 還るべき地へ

──勝った。


 確かに勝利を納めた。


 田剣ノ儀。ユナイテリア代表・ディアナ・グリーンフィールドとの一戦。


 苛烈で、美しく、そして限界を超えた闘い。


 自分たちは、確かに勝利を掴んだのだ。


 だが──なぜだろう。


 勝利の余韻は、ほんの一瞬で消え去った。


 代わりに訪れたのは、誰も覚えていなかった試練。


 それは勝利そのものが呼び寄せた、残酷な代償だった。


「ッ……く、ぅぅ……!」


 矢那真紅の全身が震える。


 地面に手をつき、膝を折り、喉奥から漏れるような呻きを必死に殺そうとする。


 勝利の喜びなど、もはやどこにもない。あるのは、この身を内側から引き裂こうとする激流への恐怖だけだった。


 その指先が微かに光っていた。


 まるで熱を持った溶岩が、血管という血管を駆け巡り、皮膚の下で蠢いているかのように。


 体の内側から押し出されそうになっている何かに、真紅は歯を食いしばって耐え続けた。


「……ぁ、は……っ、ぐ、う……!」


 久保田柑那もまた、隣で必死に下唇を噛み締めていた。


 普段の人懐っこい笑顔は影を潜め、苦痛に歪んだ表情が痛々しい。


 地力──それは、田剣ノ儀の勝者に与えられる豊穣神の祝福。


 祝福という名の、慈愛という名の、しかし容赦なき試練。


 だがその"量"は、想像をはるかに超えた尋常ではないものだった。


 神が与えるものは、慈愛ではあるが同時に無慈悲でもある。


 溢れんばかりの"力"が、津波のように一気に三人の身体へと流し込まれてきたのだ。


 器の許容量を無視して、問答無用で注がれる神の意思。


 たとえるなら──


(……ゴールの、見えない、長距離走……)


 藍羽は、目を伏せたまま、胸の奥で必死に耐えていた。


 呼吸を整えようとしても、肺が震えて思うようにいかない。


 息を抜けば、その瞬間に内なる激流が溢れてしまう。


 肩の力を抜けば、器が傾いて中身が零れ落ちてしまう。


 脚の震えすら、敏感に反応する地力に感知されてしまう。


 だから常に意識を研ぎ澄ませ、鋼のような緊張を保ち続けなければならない。


「(遠征先での勝利はここからが大変なんだよな…この状態で帰国し還元ノ儀を遂行しなければいけない)」

冷静な顔で結城は3人を見つめる。


 しかし人の集中力には限界がある。いつまで、この綱渡りのような状態を維持できるのか。


 ──そんな状態で。


 果たして故郷への帰国など、本当に可能なのか。


 真紅が絶望の淵で意識を手放しかけたそのとき──


「……シンク」


 ディアナ・グリーンフィールドの声がした。


 振り返ると、すでに儀式の場を離れかけた彼女が、足を止めて背後を振り返っていた。


 敗者となった彼女の表情には、悔しさではなく、むしろ深い理解と、そして静かな確信が宿っていた。


 彼女は、肩の重荷を下ろすように静かに、だが揺るぎない信念を込めて、こう言った。


「**あなたなら、できる。**」


 短い言葉だった。


 だが、その声音には敗北の屈辱ではなく、一人の戦士が認めた相手への敬意が込められていた。


 それだけを告げ、再び歩き出す。


 振り返ることなく、誇り高く堂々とした背中。


 その後ろ姿には、負けを受け入れた者の潔さと、同時に相手を信じる強さがあった。


 その一言だけが、真紅の胸に深く、深く刻まれた。


 まるで氷水に投げ込まれた焼けた鉄のように、じゅうと音を立てて心の奥に焼き付いた。


 ──この地力を、何としても保持しきらなければ。


 あの人の想いも背負って──故郷へ帰らなければ。


 ディアナの信頼を裏切るわけにはいかない。


 


    ◆


 


 日輪国使節団は、ユナイテリアの空港より専用機で帰国の途についた。


 灰色の雲が低く垂れ込める空港で、彼らは最後の準備を整えた。


 機内には最低限の人員のみが乗り込んでいる。


 機巫女三人、祈祷隊精鋭十名、引率役の結城宗一郎、そして操縦・整備の航空技術士たち。


 誰もが緊張の面持ちで、この危険な帰路を見守っていた。


 機内後方部には急遽設けられた簡易的な"祝詞室"があり、祈祷隊が交代で絶え間なく祝詞を唱えていた。


 田剣ノ儀での勝利の後すぐに飛行機に乗り込み、離陸して5時間が経過しようとしている


彼らの額には汗が浮かび、普段以上に真剣な表情で古の言葉を紡いでいる。


「──みちひらきたまえ、ちよりたもてるこのみこらに、まもりとささえを──」


 柔らかな詠唱が、機内の空気を満たしている。


 風の振動、鉄の揺れ、高度による空気の薄さ。


 そのすべてが、地力保持には不安要素だった。


 だが、祈祷の響きがわずかでも三人の意識を安定させ、内なる嵐を鎮めてくれていた。


「ッ……ぅ……」


 真紅は座席の背に身を預け、必死に呼吸を整えていた。


 酸素が足りない。空気が薄く感じる。


 それでも、ここで崩れるわけにはいかない。


 横では、柑那が膝に顔をうずめて肩で息をしている。


 小さな身体が小刻みに震えているのが分かった。


 対面に座る藍羽は、目を閉じたまま瞑想のようにして静かに耐えていた。


 しかし、その額に浮かぶ汗が、彼女もまた限界に近いことを物語っていた。


 ──三人とも、限界は目前に迫っている。


 この状態で、帰国後すぐに還元の儀へ向かわねばならない。


 そのことは、全員が痛いほど理解していた。


 だが理解していることと、実際にそれができることは別だった。


    ◆


 ——そのとき、ふと、意識が遠のきそうになった。


 胸の奥からせり上がるような熱。まるで溶岩が血管を駆け上がってくるような灼熱感。


 内臓のひとつひとつが軋み、骨の芯まで異物が浸透していくような感覚。


 それはまさしく、"あの日"と同じだった。


 忘れようとしても忘れられない、あの悪夢のような記憶。


 (……いや、だめだ。これは……)


 真紅は歯を噛みしめた。


 唇から血が滲むほど強く。


 ——十二歳のあの日。


 鮮明に蘇る記憶の断片。訓練用の地力を保持できず、制御を失って吹き飛ばしてしまったこと。


 一瞬で枯れ果てた畑。茶色に変わり果てた作物たち。


 泣き崩れる大人たち。絶望に歪んだ顔、顔、顔。


 そして——何もできず、ただ呆然と立ち尽くしていた無力な自分。


 「……あれが……また、来る……」


 喉の奥から、声にならない声が漏れる。


 祈祷官の祝詞も、耳に届いているはずなのに、どこか遠い音のように聞こえる。


 機内の空気は薄く、眼前にかすむ景色が二重にも三重にも揺れて見えた。


 (このままじゃ……また……!)


 地力がこぼれる。


 溢れる。


 制御しきれず、また周囲を巻き込んでしまう。


 自分は、そんな器じゃない——


 そんな恐怖に支配されそうになったそのときだった。


 「……はあ? なに、泣きそうなツラしてんのよ」


 背中に、ぐしゃりと乾いた衝撃。


 柑那だった。


 半ば意識を失いかけていた真紅の背を、彼女は強く、乱暴なほどに叩いた。


 その手は震えていたが、込められた力は確かで温かかった。


 「ここまで来て、真紅がダメとか無しだからね。——最後まで踏ん張るの、アンタの役目っしょ?」


 ぶっきらぼうな言葉だった。


 普段の柔らかな口調とは正反対の、荒っぽい激励。


 けれど——そこには、言いようのない優しさがあった。


 彼女自身も限界なのに、それでも真紅を支えようとする意志が。


 泣きそうになったのは、背中が痛かったからじゃない。


 この優しさが、胸を締め付けるほど嬉しかったから。


 「……柑那ちゃん……」


 「なにヘラヘラしてんのよ。もっとシャンとしなさいっての」


 まるで、あの日の続きのように。


 地力を保持しきれなかった自分を、誰も責めなかった——でも、その優しさが逆に苦しかった。


 だから今、こうして叱咤されることが、こんなにも救いになるなんて思っていなかった。


 責められることで、逆に許されているような気がした。


 「……っ!」


 思わず横を向くと、藍羽が、静かに手を差し出していた。


 その手は微かに震えていた。


 彼女自身も限界ぎりぎりなのだろう。額には大粒の汗が滲み、歯を食いしばって必死に耐えている。


 だが、その手には、確かに意志が宿っていた。


 「一緒に……」


 藍羽の唇が、かすかにそう動いた。


 声にはならなかったが、その想いは確かに真紅に届いた。


 真紅は、躊躇いなくその手を握った。


 冷たく、震えているが、それでも力強い手。


 「……ありがとう。藍羽ちゃん……」


 藍羽は小さくうなずく。


 その手の温もりは、確かに真紅を現実に引き戻してくれた。


 恐怖の記憶から、今この瞬間へと。


 ——そうだ。


 今の自分には、背中を預けられる仲間がいる。


 失敗しても、誰かが支えてくれる。


 限界でも、誰かがそばにいる。


 あの日とは違う。もう独りじゃない。


 三人で、乗り切るんだ。


 「……乗り越えたい…この3人で……!」


 小さくつぶやいて、真紅は背筋を伸ばした。


 視界の端で、柑那も、藍羽も、それぞれの方法で自分の限界と向き合っていた。


 柑那は相変わらず強がっているが、その表情には諦めない強さがある。


 藍羽は静かだが、握った手に込められた意志は揺るがない。


 祈祷隊の祝詞が、再び機内に満ちる。


 機体は、日輪国の上空へと差しかかっていた。


 窓の外、雲の合間から、どこまでも青く広がる空。


 その美しさが、今度は希望の色に見えた。


 その下、遥か遠くに日輪国の稜線が見え始めていた。


 山々の連なりが、微かに霞んで見える。


 太陽は高く、燦然と光を注いでいた。


 まるで帰りを待つ母のように、優しく、暖かく。


(この力を、あの大地へ還すまで——絶対に、耐える)


 まっすぐに前を向いて、真紅は祈るように、ただ息を整えた。


 胸の奥に渦巻くこの"力"を、きっと還す場所がある。


 大地が、すべてを受け止めてくれる。


 ディアナの言葉が、再び心に響く。


 **あなたなら、できる。**


 そうだ。できるはずだ。


 この仲間たちと一緒なら。


 ここまで来たのだから。


 



 黄昏の空を切り裂くように、日輪国政府専用の飛行機が滑走路に降り立った。


 エンジンの唸りが徐々に静まり、長い長い帰路がついに終わりを告げる。


 三彩機奏の三人娘は、ようやく祖国の大地に戻ってきた。


 機体が完全に停止し、ハッチがゆっくりと開かれる。


 外気が機内に流れ込んできた瞬間、三人の身体に微かな変化が起こった。


 濃密な地力を抱えた三人を包んでいた緊張が、わずかに揺らぐ。


 張り詰めていた糸が、ほんの一瞬、緩んだだけ。


 だが、そのわずかな隙をもってしても、制御していた地力が爆ぜ出しかねない危うさがあった。


 故郷の大地が持つ引力が、彼女たちの内なる力を呼び覚まそうとする。


 真紅が、深く息を吸い込んで一歩踏み出した。


 足元に重さがのしかかる。


 まるで大地が生きているかのように、彼女の内に眠る力を引きずり下ろそうと蠢いているようだった。


 故郷の土の匂い、懐かしい風の感触、すべてが地力を刺激する。


 飛行場の片隅には、政府が急遽設けた仮設の祭壇が見えた。


 正式な地鎮殿へ赴く余裕はない。三人の限界は、もう手に取るように近くまで迫っていた。


 飛行機から祭壇までは、わずか数十メートル。


 普段なら何でもない距離。


 だがその道のりが、これまで歩んできたどの道よりも長く、過酷に感じられた。


 一歩一歩が、まるで重い鎖を引きずっているような感覚。


 真紅は、また一歩を踏み出す。だが、その足取りはわずかに揺れ、地に膝をつきそうになる。


 内なる地力が暴れ、制御の糸が切れそうになる。


 その瞬間——脳裏に、あの忌まわしい記憶が蘇った。


(ダメだ、抑えきれない……また、あの時みたいに)


 かつての光景が鮮明に脳裏をよぎる。


 真紅は奥歯を噛み締めた。


 指先が痺れ、視界が滲む。


 膝が震え、立っているのもやっとの状態。


 だが——


「気合い入れろ、真紅!」


 背中を、力強く叩かれた。


 柑那だった。


 汗まみれの顔で、息も絶え絶えなのに、それでも彼女は笑っていた。


 その笑みは、ふざけたようでいて、限界の中にある優しさと強さに満ちていた。


 苦しいのは自分だけじゃない。みんな同じなんだ。


 「ひとりじゃないでしょ」


 その声が、熱をもって心に染み込んでいく。


 そうだ。独りじゃない。あの日とは違う。


 次の瞬間、無言でそっと真紅の手を取ったのは、藍羽だった。


 いつも冷静な彼女も、今は唇を真一文字に結び、顔を上げていた。


 苦しさを押し殺すような表情。額に浮かぶ汗。震える手。


 それでも、その手は確かに真紅を支えていた。


 温かく、力強く、決して離さないという意志を込めて。


 三人は、支え合うようにして歩を進める。


 歩幅を揃え、呼吸を合わせ、地力をこぼさぬよう、慎重に。


 まるで一つの生き物のように、息を殺して進んでいく。


 祈祷隊が道の両脇に控えていた。


 彼女たちの姿を見た瞬間、誰もが無言で頭を垂れる。


 地力に耐える三人の姿は、苦痛に歪みながらも、神々しさすら帯びていた。


 まさに神の使い、大地への贈り物を運ぶ者たちの姿そのもの。


 ようやく、祭壇の前に辿り着いた。


 神職が静かに祝詞を唱え始める。


 仮設とはいえ、そこには確かに"神の座"があった。


 古い木の香り、線香の煙、神聖な空気が三人を包む。


 三人娘は、息を揃えて膝をついた。


 大地へ、己の地力を還す——それは、自らを削ぐような行為。


 生命力の一部を手放すような、魂を分け与えるような感覚。


 それでも、これが使命だった。これが、自分たちの役割だった。


 祈祷隊が輪を成し、声を合わせる。


 古語の節回しが風に乗り、地面を撫でるように広がっていく。


 その響きが、三人の心を静めていく。


 真紅は、震える指先を地に伸ばした。


 冷たい土の感触。故郷の大地の温もり。


 その掌から、目には見えぬエネルギーが、静かに、大地へと還っていく。


 蒸気のような、それでいて光の粒のような、不思議な感覚。


 体が軽くなる。だが、それは苦しみからの解放ではなく、責務の終わりの証だった。


 長い長い旅路の、ついに迎えた終着点。


 地力が大地に染み込んでいく感覚は、まるで母親の胸に抱かれるような安らぎがあった。


 最後に、真紅は目を閉じ、手を合わせて小さく呟いた。


 「……この地に、実りあれ」


 心からの願いを込めて。


 この力が、誰かの笑顔につながりますようにと。


 その言葉とともに、柔らかな風が吹き抜けた。


 夕日が三人の疲れた顔を優しく照らす。


 誰かが、涙を拭った気配がした。


 感動か、安堵か、それとも両方か。


 ——田剣ノ儀、完遂。



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