第六章 静謐の迎え火
空は限りなく高く、雲の層を突き抜けた機体が重たく軋む。
飛行機──それは今や日輪国にただ一機しか残されていない、数少ない“空の翼”だった。
石油を燃やし、プロペラを回して飛ぶこの旧世代のレシプロ機は、国家が保有する最終手段。
アグリガルドへは海路と鉄道を乗り継いだが、ユナイテリアへ渡るには、どうしてもこれに頼らねばならなかった。
「ひっ……ひゅぅっ! な、なんで今、機体揺れた!? なにこれ!? 墜ちるやつ!?」
「柑那ちゃん、声がでかい……! わたしも……もう胃がひっくり返りそう……」
「……地に足が着いてない感覚……想像よりずっと、不快」
機内の片隅、三人娘は並んで座席に押し込まれ、顔色を一様に青ざめさせていた。
プロペラの回転音はゴオオオと唸りを上げ、時折ゴツッと何かにぶつかったような振動が機体を走る。
そんな彼女たちの向かい側──窓際に腰かけた一人の男は、どこ吹く風といった風情で缶入りのお茶をすする。
「いやぁ、やっぱり飛行機はいいよね。移動中に何もしなくていいし、誰にも会わなくて済むし。なにより……暇つぶしが捗る」
「……結城さん、気持ち悪くならないんですか?」
真紅が涙目で問うと、結城宗一郎は「んー?」と気の抜けた返事をして、涼しい顔のまま目を細めた。
「そりゃあ、最初の十回くらいはゲロゲロだったけどね。慣れってやつだよ。脳が“諦める”の」
「いや怖っ……それ、慣れたんじゃなくて脳がバグってるだけでしょ……」
柑那がうめくように突っ込むが、結城は気にする様子もなく、シートにふかふかともたれかかる。
「ところで機内食、楽しみにしてた? ……出ないけど」
「うわぁ……この人、性格悪っ」
「……ていうか、私たち、いつの間に乗せられてたの……。ほんとに“田剣ノ儀”で必要だからってだけで飛ばしてるのかな、これ……?」
「予算とか、燃料とか……考えたら胃が痛くなる」
遠ざかる日輪の大地。海を越えて向かうは、ユナイテリア連邦──大陸の向こうにある、かつての超大国の一角。
戦うために飛ぶのだと分かっていても、三人娘の心は、未だ落ち着かない。
それでも。
この空路を選んだという事実が、国家が本気で“勝ちにいく”という覚悟の証だった。
ユナイテリア迎賓館──
かつては政庁として使われていたという石造りの建物は、どこか古城にも似た静謐と重厚さをたたえていた。
高天井の大広間に、銀と藍の紋章が交差するように掲げられ、金属製の燭台がやや黄みがかった明かりを投げている。壁際では、機械仕掛けの弦楽が無人で奏でられ、微かにホールを震わせていた。
「……前に行ったアグリガルドもすごかったけど、ここは……また別種の緊張感あるね」
真紅は声を潜めて、ふと衣の裾を整える。動きは無意識のものだ。
「照明がちょっと違うよね。あっちは蝋の光で暖かい雰囲気だったけど、こっちは……鉄と機械の国、って感じ」
藍羽が目の前のテーブル装飾をそっと見やりながら言った。目の動きには落ち着きがあるが、手元で指先がわずかに動いているのが、静かな緊張を物語っていた。
「ねぇ真紅……ああいうの、食器かな? 飾り? 触っちゃだめなやつ?」
柑那がやや声をひそめながらも、テーブルの中央に置かれた金属細工の装飾を指さす。
「……たぶん、食べ物じゃないと思う。たぶん」
三人は、かつてアグリガルドの迎賓を経験しているとはいえ、それが“格式”のすべてに慣れたことを意味するわけではなかった。異国に踏み込んだ今、緊張の色は隠し切れない。
そんな空気を破るように、堂の奥からひときわ澄んだ声が響いた。
「ようこそ、日輪国の皆さん──」
その声に、真紅の表情がわずかに変わる。
見慣れた長身、緑と茶を基調にした正装。肩に垂れたダークブロンドの三つ編み。その姿を見た瞬間、三人は自然と視線を合わせた。
「……ディアナさんだ」
柑那が思わず小声で呟く。
ディアナ・グリーンフィールドの声に導かれるように、一人、ゆっくりと三人の前に歩み出てくる。
「ようこそ、ユナイテリアへ。……真紅、それに柑那、藍羽も」
声は穏やか。けれどその瞳は曇りなく、明確な意思を湛えていた。
真紅は一拍ののち、すっと背筋を伸ばした。
「はい、光栄に存じます。……ディアナさん」
少し緊張の混じった返事だったが、声音には誠意があった。
「ふふ、やっぱり巫女服のあなたたちを見ると、落ち着くわ。あの畦道の景色を、ふと思い出すの」
ディアナがふと目を細めると、柑那が照れ笑いを浮かべた。
「そんなこと言って……今日はもう、完全に“こっちの顔”じゃないですか。ほら、肩のとこに星のマークまで入ってるし」
「そうね。今日は“迎える側”だから。……でも、迎えたかった相手が
ディアナの声に誘われるように、真紅はふと彼女に目を向けた。
その姿を見た瞬間、真紅の心臓がふっと強く跳ねた。
ダークブロンドの三つ編みが右肩に流れ、深緑と茶を基調にした礼装が照明を淡く反射している。
姿勢も、声も、表情も……一歩一歩が、場の空気を支配するような威厳をまとっていた。
(……やっぱり、ディアナさんってすごいな)
思わず、そんな言葉が心の奥から漏れそうになった。
幼い頃、あの人と過ごした時間は楽しくて、穏やかで、姉のように頼りたくなる存在だった。
だけど今、目の前の彼女は「ただ優しい人」なんかじゃない。
何十万の民を背負い、田剣ノ儀に挑む、ユナイテリアの“顔”だった。
その違いに、息が詰まる。
それでも、ディアナがまっすぐこちらを見て、柔らかく笑んだその瞬間だけは——
昔と変わらない、あの“お姉ちゃん”の面影がそこに宿っていた。
(……勝てるのかな、私たち)
そんな弱音が喉元まで上りかけて、真紅はぐっと呑み込んだ。
今さら怖じ気づくには、もう遠くまで来すぎてしまったのだ。
──その時だった。
ディアナがふと、彼女のほうを振り返った。
短く、けれど確かな視線が交差する。
互いに何も言わない。声も、微笑みもない。
ただそのまなざしに、「明日、戦う」という事実だけが宿っていた。
言葉は要らなかった。
かつて畦道でじゃれ合った記憶の上に、今は違う覚悟が重なっている。
――戦いの火蓋が、静かに、落ちようとしていた。