第五章 神楽のあと、風は巡る
山を背にした里に、清らかな祝詞が響いていた。
薄曇りの空。風がそよぎ、田に植わる苗が微かに揺れる。田の傍らに設えられた簡素な神前には、御幣と白布、そして榊が飾られていた。そこに、五人の祈祷巫女が並び立ち、淡く透ける麻衣に身を包んで、祝詞を奏上している。
「掛けまくも畏き豊穣の大神……」
神官役を務める中央の女が、ゆったりと両手をかざした。
その人物——矢那澄乃。真紅の母であり、かつての機巫女、今は日輪国祈祷隊の主宰である。
彼女の声は涼やかにして厳かで、その場にいた誰もが自然と背筋を伸ばすような気配を持っていた。
榊が揺れ、太鼓が鳴り、巫女たちは順に神楽舞を舞う。やがて、集まった村人たちが静かに手を合わせ、共に地に祈る。
その光景の中に、藍羽と柑那の姿があった。二人はやや後方に控え、真剣な面持ちで祈祷の様子を見守っていた。
「……あれが、地力を集める儀式」
柑那がぽつりと呟く。
「地域の人々が祈ることで、その微細な地力が祈祷巫女を通じて集約される。少しずつだけど、確実に積み上がっていくのよ」
藍羽が説明するように答えた。彼女の声にはどこか感慨がこもっていた。
「それにしても、真紅さんのお母様……ただ者じゃないね。あの空気、現役だった頃の気配、隠せてないもん」
「うん。わたし、初めて会ったとき息止まりそうになったもん。目、合っただけで謝りたくなった」
二人が小声でそんな冗談を交わす傍ら——その様子を静かに眺める者がもう一人。
ディアナ・グリーンフィールドだった。
腰に手を添え、背筋をまっすぐに伸ばし、彼女は日輪の神事をじっと見つめている。その表情は穏やかだが、どこか思案深く、瞳の奥にはかすかな懐かしさが宿っていた。
「……この形式、懐かしいわね。私が滞在していた頃と、何も変わってない」
つぶやくようにそう言って、ディアナは遠くの神前に視線を送る。祈祷が佳境に入り、澄乃が榊を大きく振ると、一陣の風が吹き抜けた。田の緑が一斉にそよぎ、天の気配が降るような感覚に包まれる。
祈祷隊が地力を集めている——それは確かに、機巫女たちの訓練を支える、もうひとつの戦いだった。
(……けれど)
ディアナの胸に、別の想いが去来する。
この儀式を経て、やがてやってくる戦いの舞台。その時、地力はもう訓練のものではなくなる。
——田剣ノ儀。それは、神の御前に捧げる命の奉納。その勝者だけに、豊穣神からの地力が“ギフト”として降りる。
(その時、あの子は……)
ふと、真紅の姿を思い出す。緊張で眉の端をこわばらせていた、昔と変わらぬあの表情。
彼女の中の“爆散”の記憶は、まだ癒えていない。
ひとしきり儀式が終わると、地元の者たちが持ち寄った団子や野菜が境内に並べられ、簡素な直会が始まった。子どもたちが笑いながら走り回り、老婦人たちは腰を下ろして湯呑を傾け、火を囲んで農の話に花が咲く。
そんな中で、ディアナはひとり、ふと背筋を伸ばして、遠くの山を見つめていた。
風が、祈祷の残り香をさらっていく。
神事が終わり、境内の人影はまばらになっていた。風鈴の音がかすかに残り香のように鳴り、風が絹の衣を揺らす。
祭祀の最後列。拝殿裏手の杉木立に、まだ衣装を脱いでいない少女の姿があった。
——矢那真紅。
白地に朱の紋が入った神衣に、地面すれすれの袴。正式な祈祷巫女ではないため、神鏡や御幣を持たされることはなかったが、それでも見習いとして神事の末端を支える役を担っていた。
「……こんな格好、あんまり似合ってないよね」
聞こえたか聞こえないかの独り言。
「そうでもないわよ」
返事をしたのは、背後から歩いてきた一人の女性。深緑のキャップ、肩に垂れた三つ編み。
——ディアナ・グリーンフィールド。
「凛としてて、綺麗だった。……前に見たの、思い出しちゃった」
真紅は返事をしない。ただ、少しだけ顔を背ける。
ディアナは、隣に腰を下ろした。柔らかな風が二人の髪を揺らす。
「……あの時の地力は、確かに重すぎたわ」
ディアナの声が静かに落ちる。真紅は顔を伏せたまま。
「霧散……いえ、爆散と言った方が正確かしら。あれは、完全な崩壊だった」
「…………」
「あなたが訓練で保持していた地力は、訓練用とはいえ、全国を巡って集めた貴重なもので……あれだけの規模の爆散を経験したのは、後にも先にもあなた一人」
言葉は淡々としていたが、その輪郭は鋭く、真紅の内面を切り裂くようだった。
「……だから今も、地力が増えてくると……胸の奥で何かがざわめくの」
真紅の声は、自嘲に近い。
「わかるわ。私も見ていた。あなたの手が震えて、呼吸が浅くなって……でもそれでも、地力を放せなかった。怖かったでしょう」
真紅はふいに顔を上げ、ディアナを見つめた。
「……ねえ、どうしてそんな顔するの。ディアナまで哀れむような目で見ないでよ」
「哀れんでなんかいないわ」
ディアナの言葉は、ぶれなかった。
「可愛い妹分よ?昔も、今も、どれだけ真剣に向き合ってるか、私はちゃんと見てきた」
真紅は俯いていた目を伏せ直す。言い返したいのに、言葉にならなかった。
「励ますための言葉なんて、私も持ってない。でも、隣にいることはできるわ」
沈黙が落ちる。だがそれは、冷たさではなく、どこか救いのある余白だった。
やがて、真紅がぽつりと。
「……そういうの、ずるいな」
「ふふ、言われ慣れてるわ」
一面に広がる田の上に、重たいエンジン音が響く。
ユナイテリアの使節団が乗った車が村の広場に停まり、その周囲には村人たちや祈祷隊、そして三彩機奏の三人娘が集まっていた。
今や満足に石油が取れるわけでもないのに、さすがは資源国のユナイテリアだと矢那真紅は思った。
日輪の風に揺れる赤い暖簾の下。見送りの場に立つディアナは、トラクター娘としての装いをやや整えていた。襟を正し、キャップのつばに軽く手を添えると、彼女は三人娘を順に見つめた。
「……ありがとね。しばらく、いい空気を吸わせてもらったわ」
「どういたしまして!」
柑那が元気よく応じた。横で藍羽が、控えめに微笑む。
「ディアナさん、いかがでしたか? 田舎の祭りと団子の味は」
「最高よ。特にあの団子、胡麻の香ばしさが絶妙だったわ。……あれ、もう一串くらい食べておけばよかったかも」
「ふふ、帰りに持たせてもらえばよかったですね」
そんな和やかなやり取りの最中、少し遅れて現れたのが、くたびれた雰囲気の男——結城だった。
——が、今日の彼は違った。
黒の上下に整えられた詰襟の礼服、胸には日輪国農政院の徽章が輝き、手には儀式用の帳面を携えていた。
「おや、見慣れぬ姿だこと」
ディアナが片眉を上げる。
「ユナイテリアの使節団に失礼があってはならんのでね。こう見えても元軍属、礼節は心得てるつもりです」
飄々とした言いぶりに、柑那が思わず吹き出す。
「似合ってるじゃん結城さん! ちゃんと立てばけっこうカッコいいかも……“立てば”ね?」
「んー、立ってても座っててもカッコいいとは思わないけど」
藍羽の塩対応に柑那が「ひっど!」と笑い、結城は肩をすくめる。
そんなやり取りの中、ディアナがふと振り返る。
「……また来ても?」
真紅の声だった。少し離れた場所から、その瞳はまっすぐにディアナを見つめていた。
ディアナは微笑む。
「もちろん。次に会う時は、もう少し“儀式的”になると思うけど」
その瞬間——結城が口を開いた。
「それじゃ、十日後にまた会おうか」
三人娘の表情がぴたりと止まる。
「じゅ、十日後?」
「えぇ、楽しみにしているわ」
ディアナの言葉に、井関藍羽が息を呑んだ。
「もしかして……!」
その声に、真紅の目が大きく見開かれる。
結城が帳面を軽く掲げ、事務的な口調で言った。
「正式決定だ。“次の田剣ノ儀”、日輪国の対戦相手は——ユナイテリア代表、ディアナ・グリーンフィールド」
微笑むディアナの背に、黒塗りの車の扉が開く。