93 朧気な記憶
◇
マガルムーク北東部とはまるで違う光景。
夕日が山の向こう側へ落ちかけ、薄暗くなってきている前方にのどかな田園地帯が見える。
そんな中を徒歩で南に向かっていた俺の目にようやくジェネットの城壁が見えてきた。
その城壁に見え隠れしているのは先日魔物の群れに襲われた際の爪痕。
いまだ南側の城壁は修復中のようで、安全な城塞都市とまでは言えなかったかも知れない。
が、戦場の凄惨な光景に比べればジェネットの町周辺は平和そのものといった様子だった。
もしかしたらシアード王子がマクシミリアン侯爵の軍勢を打ち破ったことがすでに伝わっているのかも知れない。
あのあとすぐに早馬を飛ばしていれば、伝令がこの町に到着していてもおかしくない頃合い。
城門を守っている兵士たちからも前回訪れたときのようなものものしさをあまり感じない。フランテール湖畔の戦いにおいて、シアード王子が勝った情報が伝わっているとすれば、兵士たちがこんなふうに気を抜いているのもそれほどおかしな話だとは思えなかった。
まあ、ルメロがグラン領の兵士を戦場に連れていってしまったことにより警備の数が少なくなっていて、そう見えただけなのかも知れないが。
そんな様子を眺めながら城門をくぐり抜けた俺は、そのまま天翔けるアヒル亭には向かわず、一度グランベルが居るベルナルド商会の建物へと立ち寄ることにした。
といっても、グランベルに対して何か用があったわけでもない。
夕食時の今の時間帯に天翔けるアヒル亭を訪ねても、ラァラは俺の相手をしている暇がないだろうと思っただけだ。
かといって、前回のときみたく途中で仕事を抜けさせるのはさすがに気が引ける。なのでラァラの仕事が終わりそうな時間帯まで、グランベルの報告を受けるついでにしばらくベルナルド商会で暇を潰しておこうと思ったってわけだ。
なだらかな起伏を描きながら少しだけ湾曲している大通り。
そんな大通りを俺はグラン城のほうに向かってのんびりと歩いていく。
ベルナルド商会がある場所はどうやらグラン城に比較的近い高級邸宅街らしい。
俺はイヤーカフを通してグランベルに連絡を入れたあと、ベルナルド商会に向かって歩き出した。
◇
天翔けるアヒル亭の扉を開けた途端、安酒の匂いが俺の鼻先をかすめる。
普通の人間ならばもうとっくに寝静まっている時間帯。
そんな夜更けだというのに、天翔けるアヒル亭はまだまだ客で賑わっている様子で、酒に酔って騒ぐ声や陽気な歌声に包まれていた。
その天翔けるアヒル亭に俺が入ってきたことに気付いた客も何人か居たが、ほとんどの客はちらりと一瞥しただけ。
すぐに俺のことには興味をなくしたらしく、仲間うちで楽しく酒とおしゃべりに興じる姿がその場には見られた。
とはいえ、俺に気付いて反応を示した人間も居る。
そのうちのひとりは言わずと知れたラァラで、飲み物を運んでいる最中だったためか駆け寄ってはこなかったものの、俺の顔を見たラァラの顔には嬉しそうな表情が浮かんでいた。
ただ、そのほかにも天翔けるアヒル亭の中に見知った顔を俺は見つけていた。
「おっ、ディーディーじゃねえかよ」
見知った顔のうちのひとりからそんな声がかかる。
以前ディララ村で出会った冒険者のコルトだ。
ただし、その場に居たのはコルトひとりだけではなかった。ダンやジャックの姿も一緒に見える。
「ん? 本当にディーディーじゃないか。ちょうどいい。再開を祝してこっちの席で乾杯しないか?」
ダンからそんな誘いを受けた俺はそのままコルトたちのテーブルに着く。
どうせラァラの仕事が終わるまでは酒でも飲んで待っていようと思っていたぐらいだ。ディララ村の冒険者たちと酒を酌み交わしながら待つのもいいだろう。
「というか、お前って先週ここに来たばかりじゃなかったのか? さっきラァラさんからそんな話を聞いたぞ」
「前回買った分だけでは不足している物資があってな。といっても、あれがないこれがないとわがままを言う老人連中のせいだ。それですぐに引き返してきたって感じだ。あんたらこそジェネットの町に来てたんだな。そっちは仕事か?」
「ははは。老人連中ってのはどこも一緒なんだな。俺たちは商隊警護の仕事さ。それほど実入りの良い仕事でもないが、ついでにラァラのところにも顔を出せるいい機会なんじゃないかって話になったわけだ」
「なるほどな」
「それはそうと、ディーディー。本当に感謝する」
そう言っていきなりダンが俺に向かって深々と頭を下げてくる。
「ん? 何のことだ?」
「アリアのことさ。ローラちゃんが薬を使ってアリアのことを治療してくれたんだろ?」
「ああ、そのことか。そのことだったら気にしなくてもいい。あれは俺たちがそうしたくてしただけなんだからな」
「だけど、あれは貴重な薬だったんじゃないのか? あのあとアリアの調子がすこぶる良くなってな。今では普通に歩き回れるぐらいには回復しているんだ」
「貴重といえば貴重だが、俺としては詫びの気持ちも含まれている。俺たちへの疑いを晴らすためだったとはいえ、結果的にゲイツを追い詰める形になってしまったんでな」
「お前たちが来る半年以上も前からゲイツはアリアのために邪悪な行為に手を染めていたんだ。だからディーディーたちの責任なんかまったくないさ。それどころかイシュテオール様がそんなゲイツの身上を哀れんで、お前たち兄妹を遣わせてくださったんじゃないかと思っているぐらいだからな」
「イシュテオール様か……」
別に恩に着せようとしてやったわけでもないのだが、アリアを治療したことを隠すつもりもない。
ダンたちにはアーティファクトだと偽った武器だって見せているし、怪我をした白狼族のマルカに薬を渡したことも、いずれはラァラの口からダンたちに伝わってしまうだろう。俺たちが只者でないことなど、ダンたちだってとっくに気付いているはずだ。
ただ、ここでもまたイシュテオールの名前を出されたことに俺は何とも言えない気分になる。
「感謝しているのは俺やマーサだけじゃない。ディララ村の人間はみんなディーディーたちに感謝しているからな。歓迎するからまたいつでもディララ村に立ち寄ってくれよ」
「それはそうと、ダン。ディーディーにもさっきの話をしといたほうがいいんじゃねえか?」
と、俺とダンの話が済んだと思ったのか、それまで神妙そうに頷いていたコルトが口を挟んでくる。
「いや。ディーディーには元々関係がない話だ。それに確実な話でもないからな。これ以上ディーディーに迷惑をかけるわけには……」
「それはそうかも知れねえがよお。この先ディーディーたちの村だって、あいつの被害に遭うかも知れねえだろ?」
「何のことだ?」
「サルジウスだよ。昼間、ジャックがサルジウスに似た人間をこの町で見かけたらしいんだわ」
サルジウスといえば、ゲイツに邪悪な嘘を吹き込んで村人を殺害するように仕向けた旅の呪い師だ。
あのあと、サルジウスはお尋ね者としてギルドを通して指名手配されているはず。
だが、記録映像なんかないこの世界ではよほどの特徴でもないかぎり本人を特定することは難しいだろう。しかも当事者であるダンたちにしたところで、半年以上前にちらりと見かけたというだけ。
そんなわずかな情報から捕まえられると俺は思っていなかった。
そんなふうに指名手配なんかまるで役に立たないとしたら、サルジウスだってこそこそ逃げ回る必要もないだろう。
とはいえ、ディララの村からそう遠くないこの町にサルジウスが潜んでいるというのは、少しばかり警戒心がなさ過ぎるような気もするが……。
「ジャック。そいつがサルジウスだったというのは確かなのか?」
「あっ、いや。俺も顔がどこか似ているなあと思っただけで……。格好のほうは全然違ってたし、すぐに人混みに紛れてしまったんでなあ」
「ディーディー。あいつは使えねえか? ほら、例の何とかの瞳ってやつだよ。あの魔道具でジャックが昼間に見た記憶を投影すれば、俺たちにもそいつがサルジウスかどうかの確認ができるはずだろ?」
「すまんな。あの魔道具は今回は持ってきていないんだ。というか、ぶっちゃけた話、俺がキュプロークスの瞳を軽々しく使ったことを、里に帰ってからほかの連中に咎められたぐらいでな」
「そっか……。いい案だと思ったんだがなあ」
「あまり無茶なことを言うな、コルト。あれはどう見てもアーティファクト級の魔道具だっただろ。そんな貴重なものを気軽にホイホイと使えるわけがないんだ」
「まあ、そりゃあそうかもなあ」
手を貸すかどうか考えたが、結局余計な真似をするのは止めておいた。
このジェネットの町に潜んでいるのなら、ピットをこの町に呼び戻したり、グランベルに調べさせても良かったのだが、旅の呪い師という情報だけではさすがに無理がある。
それにダンたちには悪いが、サルジウスの行方が俺にとってそれほど重要な情報だとも思えなかったってのもある。
サルジウスの行方を突き止めたので俺にも手を貸してほしいという話なら、別に手を貸しても構わないのだが。
「なあなあ、ディーディー。もしかしてローラちゃんのほうは先に宿に入って寝てるのか?」
「ん? 俺はついさっきここに来たばかりだし、妹なら今頃は里で留守番中だぞ」
「ちぇっ、なんだ。ローラちゃんは今回一緒にジェネットへ来ていないのか」
「残念だったな、ジャック」
「それならディーディーは今晩この宿に?」
「あら、ディーディーは今晩私の家に泊まっていくわよね?」
と、まるで俺たちのやり取りに聞き耳をたてていたかのようなタイミングで、ラァラが冒険者たちとの会話に割り込んでくる。
「え? ラァラさん。ディーディーを家に泊まらせるって、そんなまさか……」
「ほう。お前たちいつのまにそんな関係になったんだ?」
「ディララの町を出てすぐだったかしら? 現在ディーディーと私は恋人同士よ。といっても、結婚の約束をしたわけじゃないけれどね」
「冗談だよな、ディーディー? ラァラさんと一緒に俺をからかっているだけだと言ってくれ」
「すまんな、コルト。今ラァラが話したとおりなんだ」
「嘘だろ。俺があんな必死に口説いても、ラァラさんはまったく振り向かったのに……」
おそらくラァラのことが本当に好きだったのだろう。
コルトは心の底からショックを受けている様子だった。
ジャックやダンにしてもラァラに対して好意を持っている様子はあったが、どうやらコルトほどではなかったらしい。
まあ、ダンは女房持ちという話だったし、ジャックに関してはラウフローラに熱を上げているみたいだが。
「ったく、何が老人連中のわがままのせいだよ。本当のところはお前がラァラさんに会いたくて、足繁く通っているだけなんだろうが」
そんなことを言って、ジャックが酒をかっくらいながら俺にくだを巻き始める。
結局俺はその後夜遅くまで冒険者相手に飲み明かすことになってしまった。
◆
「ええ。そういうわけでこちらの思惑どおり事が運んだようにございます」
「うむ、此度はよくやってくれた。サイード導師よ」
「ただし、ひとつだけ気がかりなのはルメロ殿下が予想以上に華々しい戦果を上げられたことですな。そのせいでルメロ殿下に鞍替えしようとする貴族連中が多数おりまして。そやつらがルメロ殿下に自分の娘を嫁がせたいと言い出しかねない勢い。悪い虫が付く前に早めに対処したほうがよろしいかと」
「くっ。恥知らずな連中め。これまで見向きもしなかったくせに、権勢が傾いた途端、ルメロに尻尾を振り始めるとは」
「といっても、そこまでお気になさらずとも大丈夫でございましょう。すべてアンドリュース伯爵のおかげであることは、ルメロ殿下も充分にご理解している様子でしたので」
「そればらば良いが……。うーむ、ルメロにクリスティーナとの婚姻を急がせるか」
「そうなされたほうがよろしいでしょうな」
「それと、そのほうはしばらく表には出せん。マクシミリアン陣営に居たことがバレてしまう可能性があるのでな。が、折を見て導師にも大役を任せるので、そこは安心してくれ」
「アンドリュース様、お気になさらずに。最初からそういうお約束でしたので。しばらく私は身を潜めていますから」
「うむ。すまんな、サイード導師」
グラン城の一室。
そこでは夜遅くそんな会話が交わされていた。
が、さきほどの言葉ですべての報告を終えたのか。
サイード導師が一礼したあと、すぐにアンドリュース伯爵の部屋から出て行く姿があった。
「はて、この後誰が勝ち残るのか見ものじゃな」
と、薄暗い廊下にコツコツとサイード導師の足音だけが響き、サイード導師の口からひとり言が漏れる。
「それにしてもゼ・デュオンのやつ、あれだけ大見得を切ったわりにまるで役立たずではないか。相手がアグラならまだしも、単なる英雄にあんなにもあっさりとやられるとは。いずれにせよ、もう少しぐらい役にたってもらわねばならん。ひとまずはゼ・デュオンの復活を急ぐか」
サイード導師がそんな憤慨にも似た呟きを漏らしながら、黒い宝石の付いた指輪を懐から取り出す。
その指輪はゼ・デュオンが身に付けていたものとまったく同じであるように見えた。




