57 捕食
じりっ、じりっと少しずつクススティーナが後方へと下がっていく。
ただ、蟲の王の注意を惹かないようにするためなのか、はたまた単に腰が抜けていただけなのか。
クリスティーナの動きは酷く緩慢であるように見えた。
豪華絢爛なドレスが土埃で汚れることにも構わず、後ろ出をついたままの状態でズルズルと後ずさっていく。常に視線を前方に向けていたのは、おそらく振り向いた瞬間に襲い掛かれるんじゃないかという不安があったせいだろう。
クリスティーナは手探りで後方にあるはずの扉を探しながら、今もなおフロイド神父の遺体を捕食している蟲の王から必死に距離を取ろうとしていた。
「な……んで……」
そんな言葉にもならないようなか細い呟きが漏れる。
クリスティーナの言葉からすれば、想定外の事態が起きたことだけは間違いない。
これまですべてが順調に進んでいたはずなのにどうして?
もしかしてどこかで儀式の手順を間違えたのかしら?
――そんな思考がクススティーナの頭の隅を流れていく。
しかし、教えられた手順どおりに儀式を進めたはずだし、唱えた魔呪だって一字一句間違っていないはず。
それ以前に腕に付けた魔道具があるかぎり、蟲の王はこちらに襲い掛かってこないはずなのだから、こんなことになるのはおかしいとも思う。
だが、現在蟲の王はこちらの言うことを聞くどころか、バリバリという薄気味悪い音をたててフロイドの骨までも食べている。
そんな光景に思わず喉の奥からこみ上げそうになる吐き気と、叫び出しそうになる悲鳴を必死にこらえるクリスティーナ。
取り乱して目立つ行動を取ってしまえば、フロイド神父の身体を貪ることに夢中な様子の蟲の王も、いつなんどき彼女へと食指を動かしてくるのかわかったもんじゃない。
クリスティーナが現在しなければならないことは、かろうじて残っている気力を振り絞り、静かに出口がある鉄扉から逃げ出すことだろう。
と、背中に何か硬い感触が当たり、クリスティーナの背筋が凍る。
それが出口の鉄扉を開けるためのクランクハンドルだと気付いてもなお、クリスティーナの心臓は大きく跳ね上がったままだった。
だが、すぐに気を強く持ち直したらしく、クリスティーナは後方の鉄扉を支えにして中腰になると、ゆっくりと巻き上げハンドルを回していく。
ジャリジャリと鎖が扉を持ち上げる音を鳴らし、少しずつ上方へと開いていく鉄扉。
おそらくその音に気付いたのだろう。蟲の王がフロイドの遺体から頭を上げ、クリスティーナが居るほうへと視線を向け始める。
その様子を見て、必至にハンドルを回し始めるクリスティーナ。
だが、蟲の王は細長い胴体を左右にくねらせると、クリスティーナに向かい素早く接近してきた。
ガン。
まさに間一髪だった。
少しだけ開いた空間を何とか這うようにしてくぐり抜けることに成功したクリスティーナの耳に聞こえたのは、鉄扉の向こうで蟲の王が何かにぶつかったような音。
おそらく鉄扉に突進したのだろう。
薄暗い地下回廊内のことなのではっきりとはわからなかったが、クリスティーナの目には少しだけ扉が歪んだように見えたからだ。
クリスティーナはその場で急ぎ立ち上がると、今度は手前側のクランクハンドルを回し、扉を閉めようとする。
少しずつ閉まっていく鉄扉を見て、クリスティーナの中で幾ばくかの安心感が生まれる。
この鉄扉さえ閉めてしまえば、蟲の王はこちら側には来れないだろう。さすがに蟲の王といえど、鉄製の分厚い扉は破れないはずだと。
いずれにせよ、今戻ったところでフロイド神父の二の舞になるだけだ。それ以外にクリスティーナに打てる手がなかったのも事実だが。
フロイド神父には気の毒だが、言ってみれば蟲の王の食料になっただけのこと。あとはサイード導師がお戻りになってから対処してもらうしかない。
鉄扉が完全に閉まったあとでようやく一息ついたクリスティーナは、今起きたことを無理やりそう納得させることにした。
――が。
ガン。
ガン、と続けざまに鉄扉へとぶつかる音が聞こえてくる。
そのたびに鉄扉の一部が歪んでいくのは、内部の灯りが隙間から漏れ出していることからしても明らかだった。この様子では頼みの綱である鉄扉がもちそうにないことにクリスティーナもすぐに気付いた。
「ひっ……」
クリスティーナが鉄扉から背を向けて逃げ始める。
事ここに至ってはクリスティーナにはもうどうすることも出来なくなっていた。
ザルサス様に認められるどころの話ではない。
今の混乱したクリスティーナの頭ですら即座にそのことを理解できたぐらい。儀式は失敗に終わったのだ。それどころか、この事態を収拾する術すら見当たらないというのが現在の状況だった。
「マル! 床板を開けて! 早く、マル!!」
階段を駆け上りながら必死にそう叫ぶクリスティーナ。
そんなクリスティーナの後方では相変わらずガンガンと音が鳴り響いていた。
地下回廊への出入り口である床板は念のために鍵をかけており、出入りするには誰かに開け閉めしてもらう手筈。
とはいえ、出口付近にいつもいつも人が居るわけでもない。案の定、近くに誰も居ないのか、地上から返事が返ってくる様子はなかった。
そんなことを考える余裕すらないのか、クリスティーナは階段を駆け上がり出口付近までやってくると半狂乱になって頭上にある床板を叩き始める。
「何してるの、マル。早くこの床板を開けなさいっ! マル、もしかして居ないの? モンドでも誰でもいいから、すぐにここを開けなさい!!」
普段、滅多に声を荒げることがないクリスティーナが、取り乱した様子でそうがなり立てる。それだけ危険が迫っていることを肌身に感じたのだろう。
地上への出口はここしかない。
この床板が開かないかぎり、蟲の王の次の餌は自分になるのだから。
と、そのときクリスティーナの頭上から一筋の光が差し込んでくるのがわかった。
そちらを見上げると、クリスティーナのことを上から覗き込んでくるマルの顔があった。
「はあはあ……何していたのよ、このクズ。何度もここを開けなさいって言ったでしょう!」
「す、すみません。お掃除をしていて気付かなくて……」
そのまま階段を上がり、ようやく地上へと出たクリスティーナの顔に少しだけ安堵の表情が浮かぶ。
今もガンガンという音が鳴りやんでいないことから考えても、まだ鉄扉は破られていないはず。地上に出てしまえば、ひとまずは安全だとでも思ったのだろう。
といっても、状況が最悪であることには違いない。あんな魔物が地上に解き放たれてしまえば、いったいどんなことになるのか……。
「いつも私が呼んだらすぐに開けなさいと言っているでしょう?」
「……も、申し訳ありません」
「まあ、いいわ。そうだ、マル。神父様がお呼びよ。地下回廊のほうに来てくれって。多分大きな物音がするだろうけど、大事な儀式の最中だから邪魔をしないようにね。奥の部屋の前で、神父様が出てくるまで待っていればいいから」
「は、はい。わかりました」
クリスティーナはそれだけ早口でまくし立てると、急いで教会から出て行く。
こんなところでぼやぼやしている状況ではないというのに、わざわざ立ち止まってまでマルに話しかけたのは、万が一蟲の王が鉄扉を破って出てきた場合マルを囮にして時間を稼がせるつもりだろう。
ただ、それだけではないような気もする。
クリスティーナがこの場所を訪れていることを知っているのは、フロイド神父とマルとモンドの3人。今の事態を収拾できない以上、余計なことを知っている人間には消えてもらったほうがいい。
そう、クリスティーナが考えたとしてもおかしくはない状況だった。
「モンドさん、急いで馬車を出して」
教会を出て、表に停めてあった馬車の御者席の横に乗るなり、モンドに命令し先を急がせるクリスティーナ。
「クリスティーナお嬢様? 予定よりずいぶんと早いご様子ですが、どうかされましたか?」
「いいから、早く出しなさい」
「は、はい。ただいま……」
「待ちなさい。このままグラン城に戻るのはマズいわ。そうね、北のヨートンの町に向かいなさい。私は用事があって、朝からヨートンの町を訪れた。いいですね、誰かに聞かれたらそう答えるように」
「承知いたしました。お嬢様」
モンドからすれば何がどうなっているのかチンプンカンプンだったはずだ。
小一時間はかかると言われていたのにまだ30分と経っておらず、教会から慌てた様子のクリスティーナが飛び出してきたのだから。
それでもモンドは余計な質問をせず、唯々諾々とクリスティーナの命令に従い、馬車を動かし始める。
その隣には険しい表情を浮かべ、しきりに何か考え事をしている様子のクリスティーナの姿があった。
◆
「すまんな。今回はあまり獲物が獲れなくてな。少々割り当てが少なくなってしまったので、不満に思う者も出てくるかも知れんが……」
「何言ってんだよ、イオスの旦那。そうでなくても散々世話になりっぱなしだっていうのに、不満なんかあるわけないだろ。これでもし文句を言うようなやつが居たら、そいつは飯抜きにしてやるよ」
「そうですよ。イオス殿の助けがなければ、この私も今頃は……」
亜人の避難民たちが集まる城壁の外部。
現在、白狼族に貸し与えられた天幕の中には、冒険者のイオスと黄虎族のシリィ、そしていまだ完全に怪我が癒えていない様子の白狼族のマルカの姿があった。
といっても、何とか一命は取り留めた様子。
さすがにまだ起き上がって歩くことはできそうになかったが、その場で上半身を起して座れるぐらいには肉体も回復している様子だった。
「だが、実際のところあまり状況がよくない。冬場になり、なかなか獲物が見つからなくなっていることもあるが、少しずつ犠牲者が出始めているのだ」
「ああ……。だけどそれも仕方がないことだと私は思うけどね。元々、鍬しか握ったことがないような連中の集まり。それに何もしなければ、全員揃って餓死するだけなんだ。みんな覚悟のうえさ」
「だが、この場に残っている避難民の中でも、老人や病気で弱っている者からどんどん亡くなっていると聞くが……」
「それこそイオス殿が気に病む必要はありませんよ。まったく関係がない我々のために、こうしてイオス殿がご尽力くださっているおかげで、どれだけ我々が助かっていることか」
「だがな。このままでは先の展望が見えない。今のやり方ではいたずらに死者を増やすだけのような気がする。それにたとえ冬を越えられたとしても、そのあとどうなるものでもないだろ?」
避難民の中にはマガルムーク国内の内乱さえ終われば、事態が好転するのではないかと考える者もいる。
だが、イオスからすれば、それは淡い期待でしかないと思っていた。
そもそも内乱がすぐに終わるとも思えない。それにたとえ内乱が終わったとしても、食料が過不足なく流通するようになるのは、だいぶ先の話だろう。
街の中でさえ食料不足に陥っているぐらいだ。避難民である亜人の元に入ってくるようになるのは、街の人間に充分に行き渡ってからと考えたほうがいいはず。
「ええ。それはわかっておりますが」
「結局なるようにしかならないのさ。良い解決策があるわけじゃないんだ。だとしても、何とかひとりでも多く生き残らないとね」
「そうか……。まあ、俺も出来得るかぎり力になるが」
「それでイオスの旦那はいつまでここに居てくれるつもりなんだい? そ、その……どこかに良い人が居て、旦那の帰りを待っているとかは?」
「いや。気の向くまま、当てどもない旅暮らしだったからな。生憎とそんな相手などどこにもおらんよ」
「そ、そうかい。旦那みたいな偉丈夫なら、女なんかより取り見取りかと思ったけどね」
「ふむ、イオス殿。ならばこのシリィなど、嫁にどうですか? こう見えて、気立てはいいほうだと思うのですが」
「な、何言ってんだよ、マルカ。そんなおかしなことを言ったら旦那が困っちまうだろ」
「こんな状況だというのに呑気に話す内容でもないのでしょうが、シリィがイオス殿に惚れているのは一目瞭然。嫁でなくても構わないのです。できればイオス殿の女にしていただければ、と」
「うっ……」
そんなマルカの言葉を聞き、顔を赤く染めたシリィはそれきり黙り込んでしまう。
「それはまた何とも急な話だな。というか、てっきりシリィとマルカがそういう仲なのだと思い込んでいたのだが」
「ああ。このシリィは妹みたいなもので、けっして恋仲では。この私には病気で先立たれた妻がおりましたので」
「そうだったのか……」
「イオス殿のような方なら、安心してシリィのことをお任せできます。それに正直なところ、打算もありますがね。本来ウォルボーの亜人をまとめるべき役目である私がこのような有様ですから。情けない話ですが、イオス殿がそばに居てくだされば、このうえもなく頼もしいかぎりだと」
「いや、それは……」
と、イオスがマルカへの返事に困っていたそのとき。
声もかけずに天幕の中へと飛び込んでくる小さな人影があった。
「あ、あの。プッチを見かけませんでしたか? さっきから探しているんですけど、どこにも見当たらなくて」




