114 イシュテオールからのメッセージ
◇
荘厳でどこか重苦しい雰囲気の中。
港町ポートラルゴにある教会の鐘がゴーン、ゴーンと2度続けて鳴り響く。
最初の鐘は俺がエレナと婚約したことをイシュテオールに報告をするための鐘。そして2度目はその宣誓がイシュテオールから許可されたことを顕す鐘だ。
俺とエレナが都合2度ずつこの鐘の音を聞くことにより、イシュテオールとの聖約が結ばれるという形。
当然、形式的なものだ。
記念式典のときのように、何事か起きるのではないかと身構えていた俺が拍子抜けするほど、何事もなく婚約の儀は進んでいる。
ただ、列席者は数えるほどしか居ない。
俺とエレナの両名。そして立会人であるジークバード伯爵にバルムンド。あとは付き添いの人間が双方数名ずつといったところか。
来賓客の姿はなく、エレナの実の母親であるノーマ・ジークバード夫人の姿もこの場には見当たらない。
ここポートラルゴにて急遽婚約する運びになったせいもあるのだろうが、この世界における女性軽視の考え方が多分に影響しているはずだ。
重要なのは父親であるジークバード伯爵の意向。
ノーマ夫人との間で、何回か話し合いの場が設けられているのかも知れないが、娘の婚約の場に父親のジークバード伯爵しか参列しないのは、きっとそういうことなんだろう。
といっても、所詮はイシュテオールの前でふたりが婚約したことを宣誓するだけだ。
結婚ということになると、大勢の賓客を呼んで式をあげるのが一般的らしいが、婚約のほうは内々で済ませるケースも多いとの話だ。
いずれにせよ、これが政治的な結び付きによる婚約である以上、大々的に喧伝することには変わりなく、現在ポートラルゴの町は俺とエレナの婚約話で持ち切りになっているみたいだが。
そんな中、質素な衣装に身を包んだエレナが俺の隣で跪いたあと、イシュテオール像に向かって誓いの言葉を口にする。
まるで修道女のような格好をしているが、これにも一応意味があるらしい。
今後は慎ましく飾り気のない生活を送りますという意思表示ということだ。とはいえ、実際にエレナが大人しくなるとは俺も思っていない。
そもそも婚約したといってもあくまで立場的な話だ。
エレナと一緒に住むわけでもないし、建前的に正式に結婚するまでは婚前交渉が禁止されている。そんなわけでエレナとの関係が何か進展したわけでもなかったのだが。
再び聖約の鐘が鳴る。
今のところは何も起きていない。
むろん何か起きても困るだけだが、こうなると祝福の受け取りようが変わってくる。
先日のあれが俺に向けたイシュテオールからのメッセージだったように思えてくるからだ。
闇の使徒や貴人を見つけ出して滅ぼせという……。
が、俺には率先してイシュテオールに従おうという気がない。
たとえ本当に俺がアグラに選ばれたのだとしても、イシュテオールに従わなければならない道理はどこにもないはずだ。
あちらが勝手に押し付けてきただけのこと。
こちらが乞い願ったわけではなく、それどころか無理やり拉致された可能性が高いときている。
これで唯々諾々とイシュテオールの命令に従えというほうが無理な話。
かといって、邪神ザルサスに与する理由があるかといわれれば、そちらのほうはもっとない。
この世界の社会的倫理観に反するメリットがないし、貴人や闇の使徒などセレネ公国にとっても邪魔な存在でしかない。
道義的にも利己的にもどちらに味方するべきかと問われれば、俄然イシュテオールのほうだろう。
まあ、それもこれもロジャーの裏に潜む、おそらく貴人だと思われる存在の出方次第ではあるが。
イザベラたち3名についてもそうだが、ほかの奴隷たちをどう処分すればいいかも悩みどころだ。
安易に処分してしまえば相手側からは敵対行為だと見做されるだけ。
そのことが脅威に映っているわけじゃないが、無駄に敵を増やすような真似もあまりしたくはない。
こちらが相手の存在に気付いていることを仄めかし、これ以上はちょっかいをかけてこないように警告を与えるぐらいならするつもりだが。
それだけじゃない。
ある程度相手の意図を知っておくことも重要だろう。
そのために相手の陣営に対してちょっとした工作もしている。
イシュテオールと利害が一致する部分については、番犬の役目を果たしても一向に構わないってわけだ。
いずれにせよあちらの貴人に警告は与えた。
これでもまだセレネ公国に何か仕掛けてくるようなら、そのときに潰せばいいだけの話だろう。
エレナの宣誓を聞き届けたとばかりに最後の鐘が鳴る。
これで形式上、俺とエレナの婚約が成立したことになる。
まさか異世界人と婚約するはめになるとは思ってもみなかったが、その相手としてエレナが不満というわけでもない。
それどころか犯罪者だった過去を考えれば身に過ぎる相手だろう。
そういう意味ではこの世界へ導いてくれた存在に俺も感謝している。
その場で立ち上がり、頬を紅潮させながら俺に手を差し出してくるエレナ。
その手を握った俺は、イシュテオール像に対してエレナと一緒に深々と頭を下げていた。
◆
港町ポートラルゴの北側、新港予定地の埠頭内にある倉庫街。
予定地といっても海側に近い地域はほとんど工事や建設が終わっており、すでに商業区として機能している状態だった。
そんな倉庫街で、クレーンによって船から降ろされたあと倉庫へと運ばれていく積み荷に興味深げな視線を投げかけていた老人の口から不意に感嘆の言葉が漏れる。
「ふーむ。これはなんとも見事なものだの」
その感嘆の言葉を向けた先は、大型船が何隻も係留できそうな立派な埠頭に対してのものだったのか、それとも見たこともない素材で出来ている大きな倉庫に対してだったのか、はたまた続々と運ばれてくる積み荷に対してだったのか。
いずれにせよ、その驚いた口ぶりからすれば、老人はおそらくポートラルゴの住民ではないのだろう。
老人の口ぶりだけではない。
一見して旅装束だとわかる毛皮の外套からしても、キョロキョロと辺りを見回す様子からしても、その老人が現地に詳しくないよそ者だというのは誰の目にもあきらかだった。
といっても、倉庫のほとんどがすでに各商会へと貸し付けられたあとらしく、埠頭にある倉庫街はエルセリア各地から集まってきた商人や、セレネ公国の荷役夫の姿でごった返していたが。
「あの……、もしやキーラン様ではございませんか?」
と、その老人に話し掛けてくるひとりの商人。
それはエルセリア王国随一の豪商と目されているフガート商会の幹部、ロレンソ・ミラーだった。
「ん? 誰かと思えばミラーではないか。なるほど、お主だったのか。この地区の担当を任されたのは」
「おお、やはりそうでしたか。お久しぶりにございます、キーラン様。はい。ジェイコブ様よりセレネ公国担当を仰せつかりました」
「ふむ、そうか。まあ、お主なら安心して任せられるだろうな」
「ご期待に応えられるよう尽力いたします」
「それでジェイコブのやつは今どうしてる? 息災か?」
「それはむろんのこと。いまだ現場に出られようとするので、こちらが困っているぐらいですよ。キーラン様も同じ王都に住んでおられるのですから、たまには本店のほうにも顔を出していただければ有り難いのですが」
「なあに。ジェイコブのやつにすべてを任せたのじゃ。今更ワシがのこのこと姿を現しても、あいつがやりにくくなるだけだろう」
そう言ってキーランが人好きのしそうな笑みを浮かべる。
ミラーはエルセリア商人の間で知らぬ者が居ないと言われるほどの大商人。
それにミラーの言葉が社交辞令だったわけでもない。
そんなふうにミラーが腰を低くしていることからも推察できるとおり、キーランはフガート商会の前会頭であり、現会頭であるジェイコブ・フガートの実の父親だった。
「それはお気のし過ぎかと存じ上げますが。それにしてもキーラン様はいったい何故この町に?」
キーランは5年ほど前に息子のジェイコブに跡目を譲ったあと、フガート商会にはあまり姿を現していない。ここ1年はタイミングが合わなかったせいもあるが、時節の挨拶のためにミラーがキーラン邸を訪れたときぐらいしか顔を合わせていない。
それがこうして思わぬ場所で再開したことにミラーはずいぶんと驚いている様子だった。
「商売人としての勘じゃな。伝わってきた噂だけでもピンときた。これはエルセリア王国にとってこれまでにない大きな変化が起こりそうだと」
「やはりキーラン様もそうお感じで?」
「お主も感じたか。いや、これだけのものを目にして、そう思わぬのなら商売人として失格よ。セレネ公国に伸るか反るかで、フガート商会の未来も大きく変わってくるに違いあるまい」
「はい。現在不足している塩だけではございません。香辛料や甘味、酒、鉱石から繊維までと、セレネ公国産の品は何もかもが高品質ときている。こんなものが新たに出回るとなれば、エルセリア王国のこれまでの市場など一気に崩壊し兼ねないかと」
「そのことについてジークバード伯爵はなんと?」
「基本的にセレネ公国産の品には関税をかけたり、交易量を制限するそうです。既存の生産者になるべくしわ寄せが向かないようにすると。ですが、それでどうにかなる問題だとも思えませんが」
「ジークバード領の主な特産品は麦と魔晶石だからの。そこまで影響が出ないと踏んでいるのかも知れんな」
貴族のような支配者の立場からすれば、一部の平民の生活がどうなろうとあまり関係ない話だ。
領全体が経済的打撃を受けるという話なら別だろうが、今回のケースはジークバード伯爵が享受する利益のほうが大きいはず。
それでもある程度は対処すると言っているのだから、為政者としては幾分マシなほうだろう。
「ええ。問題は中央の人間が今の事態を正確に把握していないことでしょうか。いや、ただ甘く見ているだけか……」
「傑物のラグナヒルト宰相も経済には暗いか。どうやらジークバード伯爵のほうが一枚上手のようだの」
そうは言ったものの、キーランとしてはラグナヒルト宰相の苦しい立場も多少は理解しているつもりだった。
一番の問題は南部のロレーヌ領だ。
あきらかにロレーヌ伯爵の動きがおかしい。
そういう状況でジークバード領の話にまで口出しすれば、要らぬ敵を増やすだけだ。おそらくそういう事情もあってあまり強く言えなかったのだろう、と。
「王国内の有力な商会はこぞってジークバード伯爵と、セレネ公国に媚びを売り始めています。といっても、我々フガート商会もそのうちのひとつなのですが」
「それでどこまで食い込めたのだ? セレネ公国とは賄賂を受け取るような相手だったのか?」
「受取りはするのですが、効果は微妙かと。ディアルガー提督はかなりのやり手のようで、賄賂の見返りの話になった途端、あからさまに話を逸らされまして」
「結局煙に巻かれてしまったか……」
「申し訳ございません」
面目次第もないといった感じにミラーが頭を下げる。
キーランはすでにフガート商会を引退している身なので頭を下げる必要もなかったのだが、ミラーとキーランの間にはいまだ主人と使用人という関係が成立している様子だった。
「仕方あるまい。セレネ公国は交易で栄えている国だと聞いた。一筋縄にはゆかぬ相手だろうよ。それでお主の目から見て、ディアルガー提督とはどのような御仁だったのだ?」
「はい。少しの時間、会話をさせていただいただけですが、見識も立ち振る舞いも只者ではありません。圧倒されるような偉丈夫で、思いのほかエルセリアの世情に詳しく、終始主導権を握られっぱなしでしたよ」
「それほどか?」
「はい。なんとか好条件を引き出そうと思い、頑張ったのですが……」
「さすがに倉庫のほうは貸し与えてもらえたのだろう?」
「そこは何とか。目を付けていた一等地はすべてラーカンシアの商人に持っていかれましたが、フガート商会もなかなかの好立地を割り当てられております。倉庫内も珍しい魔道具だらけで、さぞや驚かれることかと。高級宿といっても差し支えないほどの設備ですよ。早速ご案内いたしますね」
「うむ。ここに来る道中、竜車とやらをこの目で見たので、ある程度の察しは付くが。それにしてもラーカンシアの商人か。商会の名は?」
そう言って倉庫のほうへそろそろと歩き出すふたり。
「ゴードウィン海運商会とか。寡聞にして私はこれまで一度も耳にしたことがなかったのですが、キーラン様はもしやご存知で?」
「いや。ワシも初耳じゃな」
「一等地もそうですが、ラーカンシア向けやエルセリア南部への荷はすべて、そのゴードウィン海運商会を通してという形になりそうです。かなり早い段階でセレネ公国と接触していたみたいで」
「だとしてもセレネ公国はずいぶんとその商会に肩入れしておるようだな」
「どうやら会頭の一人娘をセレネ公国に差し出したみたいです。なかなかの美人だという噂ですが」
「色仕掛けか。ならば話が早い。こちらも似たような手段を取れば良いだけの話よ」
ジェイコブの娘はまだ若いが、親族の中には年頃の娘を持つ者もいる。
そんなことでセレネ公国との間に深い縁が結ばれるのなら安いものだろう。
「それがすでにその件を断られていまして。ゴードウィン海運商会だけでなく、セントルーア商会からも奴隷を贈られたそうなのですが、セレネ公国としては扱いに困っていると」
「ふむ、駄目か。確かに市井の娘をひとり差し出しただけで、そこまで優遇するかと言われれば少々疑問だがの」
「理由はわかりませんが、ゴードウィン海運商会がセレネ公国の御用商人のような立場になっているというのが現状です」
ミラーが感じているかぎりでは、ディアルガー提督というのは至って公平な人物。
施策や商人たちへの待遇にもその点は良く現れていて、小さな商会に対しても充分な配慮がなされていた。
そういう点から考えてもゴードウィン海運商会への厚遇だけはいささか不可解に思える。
「昔から繋がりがあったのでは?」
「いえ。セレネ公国の船が初めてここポートラルゴに現れたのは、ほんの数ヶ月前の話だというのは間違いない情報のようです。それ以前にラーカンシアとも接触があったというのは、ちょっと……」
「となると、ゴードウィン海運商会の会頭がそれだけ切れ者だったということになるな」
「私もそう思い、ゴードウィン海運商会の会頭であるドラガン・ゴードウィンに会って話してみたのですが、これがあまりパッとしない感じで」
「そういうふうに見せかけておるのだろう。商人というものはときに他人を欺く必要があるのでな。それにディアルガー提督がお主の見立てどおりの人物なら、能力がない人間にかような大役を任せようとはせぬはずだ」
「能天気そうな人物に見えましたが、あれはすべて演技だったと?」
「少なくともエルセリアの商人たちを出し抜いて、ラーカンシアの商人がいち早くディアルガー提督に取り入ったのだ。相当に鼻が効くことだけは間違いあるまい」
「それは確かに。商売か何かでたまたまポートラルゴを訪れていたのでしょうが、我々が急ぎ駆け付けたときにはすでにセレネ公国に深く食い込んでいる状態だったみたいで」
「それでフガート商会としてはどう動く気なのだ?」
「ひとまずはゴードウィン海運商会の下に付くしかないかと。ラーカンシア向けの荷は仕方ありませんが、エルセリア南部への荷までフガート商会だけ外されてはかないません。塩だけは各商会ごとに購入量が定められているため、あまり関係ないのですが」
ジークバード領に関しては、元々フガート商会の勢力もそこまで強くなく、王都向けの荷に関してはほぼこれまでどおりに扱えるはず。
とはいえ、エルセリア王国内の流通の拠点がレイネの町やヴァイツェンシュタットの町からここ港町ポートラルゴに移る可能性が非常に高い。
ミラーとしては一時的にゴードウィン海運商会に膝を屈する形になっても仕方がないと考えていた。
「ラグナヒルト宰相に睨まれる事態になりそうだな」
「キーラン様はセレネ公国とは距離を置いたほうが良いとお考えで?」
「いや。今後権勢がどう動くかわからん。しばらくは両天秤にかけるしかあるまい。ロレーヌ領の様子もだいぶ怪しくなってきていると聞いた。下手をすればマガルムークのような内乱が起こるかも知れん」
「私のほうにもきな臭い情報がいくつか届いておりますが、さすがにそこまでの事態には至らないのでは?」
「だと良いがな。だが、セレネ公国の噂が広まる以前からロレーヌ領の物流には不穏な兆候が見られた。そして今回のセレネ公国の一件で、一番割を食うのは間違いなくロレーヌ領だろう。そうなった場合にロレーヌ伯がどう動くか……」
「危ない、と」
「わからん。ただ、これまでラグナヒルト宰相派だった貴族がロレーヌ伯の陣営に鞍替えしたという噂も聞く。そのこともあってラグナヒルト宰相がジークバード伯爵との関係を見直すべきだと考えているのかも知れんな」
「なるほど。おっと、この倉庫です。続きは中で伺います」
引退したといっても長年キーランが築いてきた情報網のほうは健在なのだろう。
特に政治的な話になると、使用されている側に過ぎないミラーなんかよりよほどエルセリアの情勢に詳しいはずだ。
そういう意味でもミラーにとってはまだまだ頭の上がらない相手だ。
だからなのかも知れない。
倉庫内に入った瞬間、驚くキーランを見たミラーの顔には、まるで主人に対して自分の手柄を誇るような満足げな表情が浮かんでいた。




