110 セレネ公国の姫君
◇
「みょおおおおおおおおおお!!」
屋敷の庭のほうから聞こえてきた孫六の奇声に俺は目を覚ます。
窓の外を見るとすでに明るく、どうやら太陽が昇ってけっこう経っているらしい。
寝ぼけ眼のままベッドから起き上がろうとする。
と、すぐ隣で何やらモゾモゾと動いている感触があることに気付いた。
「はあ。なんでこいつが隣で寝てんだよ」
布団をめくった俺の視界に映っていたのは、猫のように丸まり、すやすやと眠っているルカルナの姿。
昨晩も酒を飲みはしたが酩酊するほどではなかったし、寝るまでの記憶もはっきりしている。
ルカルナに手を出した覚えはないし、当のルカルナも昨晩と変わらぬメイド服姿のままだ。
そもそもルカルナにはすぐ隣に私室を与えてあり、寝る前に今日はもう下がってもいいと言い渡したはずだが……。
ルカルナがどうしても俺の専属メイドになりたいと言ってきたために渋々了承する形になったが、妾や側室にするとまで俺は言っていない。
それが何故俺のベッドに紛れ込んでいるのかさっぱりだ。
といっても、ルカルナのアプローチはその裏に何か魂胆があるとは思えないほど真っ直ぐなもので、実をいえば満更でもなかったが。
とはいえ、つい先日ネビアという奴隷女の一件があったばかり。
ラウフローラなんかはドラガンたちが闇の使徒である可能性まで考慮したみたいだ。
が、俺やセレネ公国に接触してきた人間を片っ端から疑っていたらきりがない。
俺がその可能性を度外視したため、最終的にルカルナを迎え入れることに決まったというわけだ。
というか、俺をこの世界に繋ぎ止めるためにイシュテオールがルカルナという女を用意したと言われたほうがまだ頷けるぐらい。
ただし、それならそれで海上での出会いからすべて仕組まれていたことになるし、ルカルナの瞳が赤かったわけでもない。
結局のところ、せいぜいが損得勘定だったり、危ない場面を助けられたことによりのぼせ上がっているだけの話で、ルカルナやドラガンたちにそれ以外の意図はないと俺は判断していた。
「おい、起きろ」
「ん……むにゃむにゃ。きゃあっ。レッドさまー。そんなところに触ったら駄目なんですよお」
「はあ?」
「すーすー」
「くそっ。寝言か……。それにしてもいったいどんな夢を見てんだよ。おい、ルカルナ。朝だぞ、起きろ」
俺が眠りに付くと同時に、ルカルナは自分の私室へと帰ったはず。
それがいつの間にやら俺の隣で眠っている。
ラウフローラやウーラがそんなルカルナの侵入に気付かなかったわけもなく、無害だと判断して放置しているのはわかるが、これはこれで俺が対応に困るだけだ。
まあ、この世界に転移してからというもの、あちらこちらで女に手を出しているので今更といえば今更だが。
「うーん、もうちょっとだけ寝かせて。って、なんでレッド様が?」
「なんでじゃないだろ。お前のほうこそ、なんで俺の隣で寝ているんだよ」
「あっ……」
「まさか、いい年してひとりで寝るのが寂しかったとか言い出す気じゃないだろうな?」
「そ、そんなことありませんって。朝方、レッド様をお起こしするためにやって来ただけなんですから」
「ほう。それで?」
「ええと、その……、まだちょっと時間が早いかなと思って、しばらくお顔を拝見していたら、そのうちに眠ってしまいまして」
「いやいや。おかしいだろ。なんでわざわざ俺の隣で横になって、顔なんか見ていたんだ?」
「レッド様の寝顔が素敵だったせいです」
「あのなあ……。ルカルナのことはメイドとして雇ったってことを理解しているか?」
「はい。お手付きになることを前提とした専属メイドとして雇っていただきました」
「はあ? それは保留にすると言ったはずだが。それに、だからといって俺の寝顔を観察する必要がどこかにあったのか?」
「レッド様が安眠なされているのか確かめておくのも、専属メイドの仕事のうちかと」
「くっ……。もういい。それよりも起きるから支度をしろ。孫六が何か騒いでいるらしい」
「はい。かしこまりました」
主人のベッドに勝手に忍び込んでくるなど、メイドとしてはあるまじき行為だろう。
言葉遣いは礼儀を弁えているのか少々疑問だったし、俺に対する馴れ馴れしい態度も無礼といえば無礼。
が、ルカルナの場合、それらすべてが純粋な好意からくるものであるような気がする。
言葉遣いだってこれでも本人としては気を付けているほうらしい。
この世界にしては珍しく、女性なのに物怖じしないところも俺としては気にいっているぐらいだ。
この世界の女性は下手に駆け引きしたりしない反面、自分から進んでアプローチしてくることも少ないように思うのだが。
まあ、完全な貴族社会ではなく、比較的身分制度が緩そうなラーカンシア出身ってこともおそらく関係しているのだろう。
「どのお召し物になさいますか?」
「適当でいい。ちょっと外の様子を見に行ってくるだけなんでな」
すぐさまルカルナが俺の服を用意する。
この世界でも一応は通用しそうなルネッサンス風のシャツとパンツ姿だ。
が、俺が着替えている最中、ずっとルカルナからの視線を感じるはめになってしまった。下着だって新しいものに着替えているのに。
部屋から退出したり、目を伏せることまではしなくとも、失礼にならないように見て見ないふりぐらいはするべきじゃないのか?
が、その場には俺の残りの衣服を手に持ったまま、うっとりと着替えを凝視し続けるルカルナの姿があった。
リリアーテ辺りに命じて、メイドとしての礼儀作法を一から教育するか?
とはいえ、それほど不快に感じているわけでもない。
それに情けないが、ルカルナに手を出すことは絶対にないと言い切れないのが、正直なところだ。
だったら諦めたほうが早いか。あまりにも調子に乗っているようなら注意する必要はあるが、これぐらいなら可愛らしいもんだろう。
そういうわけで俺は、多少の無作法には目を瞑ることにした。
軽装に着替え終えた俺は、ルカルナのことは放っておいて庭の騒ぎのほうへ意識を向ける。
正直、もうひとりの新入りのほうが問題だ。
おそらく孫六が騒いでいるのも、その新入りが関係しているのだろう。
それを確かめるためにも俺はルカルナを引き連れた状態で、そのまま自分の部屋から出ていった。
◇
高い塀に囲まれたセレネ公国の屋敷の庭では、孫六が愛用の槍を滅茶苦茶に振り回している様子があった。
が、その槍は相手にまったく掠る様子もない。
まあ、当たったところでたいして痛くもない非実践用モードだったが。
とはいえ、孫六のほうは真剣な様子。
もしかしたら当てる気はなく、威嚇のために槍を振り回しているだけなのかも知れないが、俺の目には孫六がパニックに陥っているようにも見えていた。
「みょっ! みょっ!」
「みょおおおお、みょおおおお!」
「みょ? みょおおおおおおおおおおおおお!!」
一人と一匹から交互に奇声が発せられる。
シャーラと孫六だ。
どういうわけか孫六はシャーラのことが苦手だったらしく、屋敷に連れてきた当日からすでにこんな状態。
最近はだいぶ慣れてきた様子のエレナのことも最初はちょっとだけ苦手意識を持っていたみたいなので、もしかしたら女性全般が駄目なのかとも考えたのだが、リリアーテはおろかルカルナとも普通に接している様子がある。
まあ、ふたりとも孫六に対してしつこくするのでそのせいかも知れない。
何よりも問題だったのはシャーラが面白がって孫六の真似をすることだ。
エレナは孫六に好かれようとしてあまり無茶な真似をしないが、シャーラのほうはそうじゃない。
今も孫六の真似をして奇声を発しているぐらいだ。
シャーラとしてはただ遊んでいるだけなのかも知れないが、孫六の姿を目にするなりそうやって追いかけ回すので、連日槍を振り回しながらシャーラから逃げ回る孫六という構図が出来上がっていた。
「シャーラ。孫六のことを驚かしたら駄目よ」
そんなリリアーテの言葉にもシャーラはまるで耳を貸さない様子。
いや、おそらく意味がわからないだけだろう。
身体付きは大人になる一歩手前なのに、精神面のほうは幼児そのもの。
孫六にシャーラの事情を説明したところで無意味だし、シャーラのほうを諭しても言うことを聞くわけがない。
そんなわけでリリアーテも相当困り果てている様子だった。
俺だってそうだ。
子供の相手なんかこれまでろくにしたことがない。リリアーテで駄目なら俺の出る幕なんかどこにもないだろう。
「シャーラお嬢様。お屋敷の中で一緒に美味しいお菓子でも食べませんか?」
と、そんな事態を察したのか、俺の後ろからルカルナが前へ歩み出ると、その場にしゃがんでシャーラに対して優しく声をかけ始める。
当然ながらマガルムークのモーライズ村で偶然拾った少女だなんてことは話していない。
ルカルナのような部外者には、シャーラは魔物の群れに襲われて両親を亡くしており、そのときのショックで記憶まで無くしているので、縁故がある俺がしばらく面倒を見ることになったと説明してある。
そのせいか、ルカルナはセレネ公国のそれなりの家の出だと勘違いしている様子があった。
「もしかしてルカルナは子供の扱いが得意だったりするのか?」
俺がそう言ったのは、ルカルナの言葉にシャーラが少しだけ従うような素振りを見せたからだ。
「はっ、はい。大、大、大得意です。普段から船員の子供たちの相手をよくしていたんですよ。レッド様のお子なら何人授かっても大丈夫ですが」
「そうじゃなくてだな……。シャーラの面倒を見れそうかと聞いているんだ」
「え?」
「勘違いするな。メイドを辞めさせるつもりでこんなことを言い出したわけじゃないんだ。暇なときでいい。シャーラのことも少しだけ世話をしてやってくれという話だ」
「な、なるほど。承知しました」
俺のその言葉に少しだけ残念そうな顔を浮かべながらも、シャーラに対して優しく微笑みかけるルカルナ。
そのままシャーラと手を繋いだルカルナが、屋敷のほうに向かってゆっくりと歩き出す。
ちょうどいい。
これこそがイシュテオールが用意した巡り合わせなのかも知れない。
そんな都合の良いことを考えながら、俺も屋敷の中へと戻っていった。
◆
夜もだいぶ更け、ポートラルゴの住民もすっかり寝静まったような頃合い。
ポートラルゴの安宿の一室には闇の使徒である奴隷たちの姿があった。
あまりひと塊になって行動していると、セレネ公国からあらぬ疑いをかけられ兼ねない。
そんな理由から普段はなるべく別行動を取っていた奴隷たちだったが、どうやら緊急の話し合いのためにすべての奴隷がこの場所に集まっているらしい。
その場には当然ながらネビアやディーンの姿もある。
それだけではない。
ちょっと前にセレネ公国に連れていかれたはずのイザベラ、そしてその後すぐイザベラに続くようにして同じくどこかに連れて行かれたムイスとカーラの姿まであった。
「で、3人ともただ治療を受けていただけだと?」
どこか納得のいかない様子でディーンがイザベラにそう問いかける。
「そうね。治療というか、もしかしたら呪術の類いかも? ずっと頭がぼんやりしている状態だったので、正確なところは私もわからないのよね」
「ああ。ずっと何かを聞かされていたような気がするな。そのおかげなのかわからんが、次第に痛みが治まっていったことだけは確かだ」
「だけど、セレネ公国の連中がそんな甘い対応を取るかしら? どこに連れていかれたのかはわかる?」
「た、多分洞窟の中だったと思うわ。ずいぶんと暗かったような気がするもの。その洞窟の中に小部屋がいくつかあって、そこにしばらく閉じ込められていたような気がするのよね」
イザベラとムイスがディーンの問いに答え、続くネビアの疑問にはカーラが3人を代表して答えていた。
「それならディアルガー提督はその場に居た?」
「いいえ。提督の姿は見かけなかったわ。私が見たのはしわがれた老人と亜人女性のふたりだけね」
「私も……」
「そうなの……。でも良かったわ。闇の使徒であることがセレネ公国の人間にバレてなさそうで」
「それはどうかしら? ただ、最後に老人がこう言ってきたの。今回は助けたが次はない。これ以上、余計な真似をするようなら、敵対しているものと見做すぞって」
「なっ……」
「それに私たち3人とミューズ、ドナの計5名はこれでお役御免らしいわ。問題を起こした奴隷はロジャー様の元に送り返すって」
「相手には私たちの素性がとっくにお見通しだったということ?」
「さあ。そうとも受け取れるし、そうではなく私たちの行動が単に怪しまれているだけかも……」
「あん? 俺とドナは何もしてないだろうが」
「ミューズ。あなた、何でもこの町に住んでいる娘を手籠めにしたらしいじゃない?」
「うっ。そ、それは相手の女から言い寄ってきたのであって……」
自分の行動はバレていないと思っていたのだろう。
慌てた様子でミューズがイザベラに弁解する。
「ドナもどうやらそうみたいね。下手に商売っ気を出して、何人も町の男を咥えこんでいるって聞かされたわ」
「だぁってえ、ここでの生活がつまらなかったんですものぉ。殺しはするなってロジャー様からは命令されてるしぃ。食べ物はとっても美味かったんだけどねえ」
舌っ足らずの甘えた口調でそんなことを口にするドナ。
こちらは悪びれもせず、呑気そうにそう話しただけだったが。
「それよりもイザベラ。さきほどの話は本当か? その老人ってのはまさか貴人だったりするのか?」
「わからないわよ。ずっと頭がぼうっとしてたって言ってるでしょ。ただ一瞬だけ貴人の存在を感じたような気もするけど……」
「今の話の内容からすると、その老人は少なくとも闇の使徒か、貴人である可能性が高いと思うわ。だけど、どういうことかしら? ディアルガー提督やセレネ公国の要人の中には闇の使徒が居ないはずなのに」
「わからないわ。いずれにせよ、イシュテオールの忌々しい呪いを治療できる存在がセレネ公国の中には居るってことは確かでしょうね」
「そうね。だけど、向こうの意図が掴めないわね」
「仮にあの老人が貴人だったとして、あちらはあちらでこちらとは揉めたくないってことなんじゃないかしら? ロジャー様も貴人同士で争っていても意味がないと仰っていたことだし。いずれにせよ、残りの任務はあなたたちに任せることになるわね」
「わかったわ。すぐにここを立つつもり?」
「ええ。なるべく早くここから出て行ったほうがよさそうだからね。ミューズとドナもそのつもりで旅の支度をしておいて」
「ちっ。なんでこの俺様が……」
奴隷たちの間に沈黙が落ちる。
皆、相手の正体がわからず、不気味さを感じている様子だった。
もしセレネ公国を裏で操っている存在が貴人ということなら、下手に楯突けば惨たらしく殺されるだけだ。
自分たちが束になっても敵う相手ではないことぐらい、この場に居る闇の使徒ならば当然のように理解している。
ネビアの背筋が凍りつく。
調子に乗ってマイルズのことを嵌めようとしていたが、すぐに中止するべきだろうか?
ディーンという盾は貴人相手では役立たずだろう。
いや、ディーンにすべての責任を押し付けることならできるはずだ。
どうやって自分だけは助かるかという身勝手な思いを、ネビアだけでなくその場に居た全員が考えている様子だった。




