105 イシュテオールの器
何者かに抱きかかえられていた感触がふっと掻き消える。
と、同時に光に遮られていた俺の視界が元通りに戻っていた。
周囲の人間たちがざわめく声も聞こえてくる。
もしかしたらそのざわめきも今の今まで聞こえなかっただけで、ドール以外は皆、今の異変を感じていたのかも知れない。
といっても、ついさっきラウフローラが忠告してきたように、ドールたちも周囲の様子から何かおかしいことには気付いていたらしいが。
万が一何か起きた場合に備えて、この場からすぐに離脱できるようにしていたのだろう。
中庭の隅で全体の様子を確認していたリリアーテが、いつの間にか俺の背後へと移動している様子。
それにリリアーテだけでなく、ラウフローラも俺のことを庇うように少しだけ距離を詰めてきている様子があった。
間違いなく俺のことを護衛するためだ。
が、俺に触れられるほどの距離ではない。
それに、直前までジークバード伯爵や貴族連中の相手をしていたせいか、バルムンドはその場から一歩も動いていない。となると、今俺を抱きしめたのはドールではない誰かってことになりそうだが……。
むろん今の仕業を誰がやったのか薄々は察している。
セレネ公国以外が人間が突然俺に抱き着いてくるというのはちょっと考えにくいし、一連の成り行きからしても、あれがイシュテオールということなのだろう。
ドールの視界からは光に閉ざされていた世界が通常の光景に見えているようだったので、あとで記録映像を確認すればそこもはっきりするはず。
が、ここで今騒ぐわけにもいかない。
この場に居る全員が似たような体験をしているのなら話は別だが、俺だけ特別だったということもあり得るからだ。
「私のほうは問題ないみたいです。フローラ様は大丈夫ですか?」
俺は何もたいしたことが起きていないふうを装い、ラウフローラにそう問いかける。
といっても、ラウフローラの身を案じたわけでもない。俺以外の人間の状況を確認したかっただけだ。
「私のほうも問題ありません。ですが、祈りの聖句が止まった直後に突然聖女様が倒られた様子。お付きの方がすぐに駆け寄り、介抱しているみたいですが、ちょっと心配ですね。それと会場内で何名か気を失っているらしい方がおられる様子です」
ラウフローラがそれとなく現在の状況を伝えてくる。
その言葉を聞き、俺も改めて周囲の様子を見渡す。
と、ラウフローラの言葉通り、中庭のあちこちで騒ぎになっているような状況だった。
気を失った者の中にはどうやら貴族もいるらしい。
俺の視界が戻ったのと同じようなタイミングで従者が駆け寄り、ボーフム男爵様、ボーフム男爵様と必死に貴族の名前を連呼していた。
何があったのかまでは不明だ。
今の光というか、祈りの聖句が原因なのは間違いなさそうだが。
が、想像とはまるで違う光景を前にし、俺の中で疑問がこみ上げてくる。
「それにしてもこれが祝福ですか?」
「どうやらそのようですね。少なくとも私たちの知らない何かが起きたことだけは間違いありませんが……」
それはそのとおりだろう。
俺の身に起きたこともおそらくは超常的な出来事だったはず。
が、あまり良い結果のようには思えなかった。
俺の体験はともかくとしてバタバタと何人もの人間が倒れている様子を見て、吉兆だと思う人間は少ないだろう。祝福どころか、イシュテオールによる神罰に見えてもおかしくない場面だ。
が、そんな疑いも聖女を介抱していたお付きの少女が放ったひと言によってすぐに否定されていた。
「皆様、お喜びください。たったいま、イシュテオール様がこの地に祝福をお与えになられました。今後この地は豊かに草木が芽生え、善良な生き物たちが集う楽園になるとのお話です」
「おお!」
「それは素晴らしい。この地にイシュテオール様の祝福がもたらされたのですね」
「うーむ。セレネ公国のことをお認めになられたということか……」
「ですが、聖女様はいったい……」
「心配は要りません。イシュテオール様が一時的に聖女様のことを器にされたことにより、疲弊なさっているだけです。祝福を請うといっても、普段は儀式的に行うだけなので何も起きませんが、本来はこうなるのが当たり前なのですよ」
「ほっ」
その言葉を耳にし、あからさまにほっとした様子のストレイル男爵。
記念式典にて突如聖女が倒れたことがエルセリア中に知れ渡れば、ポートラルゴの評判が悪くなるだけだ。ストレイル男爵からすれば、気が気でなかったに違いない。
まあ、演出が派手だったわりには特にこれといった変化が見られない。
俺としては少しだけ肩透かしを食ったような気分にもなっていたが。
そんな感じに聖女に問題がないことを告げられた皆がおのおの自分たちの席へと戻っていく。
俺たちもその様子に倣い、自分たちの席へ戻ることにした。
聖女のことは気になっているが、お付きの少女が心配要らないと言っている以上、俺たちが確かめにいくわけにもいかない。
おそらく皆も似たような感覚なのだろう。
その場には大人しく自分の席へと戻っていく参列者たちの姿があった。
と、それまで地面の上に倒れていた聖女がその場でゆっくりと立ち上がる。
「もう大丈夫ですよ、アレーナ」
「聖女様……」
「皆様にもご心配をかけましたね。それと私の未熟さゆえ、祈りが中途半端に終わってしまい申し訳ありません。ですが、イシュテオール様がこの地に祝福をお与えになられたのは紛れもない事実。そのことは聖女であるこの私が保障致します」
意外にも俺たちにとって都合の良い結果だったのかも知れない。
聖女がそう断言した以上、今後エルセリア王国とセレネ公国の結び付きにケチを付けることは難しいはずだ。
さきほどバルムンドに難癖を付けていた貴族もこれで大人しくなってくれるといいのだが。
が、そんな聖女に近寄り、おずおずと声をかける者が居た。
さきほど倒れた貴族に駆け寄り必死に呼びかけていた従者だ。
「も、申し訳ありません、聖女様。ボーフム男爵様が聖女様と同じように突然お倒れになられて……」
「そうですか。それがどうかしましたか?」
そんな従者に対して聖女が冷酷にそう言い放つ。
その言い方は非常に冷たく、聖女に対して優しげな印象を抱いていた俺からすれば思いがけない反応だった。
いや、俺だけじゃない。
周りの人間も皆驚いている様子だったし、お付きのアレーナですら聖女の言葉に一瞬だけ驚いた表情を浮かべたほどだった。
「え? い、いや。聖女様にボーフム男爵様の治癒をしていただけないかというお話なのですが。お付きの方でも構いませんので」
「放っておきなさい。その者もそのうちに気が付くのではないのですか? そうならなかったらそうならなかったで、あとで治療師にでも診てもらえばいいでしょう。見てのとおり、私もこの子たちも少々疲れておりますので」
「お疲れではございましょうが、そこを何とかお願いできないでしょうか? む、むろんのこと、あとでしっかりと寄進のほうをさせていただきます。聖女様が祈りの聖句を唱えたあとボーフム男爵様はお倒れになられたようなんです」
「それが私のせいだと?」
「い、いえ。そんなことは。ですが、ほかの方も何人か同じように倒れられたようですし……」
「わかりませんか? 私はその者たちを治癒する気がないと言っているのですよ」
「そ、そんな……」
エルミアーナが語気を強めてそう言い放つ。
従者とはいえ、こんな場所に貴族と一緒にやってくるぐらいだから、それなりの地位に居る者のはず。
それなのに聖女からそんな対応をされるとは思ってもみなかったのだろう。
怒りのためか、はたまた恥ずかしさのためだったのか、従者は顔を真っ赤にしながらその場に呆然と立ちすくんでいる様子だった。
「アレーナ。椅子に座って少しだけ休みたいわ。あちらの空いている席で一旦休ませてもらいましょうか」
そんなボーフム男爵の従者を無視し、エルミアーナがスタスタとこちらへ向かって歩いてくる。
そして何の断りもなく、俺たちが座っている席の向こう側にどっしりと腰を落ち着けていた。
「すみませんね。セレネ公国の皆さんを驚かせたみたいで」
そう言ってエルミアーナが俺たちに笑いかけてくる。
そんなエルミアーナの顔は、従者に向けたものとは打って変わり、元の柔和で優しげな表情へと戻っていた。
「聖女様。体調のほうは大丈夫でしょうか?」
聖女の対面に座っていたラウフローラがそう問いかける。
「疲れただけですので、少し休めば大丈夫ですよ。それよりセレネ公国の皆様は祝福を授けていただくのはこれが初めての経験だったのでしょう? どうでしたか?」
「はい。素晴らしい経験でした」
「それは良かったです。私自身もこれほどはっきりとイシュテオール様の存在を感じたのはこれが初めての経験だったのでね」
「そうなのですか?」
「ええ、残念なことに。祈りの聖句を唱えたからといって、イシュテオール様が誰にでも気軽に祝福を授けてくれるわけではありませんからね」
やはり俺がこの場に居たからか?
いや、気を失った者たちが関係しているということだって充分考えられる。
いずれにせよ問題なのは、俺たちの向かいの席にわざとらしく腰掛けた聖女の思惑だった。
「さきほどの方たちを治癒されなくてもよろしいので?」
ジェネットの町が魔物に襲われたとき、ピットやマヤの目を通して治癒の奇跡とやらが行使される現場を俺も見ている。
イシュティール教会の聖女なら当然のように治癒の奇跡が使えるはずだ。
むろん疲弊しているというのも本当だろう。
が、さきほどの聖女の態度が明らかにおかしかったのは、俺だけでなくほかの人間も感じたことのはず。
嫌悪感むき出しで、まるで怒りを抑えているかのような様子。
そんな感情が伝わったのか、聖女が居る俺たちの席に誰も近付いてこようとはしなかった。
「構いません。あの者たちは自業自得なのですから」
「自業自得? それはいったいどういう意味でしょうか?」
「さきほどあなたに忠告した話があるでしょう。つまりはそういうことです」
そんな俺の問いかけにエルミアーナは一瞬周囲を見渡したあと、こっそり耳打ちするように俺に返事をしてきた。
「なるほど……。イシュテオール様がそう仰ったと?」
「いいえ。実を言うと、私もイシュテオール様のお言葉がはっきりと聞こえているわけではありません。何となくご意思が伝わってくるというか……。とはいえ、私にはわかるのですよ。あの者たちにイシュテオール様が罰をお与えになられたのだと」
やはり神罰の類いということか。
が、それなら俺の身に起きたことは?
「だったら何故そのことを告発したり、糾弾しなかったのですか?」
悩んでいる俺の代わりにラウフローラがそう尋ねる。
「勘違いしないでください。あの者たちが邪教徒だと確信したわけではないのです。単に盗みを働いただけなのかも知れないし、教えに背く行為をしたのかも知れません。それにイシュテオール様が直接ご判断を下されたことに、私がそれ以上何かするわけにはいかないのですよ。そもそもあのボーフムという方はエルセリア王国の貴族。あの場で私が何か言えば、大問題になりますからね」
「たった今、私たちに漏らしているのは大丈夫なんですか?」
「ふふふ。そういえば、そうですね。私としたことがどうやら失言をしてしまったようです。これは困りましたね」
まったく困っていない様子でそんなことを呟くエルミアーナ。
その顔は悪戯っ子のような笑顔で、明らかにわざと俺たちに今の話を漏らしたのだとわかるものだった。
「といっても、あなた方はけっして喋ったりしないと思いますけどね。だって、あなたがそうなのでしょう?」
そう言ってエルミアーナがじっと俺の顔を見つめてくる。
ラウフローラでなく、何故かこの俺を。
明らかに意味ありげな表情。
何かを探るような目つき。
それが意味することに心当たりがあった俺は、何とか平静を保とうと必死になっていた。
「はい? いったい俺が何だと言うんです?」
「ふふふ。いいえ、何でもないわ。それよりもあなたのお名前を聞かせてくださらない?」
「レッドです。レッド・グリーンウッドですが……」
「レッド様ですか。わかりました。疲れも癒えたので、私たちはこれで失礼することにします。あまり長い間、教会を留守にしておくわけにはいきませんので。それではレッド様。近々またお会いできるのを楽しみにしていますよ」
それだけ言ってエルミアーナが椅子から立ち上がる。
そんな聖女の様子を俺は眉間に皺を寄せながら眺めていた。




