エピローグ
世界は、こわい、で満ちていた。
たとえば、家のお風呂。
たとえば、登校途中の電柱の陰。
たとえば、学校の階段の踊場。
多くはそこにいるだけだけど、たまについてきたり、触ってくるのが、たまらなく怖かった。
たとえば、近くの公園にいるロープに巻かれているお姉さん。
たとえば、橋の欄干の外にぶら下がっている男の子みたいなもの。
たとえば、学校の近くの神社にいる白いワンピースを着た誰か。
たとえば、慶くんちのこたつの中のおばさん。
全部、ぜーんぶ、わたしにしか視えない。
こわいもの、だった。
世界は、変わった。
慶くんのおまじないは、すごい。
家のお風呂。
電柱の陰。
学校の踊場。
公園。
橋。
神社。
何もいない。
何も、視えない。
空は、大地は、海は、世界は、
こんなにも。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
カツリ。
小さな音をたてて、何かが落ちる音がした。
「りん、落としたぞ。」
細い銀色の鎖がシャラリと流れて、それが滑るようにスカートのポケットからこぼれ落ちた。
学校へと向かう娘が玄関のたたきで落としたものは、紺色のチェックのスカートには似つかわしくないものだった。
というよりも。
娘が拾おうとしないので、どっこらしょ、とかけ声をかけて拾い上げる。
銀色の華奢なチェーンに、親指の先ほどもありそうな赤い雫のかたちをした石がついている。
ティアドロップ、と言うのだったか。
制服にというか、娘に、似つかわしくないと思った。
「どうしたんだ?これ。」
そう問いかけて顔をあげれば、どこか上の空で視線を泳がせ、もらった、と言う。
不思議に思いながらも手渡すと、大事そうにポケットにしまった。
「あの、男の子からもらったのかい?」
気になって、そう問いかける。
ほら、金髪の、と何でもないことのように付け加えた。やはり男親というものは、娘の彼氏事情に狼狽えるものらしい。
娘はキョトンとして、違うよ、と笑った。
じゃあ、誰からこんなものをもらったというのか。
親が知らなかっただけで、他にもおつき合いをしていた奴がいたのだろうか。
そのまま、誰にもらったの、と聞けば、何を?と返ってきた。
はぐらかされた。
そう思い、苦笑いを返した。
それに娘が首を傾げて笑い、ドアノブに手をかける。
引っ越してきてからは更に雰囲気が明るくなり、いかにも学校が楽しいという風で家から送り出す側も気持ちが上向く。
少し前に持ち帰った、やたらと大きくリアルなパンダのぬいぐるみは、金髪の彼からもらったものだという。
ぬいぐるみがあまり好きではないあのりんが、ベッド脇に大切そうにそれを置いている、と妻が嬉しそうにこぼしていた。
娘のその気持ちの変化が、件の彼のおかげなのだとしたら感謝しなければならない。
自分と妻には、理解できないモノを背負った子だった。親子共々苦しんで、同じような苦しみの中にいる姉に娘を託したことも、一度や二度ではなかった。
なので、解決方法が見つかったときは踊り出すほど嬉しかったし、夫婦で泣いて喜び、安堵した。
娘の手で開けられた扉から、外の光が狭い玄関に溢れて、比喩だけでなく、娘が輝いて見えた。
年々大きくなる。
手を離れてゆく。
知らないことが増えてゆく。
それはきっと、喜ばしいことなのだろう。
行ってきます、と振り返る娘に、一抹の寂しさなどは胸の内に押し隠しながら、負けじと笑顔で声をかけた。
「行ってらっしゃい、りん。気をつけて。」
了