08 ツヨシの息遣い
はぁ、はぁ、はぁ……
窓の外は暗く、まだ夜明け前です。
はぁ、はぁ、はぁ……
扉の先、リビングからツヨシの荒い息遣いが聞こえています。
ツヨシは、こんな真夜中にナニをしているのでしょうか。
確信はないのですが、男性のあのような荒い息遣いを聞くと、ナニをしているのかと不安になります。
あ、私が気にしているのは、ツヨシが真夜中に『ナニをしているか』ではなく、『何をしているのか』です。
微妙なニュアンスの違いで、破廉恥な妄想をしていると思われそうなので訂正しておきます。
はぁ、はぁ、はぁ……
扉を開けてリビングの様子を確認する勇気はないのですが、万が一のために右手の義手を装着すると、首にチョーカーを巻きました。
おいらは、ツヨシ兄ちゃんに夜這いされるアリスさんに興味があるんです。
おいらは、ツヨシ兄ちゃんに夜這いされるアリスさんに興味があるんです。
おいらは、ツヨシ兄ちゃんに夜這いされるアリスさんに興味があるんです−−
寝る前に聞いたスミス君の戯言が、何度も頭を過ります。
あの純朴そうなツヨシに限って、ゲスミス君のような真似をするはずがありません。
でもツヨシとは知り合ったばかりで、人間性を完全に把握していると断言できないのも事実です。
はぁ、はぁ、はぁ……
ツヨシがその気になれば、いくらでもチャンスがあったはずなのに、そんな兆候はなかったではありませんか。
しかし万が一はありますし、大男のツヨシに押さえ付けられたら、私に逃げ場がありません。
ツヨシは命の恩人ですし、あの逞しい体に興味がなくもないですが、力づくで襲われては困ります。
ええ、私は処女なので。
いやいやいやいや、そういう問題ではなくてですね。
ツヨシが一人でナニをしていても、ここは彼の家なので、私には無関係じゃないですか。
はぁ、はぁ、はぁ……うッ
うッって何ですか!?
「終わった」
終わったってナニが終わったんですか!?
ドサッ
ドサッって、なんなんですか!?
私は好奇心に負けて、扉を少しだけ開けると、汗だくのツヨシがソファの向こう側に立っています。
ツヨシの盛り上がった大胸筋からは、湯気が立ち上っています。
私は目のやり場に困ると同時に、見事に仕上がった筋肉に目が釘付けです。
理性と本能は、二律背反しないんですね。
驚きました。
「アリス、何?」
ツヨシと目が合った。
振り返ったツヨシは、水筒を片手にタオルで汗を拭っています。
【こんな真夜中に、ツヨシこそ何をしているんですか?】
私は努めて冷静に、扉を開けて近付きます。
ツヨシの足元には、鉄の輪っかを両端にぶら下げた棒が二つ転がっており、彼が飲んでいるのは、たぶんプロテインでしょう。
「フリーウェイト、筋肉、育てる」
【フリーウェイトとは、何でしょうか?】
ツヨシは、鉄の輪っか付きの棒を片手に取ると、それを持ち上げたり、下ろしたり、手にしたまま上下に動かしています。
つまり『フリーウェイト』とは、重い鉄の棒を使った筋トレですね。
この世界の筋トレは、太刀や斧など重い武器を振り回しているのですが、きっとツヨシのいた世界では、トレーニング専用の器具を使っているのでしょう。
【私も、フリーウェイトをやっても良いですか?】
「ダンベル、持ち上げる」
ツヨシが指差した鉄の輪っか付きの棒は『ダンベル』と言うらしいです。
私は、床に置いてあったダンベルを持ち上げようとしますが、びくともしません。
「アリス、無理、重い」
ツヨシは、棒の両端にある鉄の輪っかを二つ外して一つにしてくれます。
ダンベルは、鉄の輪っかの数で重さを調節するようです。
私はダンベルを初めて見ますが、合理的な筋トレ器具ですね。
【一つなら、どうにか……持ち上がります……けど、これはキツイですね……はぁ、はぁ、はぁ……】
「毎日、フリーウェイト。アリス、筋肉、育てる」
【いいえ、受付嬢に筋肉はいりません。それに私の腕は−−】
義手だから鍛えても強くならないと言いかけましたが、ツヨシが義手に気付いてないので、伝えるのを止めました。
「プロテイン、筋肉、育てる」
ツヨシは、ダンベルを床に置いた私に、チーズの絞り汁をすすめてきたので、一口だけ飲んでみましたが、美味しいものではありませんでした。
「アリス、もっと飲め」
【美味しくないので、もう飲めません】
ツヨシは毎晩、寝る前に筋トレしており、夜這いを企んでいるというのは、私の杞憂だったようです。
もっともスミス君が、余計なことを言わなければ、私も良からぬ妄想をしなかったので、全てはゲスミス君が悪い。
◇◆◇
翌朝。
目の下にクマを作ったスミス君が、神妙な面持ちで部屋から出てきました。
「アリスさん、おいら今日からギルドに泊まることにします」
【どうしてですか? 私は、スミス君のようなスケベと離れられて嬉しいですが】
「おいらがスケベ? アリスさんは、リビングにいたツヨシ兄ちゃんに夜這いしていたくせに、おいらを『スケベ』呼ばわりなんですね」
【え、私がツヨシに夜這いですか?】
「だってそうでしょう! ツヨシ兄ちゃんが夜這いするなら、アリスさんの部屋に行くじゃないですか? なのにツヨシ兄ちゃんの荒い息遣いで起こされたら、アリスさん、ツヨシ兄ちゃんとリビングで『飲め』とか、『美味しくない』とか、家に12歳の子供がいるのに、どんな会話しているんです!」
【ああ、それはスミス君の誤解ですよ】
「おいらは、初なアリスさんが凌辱されるのに興味があるんです! 自分からツヨシ兄ちゃんを襲うなんて、アリスさんのこと見損ないましたよ!」
【ゲスミス君は、清々しいほど人間のクズですね】
「おいらがいるのに、人目も憚らず愛し合うアリスさんなんて不潔です。おいらは、初なアリスさんが好きだったんです」
【スミス君は、私が好きだったの?】
「おいら、おいら……、初なアリスさんを視姦するのがすきだったんです!」
ついに言い切ったな。
スミス君は『アリスさんの隠れヤリマン!』と、泣き叫びながら市街地に走り去るのでした。
スミス君とは、しばらく疎遠になろうと思いました。