00 迷い込んだ魂
児童養護施設で育ったツヨシは、親の顔を知らない天涯孤独だった。
そんな頼れる者がいなかったツヨシは、肉体を鍛えることで弱さを克服したつもりだったが、鍛え過ぎた筋肉の鎧が人々を遠ざけてしまう。
ツヨシが街を歩けば、ゴロツキや不良が道を譲り、そんな彼の仲間だと思われたくなかったのか、もともと少なかった友人とも疎遠になった。
筋トレばかりに明け暮れていたツヨシは、施設を退所してから工事現場の日雇労働で生活していたものの、総合格闘技のプロモーターを名乗る男にスカウトされる。
ツヨシの格闘家として人生は、その日から始まった。
「ツヨシ、今夜のファイトマネーだ」
ツヨシは無言のまま、テーブルに積まれた札束を鞄に仕舞うと、ニヤけながら『次の試合も稼がせてくれよ』と言ったプロモーターに頷いた。
ツヨシをスカウトした男は、試合の勝敗を賭けにする地下格闘技の主催者であり、彼らの行っているのは違法賭博である。
身寄りのないツヨシは、違法行為だと知りながら、自分を拾ってくれたプロモーターに逆らえず、悩みながらもリングに立っていた。
ツヨシに親しい人や家族がいたなら、もっと日の当たる場所で活躍していたであろう。
しかしツヨシの周囲には、連戦無敗の格闘家である自分を評価してくれる悪徳プロモーターしかいなかったのである。
「女の子が、トラックに轢かれるぞ!」
その声に振り向いたツヨシは、赤信号に気付かずトラックの前に立ち竦む少女を見つけて、咄嗟にガードレールを飛び越える。
少女を抱えて逃げられるのか、反対車線に突き飛ばしても安全とは限らなければ、鍛え上げた筋肉でトラックを受け止めるしかない。
「来い!」
トラックは急ブレーキをかけたものの、両手を広げたツヨシを背中に隠れた少女ごと吹き飛ばした。
当たり前である。
疾走してくるトラックを受け止められる人間は、この世界に存在しない。
鍛え上げた筋肉であっても、向かってくるトラックを止められるはずがないと、そんなことはツヨシにも解っていた。
しかし孤独に生きてきたツヨシは、少女を守るためにトラックの前に立ちはだかったのである。
少しでもトラックの軌道が逸れてくれれば、少女だけでも助かるかもしれないと思ったからだ。
天涯孤独のツヨシが、誰かを守るために死ぬのであれば、それが最良だと思った。
……。
ツヨシは薄れゆく意識の中で、目を見開いて耳から血を流す少女と向き合っている。
ツヨシは結局、少女を守れずに無駄死にする。
アスファルトに横たわるツヨシの体は、スマホのカメラを向ける人混みに消えた。
……。
……。
……。
……。
……。
……。
……。
……。
あの事故から何時間が経過したのだろう。
いいや、まだ事故直後かもしれない。
ツヨシは、そんなことを考えながら、言い争うような女性の声を聞いていた。
「女神様、お願いします! 私を守ろうとした彼にも、異世界での第二の人生を与えてください!」
「無理を言わないでください」
「彼は、私の命の恩人なんですよ!」
「結果的には、二人とも亡くなっているので『命の恩人』ではありません」
ツヨシの意識がはっきりすると、そこは真っ白な空間で、自分と一緒に死んだはずの少女が、語気荒く誰かと話している。
「私が死んだのは、結果論じゃないですか!」
「私が魂を導いたのは、カオリだけなのです。その男は、たまたまカオリの魂召喚に巻き込まれただけです」
ツヨシが守り切れなかった少女の名前は『カオリ』らしい。
ではカオリが『女神様』と呼んでいる女は、いったい誰なんだと、ツヨシは思った。
「どうして彼は、異世界転移できないのですか」
「私が魂召喚したカオリは、魔法の存在を信じていれば、私が魔力や魔道具を授ければ、異世界に順応して、すぐに魔王を倒す異世界人になれるでしょう。でも残念ですが、その男が信じるのは、己の筋肉のみです。存在を拒絶している人間の魂には、魔力や魔道具を授けることができないのです」
「そうなんですね」
「魂召喚した人間の強さは、心に描いた真念と想像力にあります。それに選ばれしカオリはともかく、一般人がモンスターと対峙すれば、発狂してしまうでしょう」
魔法とは何だ?
魔王とは何だ?
召喚とは何だ?
異世界とは何だ?
ツヨシには、二人の会話が理解できない。
なぜならツヨシは、異世界もののアニメはおろか、魔法使いが登場する絵本だって読んだことがなかったからだ。
「魔王と戦う異世界人じゃなくても、異世界で生きていけるようにできませんか。彼のことは、私が守ってみせます」
「このまま、魂を虚空に戻す方が−−」
女神はツヨシが立ち上がると、言葉を飲み込んだ。
ツヨシは招かれざる客であり、魂召喚の部屋では目覚めないはずだからだ。
「貴方も目が覚めたのですね」
「迷い込んだだけの魂が、私の許可なく意識を覚醒させるなんて、ちょっと驚きました」
「女神様、やっぱり彼も異世界転移してください! 彼が、ここに来たのも、きっと何かの運命なんですよ」
女神は『運命ですか』と、少し考えてから肩を竦めた。
「では迷い込んだ魂、貴方は、私の創造した世界を崩壊させる魔王を倒してくれますか?」
ツヨシには、魔王が何者か解らなかったものの、彼が地下闘技場で連戦無敗の絶対王者であれば、負けるはずがないと思った。
「解った」
「では、貴方たちに幸運があらん事を祈ります」
女神が足を踏み鳴らすと、ツヨシとカオリは光の矢になって異世界に転移した。
◇◆◇
それから半年。
魔法の概念がなかったツヨシは、魔力を得ることも、魔法道具が具現化することもなかった。
「ツヨシ、また月を見上げて感傷に耽っているのか?」
「マイセン、俺、言葉、解らない」
「まあ言葉なんて、そのうち話せるようになるだろうさ。俺が一緒にいてやるから、とりあえず気長にやろうぜ」
「マイセン、ありがとう」
それどころかツヨシは、女神が創造した世界の言語も理解できず、自分を拾ってくれた冒険者マイセンがいなければ、路上生活で餓死していただろう。
「そんなことよりツヨシ、俺の代わりに、このクエスト『ゴブリンの群れ全滅』を消化してくれないか? ギルドスタッフが、格下のクエストばかりクリアするなってうるせぇからよ。たまには、実力に見合うクエストも受注しねぇとさ」
「マイセン、解らない」
「ああ、ツヨシには、まだ難しかったな」
「ごめん」
マイセンは、ゴブリンの巣穴までの地図を渡すと、身振り手振りで、2、3匹だけ倒して戦利品を持ち帰るように伝えた。
ツヨシは頷いた。
「よし、じゃあ俺の奢りで美味いもんでも食いに行こうぜ」
「マイセン、感謝」
悪徳プロモーターと雰囲気が重なるマイセンは、天涯孤独だったツヨシにとって友人であり、初めてできた家族のような存在だった。
これは異世界格闘家ツヨシが、冒険者ギルドの受付嬢アリスと出会う前日譚である。